【 説教・音声版 】2022年11月06日(日)10:30 全聖徒主日(召天者記念)礼拝 説 教 「 神の国はあなたがたのもの 」 浅野 直樹 牧師

聖書箇所:ルカによる福音書6章20~31節


これは、ある高名な先生の話です。この方は非常に立派なキリスト者で、また著名な大学教師でもありました。この方の最晩年、万死の床に臥された時、非常な不安感からひどく取り乱されたそうです。これまで数多く講演会などで、キリストにある救い、死に打ち勝つ命・永遠の命等の話をされて来られたのに、です。いくら熱心な信仰者で、キリスト教信仰の理解に長けておられたとしても、他人事ではなく自分事となった時に、人はそのようになってしまうのだ。若い頃、私もよく知っている先生の話でもあったために、ひどく衝撃を受けたものです。そして、自分はそうはなるまい、と心に堅く決めたのでした。

しかし、そうではありませんでした。あれから何年も経ってからのこと、息子がみるみる衰弱し、誰の目にも明らかなほどに死の時が近づいてきた時、私は恐怖に囚われたからです。息子との死別を恐れただけではありませんでした。息子の死にゆく姿を通して、己自身の死を映し見たからです。

父をガンで早くに亡くし、「お前はガンの時の子、お前は長生きできない」と言われ続けてきたせいか、私はどこかで死を覚悟していた気になっていたと思います。どうせ早死にするのだろう、と。しかし、それは、所詮他人事でしかなかったのです。まさに自分事となった時に、そんなふうに死を達観視してなどいられなかった。恐ろしかった。おそらく、はじめて死の恐怖を実感した時だったと思います。

私たちの先達であるマルティン・ルターもまた、死を恐れた人でした。彼は救いを求めて修道院入りをしていく訳ですが、その背景にあったものは、死への恐れではなかったか、とも指摘されています。ご存知のように、ルターが生きた時代は、黒死病・ペストが度々流行した時代でもありました。諸説ありますが、一説によると人口の3分の1が死亡したのではないか、とも言われています。3~4人に1人がペストで命を落としたのです。

そんなペストによったかどうかは分かりませんが、彼は大学卒業までに複数の友人と恩師の死を経験しました。また自身も不注意から致命傷的な怪我を負い、生死の境をさまよったとも言われます。私たち以上に、死を他人事としていられない現実の中で、死の問題の克服を願っていったのでしょう。そればかりではありません。彼にとっての死とは、単に肉体の死、消滅を意味しませんでした。死とは神さまとの関係の中で捉えるものです。

つまり、簡単に言ってしまえば、死んだ後、神さまの祝福の中に入れられるのか、それとも、刑罰の苦しみを味わうのか、です。これは、確かに、中世に生きたルター特有の悩みだとも言えるのかもしれませんが、では、現代に生きる私たちには無縁なのでしょうか。私はそうは思いません。生前は特定の信仰、宗教観をもっていない人でも、死の床にあっては無視できなくなるとも言われているからです。いわゆる、天国か地獄か、です。実は、この悩みは現代でも決して小さくないのです。多くの人が、このことに不安を覚えている。自分の死後に安心できないでいる。それが、死への恐れ・不安ともなっているのではないか。

先ほどお読みした今日の福音書は、よく知られたイエス・キリストの教えです。同様の内容がマタイによる福音書にも記されていますが、こちらは「山上の説教」(こちらの方がよく知られていると思いますが)と言われるのに対しまして、このルカ福音書の方はと言われたりします。6章17節で、「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。」と記されているからです。この箇所の細かな内容については、今日はお話しすることはできませんが、ひとことで言えば「人生の逆転」と言えるのではないでしょうか。

はじめに、「幸いな者」の例がいくつか記されていますが、どれも幸いとは言えないからです。「貧しい人々」「今飢えている人々」「今泣いている人々」、「人々に憎まれ」ている人々のどこが一体幸いなのでしょうか。今、アフリカでは何十年ぶりかの大旱魃で大変苦しんでいる方々が多くおられますが、そんな彼らに「あなたたちは幸いですね」なんて言ったら、おそらくタダでは済まないでしょう。

それに対して、「不幸」だ、と言われている人々は本当に不幸なのでしょうか。「富んでいる」者、「満腹している」者、「笑っている」者は不幸なんだろうか。いいえ、私たちは、それこそが幸福なのだと思って頑張っているはずです。少しでも豊かになれるように、家族においしい物を腹一杯食べさせるために、いつも笑っていられるように、私たちは身を粉にして働いている、働いてきた。むしろ、それを「不幸だ」と言われる方が心外です。頑張る意味がなくなってしまう。確かに、そうです。ごもっともな理屈です。私自身、それについて反論するつもりはありません。

