【説教・音声版】2023年1月29日(日)10:30 顕現後第4主日礼拝 説 教 「 イエスの幸福論」浅野 直樹 牧師



聖書箇所:マタイによる福音書5章1~12節

本日の説教題は、「イエスの幸福論」といたしました。

誰もが、幸せ・幸福になりたいと思うものです。幸いにして、と言いますか、私たちの日本国憲法にも、この幸福追求の権利が認められています。第13条です。「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」。確かに、ここに「公共の福祉に反しない限り」とありますので、幸福追求といっても、何でもかんでも良いということではないでしょうし、一人一人が違った幸福の理解、つまり多様性があるということでもあるのでしょう。必ずしも確固とした共通理解がある訳ではない。

ですから、私たちはいろんなことを考えては、思い巡らせては、それらを追求しようとする訳ですが、しかし、案外、本当の幸せ・幸福とは何か、ということが分かっていないのかもしれません。

その点、イエスさまははっきりしています。イエスさまには、幸福・幸せの基準がちゃんとあるからです。それが、今朝の「山上の説教」でした。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」。

よく知られている「八福の教え」です。が、正直、どうでしょうか。このイエスさまの幸福の理解についていけるでしょうか。確かに、後半の「憐れみ深い人々」「心の清い人々」「平和を実現する人々」というのは、分かる気がします。「情けは人の為ならず」ではありませんが、何か良いことをしておけば、巡り巡って自分も幸せになれるのではないか、と思えるからです。しかし、前半は、あるいは、最後の「義のために迫害される人々」というのはどうでしょうか。果たして、これが、これらが幸せと言えるのだろうか。これで、幸せになれるというのだろうか。むしろ、不幸ではないか、と思われないでしょうか。そうだと思います。単純に見れば、そうとしか思えない。

このイエスさまの一風変わった、と言いますか、なかなかに独創的な「幸福論」を理解するためには、一つのポイントを押さえておかなければならないと思います。それは、「天の国」です。先週の説教でも言いましたように、これは「神の国」と言っても良い。この「八福の教え」の最初と最後に出てくることからもお分かりになるように、実は、この「幸いなるかな」というのは、この「天の国・神の国」で包まれているのです。

今日の日課の冒頭には、このように記されていました。「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた」。イエスさまは、「この群衆を見て」山に登られて教えられた訳ですから、これらの教えを「山上の説教」と言っている訳ですが、では、「この群衆」というのは一体誰のことかといえば、先週も少し触れましたイエスさまが宣教されていった人々だった訳です。少なくとも、マタイはこの連続性の中で語っているように思います。

山上の説教 :1912年頃 Rudolf Yelin (1864–1940) ドイツ


では、そのイエスさまが宣教をされていった群衆とは一体どんな人たちだったのか。それは、先週もお話ししましたように、イザヤが語った「暗闇に住む民」「死の陰の地に住む者」たちでした。具体的に言えば、病める者たちです。悪霊に苦しめられてきた者たちです。いわゆる、「神も仏もあるものか」と言いたくなるような不幸な人たちです。「そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。」とある通りです。

ある方はそんな群衆と弟子たちとを分けて考えておられるようです。「腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た」と記されているからです。ですから、聞く耳のあった弟子たちにはしっかりと教えられたが、いわゆる一般群衆には教えておられないのだ、だから彼らは理解できなかったのだ、と言われる。しかし、私にはそうは思えないのです。少なくとも、マタイを読む限り、これまでで正式に弟子になったのは、たったの4人だけです。そんな4人だけに向けてイエスさまは話されたのだろうか。いいえ、違うと思います。

もちろん、集まってきた群衆の中にも温度差はあったでしょう。真剣に話を聞こうとする者もいれば、冷やかし程度の者もいたかもしれない。しかし、それでも、群衆はイエスさまを慕って、期待して従ってきた。その人たちに向かって、もちろん、その中にはあの4人の漁師たちも、また新たに弟子になっていった人々もいたでしょうが、つまり、先ほど言ったような、イザヤに言わせると「暗闇に住」んでいた人々が、「死の陰の地に住」んでいた人々が、不幸でしかなかった人々が、イエスさまの話を聞いたのではないか。

「あなたがたは幸いなのだ」と。これまで自分たちは不幸だと思っていた。思い込んできた。神さまからも見捨てられ、むしろ罰せられているのではないか、と思わざるを得なかった。こんな私たちなど、幸せにはなれないのだ、と。あの人たちのように幸福にはなれないのだ、と。それなのに、そんなふうにしか思えなかったのに、イエスさまはいきなり言われたのです。「あなたがたは幸いなのだ」と。問題が解決したから。
不幸だと思っていた事柄が取り去られたから。自分たちも生活が変えられて、羨ましいと思ってきたあの人たちと同じようになれたから。いいえ、そうではありません。あなたがたが貧しいからこそ幸いなのだとイエスさまはおっしゃるのです。なぜなら、だからこそ、あなたがたは天の国を手に入れるのだから、と。

