【説教・音声版】2022年11月20日(日)10:30 子ども祝福式礼拝(聖霊降臨後最終主日) 説 教 「楽園へ連れて行ってくださる方 」 浅野 直樹 牧師



聖書箇所:ルカによる福音書23章33~43節

早いもので、今年も残すところ後わずか、教会の暦としては最後の主日礼拝となりました。と言っても、どうも日本人の私たちにとっては、1月1日が「年の初め」と骨の髄まで染み込んでいますので、まだひと月以上も残っているではないかと、ピンと来ないのも正直なところですが…。

ま、しかし、この一年も色々なことがありました。相変わらず、新型コロナに翻弄された一年ともなってしまいました。しかし、やはり大きいのは、お分かりのように、ロシア軍によるウクライナ侵攻でしょう。2月にはじまったあの戦争が、予想外と言っても良いと思いますが、いまだに続いている。いいえ、終わりが全く見えて来ません。これは、今年一番の大ニュースでは済まないでしょう。戦後一番の大ニュースと言っても言い過ぎではないのかもしれない。なぜなら、戦後築かれた世界の常識が、あまりに呆気なく壊されてしまったからです。

今までも、代理戦争と言われるような武力衝突は何度もありました。しかし、国連安保理常任理事国の一角を担う大国が、堂々と直に隣国を武力をもって攻め込むなんて、一体誰が考えていたでしょうか。この21世紀になって、そんな割りの合わない戦争など起こさないと誰もが思っていたはずです。しかも、世界1、2位を争う核兵器大国が核兵器を持たない国を、核使用で脅すなんて…。これらをきっかけに、これまでも度々指摘はされて来ましたが、安保理が役に立たない、機能不全であるということが明らかになってしまった。国連は、この事態に何も対処できなかった。これほど大きな現状変更は、戦後なかったと思います。

先週は中央沿線地区の講壇交換として、八王子教会の坂本先生に来ていただきましたが、終末について、世界の終わりについて話されたと思います。これは、教会の暦の終わりに近づくと、毎年のことではありますが、しかし、先ほど言ったような状況からも、戦争や暴動、異常気象からくる天変地異、442年ぶりの皆既月食、天王星食に見られる天の著しい印など、今まで以上に現実感をもってお聞きになられたのではないでしょうか。それに対して(世界の終わりに対して)、今日の日課は、個・個々人の終わりについて、と言えるのかもしれません。

なぜなら、葬儀の式文にこうあるからです。これは、出棺の時に読まれるものですが、「十字架にかけられたひとりは言った。『イエスよ、あなたの御国においでになるときは、わたしを思いだしてください』。するとイエスは、『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と言われた」。

もちろん、この世界の終わり、「終末」についても無関心であってはならないでしょうが、しかし、それ以上に私たちは、自分の終わり、つまり「死」について関心を持たざるを得ないのだと思います。そんな私たちの終わり、「死」に何が待っているのだろうか。

磔刑:アンドレア・マンテーニャ (1431–1506) イタリア、ルーヴル美術館


「あなたは今日わたしと一緒に楽園(パラダイス)にいる」とイエスさまは約束してくださっています。
ところで、今日の日課には…、イエスさまの十字架のシーンになる訳ですが、非常に興味深いことが記されていたと思います。それは、ここに3種類の人々、議員、兵士、犯罪人の一人が登場して来ますが、どれも、同じようなことをイエスさまに語りかけているからです。「自分を救ってみろ」と。実はここに、彼らの大きな躓きがあったように思うのです。

最初に言いましたように、今日は聖霊降臨後最終主日です。しかし、教会手帳を見てみますと、「永遠の王キリスト」とも記されています。ご存知のように、メシア・キリストという言葉は、元々は「油を注がれた者」という意味です。これは、預言者や祭司にも当てはまるものですが、その多くが王(様)を表しています。つまり、イエスさまを「王」とする理解です。今日の旧約の日課にもそのことが記されています。これは、メシア預言と言われるものの一つです。エレミヤ書23章5節「見よ、このような日が来る、と主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄え この国に正義と恵みの業を行う」。