ジェームズ・ティソ(1836–1902):「イエス、湖の辺りで人々に教える」、1886―1894年、ブルックリン美術館所蔵


私自身、そうしているのですから。しかし、では、本当にそれで人は幸せになれるのか。それもまた、考えものです。確かに、必要なものに違いないかもしれませんが、しかし、富が、満腹が、笑いが、私たちの幸いの補償に本当になるのか、といえば、どうでしょうか。少なくとも、死に対しても、死後に対しての補償にも、本当になるのだろうか。なぜなら、私たちにとっての幸いの補償とは、人生だけでは済まないからです。必ず誰もが死を迎える。その時の幸いの補償はいらないのか。生きている間のことだけで、果たして十分なのか。それも問われる。

先ほども言いましたように、ここでは「人生の大逆転」が起きている訳です。本来「不幸」と思えるような人々が「幸い」となり、本来「幸福」だと思えるような人々が「不幸」になる。では、その違い、大逆転はどうして起こるのか。「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである」。そうです。神の国を得るからです。もっと言えば、神さまご自身を得るからです。神さまがいてくださる。そのことが大逆転を起こすのだ、というのです。

先ほども言いましたように、死に際しては、富も、権力も、名誉も、何も補償にはなりません。裸で生まれてきた私たちは、裸で帰るしかないからです。この世のものは何一つもっていくことなどできない。「地獄の沙汰も金次第」とはいかないのです。先ほどお話しした天国か地獄か、だけが私たちの不安ではありません。ひとりぼっちになることです。すべての関係性から断ち切られることです。

それもまた、不安で恐ろしいことです。そして、ひとりぼっちで全く未知なる世界へ飛び込まなければならないことも、不安で、恐ろしくて、たまらない。そこに、神さまがいてくださる。この世だけでなく、全てを超越して私たちを支えてくださる方がいてくださる。それが、どれほど心強いことか。これほど幸いなことがあるだろうか。そう思う。

確かに、そうです。私たちには神さまがいてくださる。だから、幸いなのです。もはや不幸ではないのです。たとえ、死におよんだとしても。確かに、そう。しかし、最初にお話ししたように、ことはそう単純ではありません。たとえそのことを十二分に信じていたとしても、不安に落とされ、取り乱してしまうのも、また死の現実でもあるからです。

先ほどはルターの話を少ししましたが、ルターはこのような小さな書物を書いています。『死への準備についての説教』です。ルターは福音の再発見によって、この死の克服をしていったと思いますが、それでも死の持つ力強さを強く認識していたのでしょう。彼はそのことに触れながら、対処法を語っていくのです。そこで必要になってくるのは、御言葉、イエス・キリスト、聖徒たちだ、と言います。御言葉については、いいでしょう。そこに、全ての始まりがある。イエス・キリストについては、その救いの業への注目もさることながら、その死にも視線を向ける必要がある、と言います。

イエスさまも私たちと同様に死を経験されたからです。イエスさまは最後の最後まで神さまを信頼して、死に臨んだ。それが、私たちの手本となるということです。そして、聖徒たち。今日は全聖徒主日ですので、ここにも注目したいと思うのですが、やはり私たちは、この先達たちの生き様、そして死に様にも思いを向ける必要があると思うのです。私自身、息子との死別は大変大きな痛みでしたが、しかし、彼の死によって自分自身の死を大きく乗り越えることができた、とも思っています。彼が神さまのもとで祝福の中に安らいでいることへの確信。そして、自分もまた時いたって、彼と再会できるという希望。このことが、私たちを待ち受けている。

皆さんもそうではないでしょうか。皆さんにも見習うべき聖徒、信仰の先達たちがいる。あるいは、今を共に生きている仲間たちがいる。この方々が私たちを力づけてくださる。御言葉を学びます。信じます。イエスさまを見上げます。信じます。それでも、不安になってしまう弱き私たちがいるのも事実でしょう。しかし、そこにも聖徒の交わりがある。すでに召された聖徒、今を共に生きる聖徒。この人たちに支えられながら、死を克服していく力が与えられる。ルターもそのことを語っているのではないか、と思うのです。

最後に、ルターのこの一文をお読みして終わりたいと思います。「キリスト者はだれでも臨終に際しては、自分がひとりだけで死んでいくのではないということを疑わず、むしろサクラメントの示すところに従って、多くの目が自分に注がれていることを確信しなければならない。第一に…、神とキリストご自身の目が注がれる。次には、天使と聖徒たちとすべてのキリスト者たちが見守っている」。

アーメン