箴言に非常に興味深い言葉が記されています。30章7節以下です。聖書協会共同訳で読みます。「私は二つのことをあなたに願います。私が死ぬまで、それらを拒まないでください。空いものや偽りの言葉を私から遠ざけ 貧しくもせず、富ませもせず 私にふさわしい食物で私を養ってください。私が満ち足り、あなたを否んで 『主とは何者か』と言わないために。貧しさのゆえに盗み、神の名を汚さないために」。豊かになりすぎて、何も困らなくなると、神さまから心が離れてしまう危険があるし、かえって貧しすぎると悪事に手を染めて、神さまの御名を汚すことにもなりかねない。だから、どちらにも傾かないようなバランスで私を支えてください、と願う。非常に考えさせられる言葉です。

マタイでは、「心の貧しい人々」となっていますが、元々はルカが記していますように、ただの「貧しさ」を意味していたと言われています。どちらにしても、「貧しい」のです。綺麗事では済まないのです。腹が減って盗みにまで手を染めてしまうかもしれない。それが、本当に幸いなんだろうか。「悲しい」のです。涙が溢れて仕方がないのです。愛する者との死別を経験する。信頼し切っていた人からの裏切りを経験する。突然に財産をみんな失って無一文になってしまう。余命後どれだけと宣告されてしまう。悲しくて悲しくて仕方がない。それが、幸いなのか。ここでは「柔和」と訳されていますが、どうやらそんないいものではないらしいのです。もともとは「卑しい」「取るに足りない」という意味らしい。

ですから、織田昭(おだ あきら)という方は、この「八福の教え」をこう意訳しておられます。「神の前に、恥ずかしくも文無し同然の人間の幸いよ。悲しみに打ちのめされる人の幸いよ。何とも無力でみじめな人の幸いよ。」と。まさに、暗闇に住む者、死の陰の地に住む者。その現実が、どうして幸いだなどと言えるのか。そうです。それでも、イエスさまは、彼らは幸いだ、と言われる。決して、あなた方は不幸ではない、と言われる。なぜなら、あなたがたは「天の国・神の国」を得ることができるからだ。そのために、そのためにこそ、私が来たからだ。そうおっしゃってくださる。

本当の幸い・幸福を考えるためには、本当の不幸についても考えなければならないのかもしれません。なぜ彼らは不幸なのか。貧しいからか。病にかかっていたからか。悪霊に取り憑かれていたからか。もちろん、そうです。それらの現実が彼らを不幸にしていた。しかし、本当の彼らの不幸は、その不幸こそが、神さま不在の現実に他ならない、と受け止めざるを得なかったからです。神さまから見捨てられている結果だ、神さまから罰せられている結果だ、と思い込まされていたからです。だから、希望の持ちようもなかった。この希望のなさこそが、私たちを不幸にする。

イエスさまはそうではない、とおっしゃる。天の国・神の国はあなた方の只中に来たではないか、とおっしゃる。そのための私ではないか、とおっしゃる。だから、あなた方は幸いなのだ、と。なぜなら、貧しい者には、神さまが天の国を与えてくださるのだから。悲しむ者には、神さまが慰めてくださるのだから。自分には何もない、と落胆している者にも、神さまはちゃんと地を受け継がせてくださるから。この世に本当に正義などあるものか、と嘆くしかないような者にも、神さまがちゃんと正義を成してくださることを教えてくださるから、だから、あなた方は決して不幸ではないのだ。むしろ、幸いな人たちなのだ、とおっしゃられるのです。

それでも、綺麗事だと思われるでしょうか。こんなことでは、幸いになどなれないと思われるでしょうか。では、イエスさまは、イエスさまご自身はどうだったでしょうか。イエスさまは不幸だったでしょうか。人々から冤罪を押し付けられ、弟子たちからも裏切られ、見捨てられ、十字架につけられていったイエスさまは不幸だったでしょうか。自分の生涯は、結局は不幸でしかなかったと嘆かれたでしょうか。そうではなかったでしょう。

私自身のことで言えば、父を早くに亡くし、再婚相手の義理の父から虐待を受け、実の 母からも虐待を受け、そのせいか人間不信・人間嫌いに陥り、正直、今も引きずっている部分がないわけじゃない、そんな私は不幸なのか。そうです。不幸です。不幸だと思って来ました。イエスさまと出会うまでは。そういう意味では、私自身も、このイエスさまによって幸いを知らされた者です。

そうそう現実は変わらないのかもしれません。心の持ちよう、気休め、と言ってしまえば、それだけなのかもしれない。しかし、本当にそうだろうか。少なくとも、私自身は、そうとは思えない。イエスさまを知ったからこそ、天の国・神の国を与えられたからこそ、あの時も、あの経験も幸いだった、と言える自分がいる。皆さんも、そうではないでしょうか。