本来メシアとは、王を連想させるものです。人々は、そのようなメシアを期待していました。そして、メシアとしての王とは、こんな人々の手に引き渡されて、惨めに罪人(ざいにん)として十字架刑に処せられるようなものではないはずです。だから、「降りて来い」「自分を救ってみろ」なのです。そうでなければ、王とは言えない。逆に言えば、イエスさまは十字架から降りられたらよかった。十字架から降りて、自分を救われて、ご自分が王であることを明らかにされたら良かった。そうすれば、少なくとも「自分を救ってみろ」と言っていた人々は恥入り、イエスさまの元にぬかずいたことでしょう。

しかし、イエスさまはそうされなかった。ある方はこう言っています。イエスさまは十字架から降りることも、ご自分を救うこともできたのに、そうされなかった、と。そうだと思います。あえて、人々の期待に応えられなかった。当時の人々のメシアの常識に挑まれていった。むしろ、十字架の王こそが、メシアなのだ、と。

どこぞの権力者・支配者の常識破りには辟易しますが、こんな常識破りなら、大歓迎です。どこの王が、支配者が、権力者が、自ら十字架に向かったでしょうか。自らを犠牲にして、人々を救おうとしたでしょうか。いつでも、どの時代でも、王とは、支配者とは、権力者とは、誰よりも、どんな手を使ってでも自分の命を助けるものです。何よりも、自分自身を救おうとするものです。自分は安全な場所にいながら、戦争を煽り立てて、人々を戦地へと送り込むようなものです。

以前、30万人の動員が行われた時、ある側近の息子に当局を装って、あなたにも招集がかかったと、いわゆるドッキリを仕掛けた報道がなされていましたが、自分が誰の息子か分かっているのか、と恫喝している様子が波紋を呼んでいました。そうです。力ある者たちは、上に立つ者たちは、権力者たちは、いつもそうなのです。口ではいいことを言っていても、自分の命が、自分の救いが、自分のことが最優先。それ以外のことは、二の次三の次でしかない。それが、王の姿。常識的な姿。しかし、イエスさまは違った。イエスさまは決して、自分を救われなかったのです。救えたのに、助かることができたのに、そうされなかったのです。

イエスさまは確かに王です。旧約聖書に預言されていたメシア、永遠の王キリストです。使徒書の日課、コロサイの信徒への手紙にも、こう書かれていました。「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました」。

そうです。イエスさまは単に王にとどまらない。「神の姿」でもあられる。なのに、なのに、この世界は全て御子、イエスさまのものなのに、イエスさまが好きにしていいものなのに、イエスさまはご自分を救おうともせず、自ら十字架の道を歩み、私たち普通の人間でも行きたくないような場所、避けてしまいたいような不浄な場所にも赴かれ、人々の罪を背負い、痛みを担い、病を知り、命を捨てられた。なぜか。人を救うためです。私たちを救うためです。人を、私たちを、この世界を救うためには、その方法しかなかったからです。

一般常識の王では人は救えない。常識を打ち破ってくださったイエスさまだからこそ、救われるのです。だから、こうも記されている。「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました」。

「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」との約束を頂いたのは、一緒に十字架につけられた罪人(ざいにん)の一人でした。そうです。彼はイエスさまとは違い、まさに十字架につけられるような罪人だったのです。それは、彼自身が認めているところです。

「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」。この罪人が「今日わたしと一緒に楽園(パラダイス)にいる」と言っていただけた。もし、イエスさまがさっさと自分を救って十字架から降りてしまわれたら、彼にはこんなチャンスはなかったでしょう。しかし、イエスさまは十字架を降りられなかった。一緒に、罪人の彼と一緒に、十字架についてくださった。だからこそ、一緒に楽園にいる、との約束をいただくことができたのです。そして、彼は自分の最後を迎えることができたのです。

誰でも、自分の最後を考えることは、恐ろしいことです。不安にもなります。しかし、いいえ、だからこそ、私たちはなおも十字架の王、十字架のイエスさまを見上げる必要があるのではないでしょうか。私たちのために、救いを成し遂げてくださった真の王を見上げる必要が。そして、こう語ったらいい。自信がなくても、後ろ暗いことがあったとしても、罪悪感を持っていたとしても、こう語ったらいい。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と。そうすれば、私たちの永遠の王はきっとこう答えてくださるでしょう。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と。