【説教・音声版】2022年10月16日(日)10:30 聖霊降臨後第19主日礼拝 説 教 「 絶えず祈りなさい 」 浅野 直樹 牧師



聖書箇所:創世記 32:23-33、テモテへの手紙二 3:14-4:5、ルカによる福音書 18:1-8

今日の福音書の日課と第一の朗読・旧約の日課との共通性は、「諦めない」と言うことでしょう。「諦めない」…。

今日の旧約の日課は、「ヤボクの渡し」と言われる有名なお話しです。叔父であるラバンの元を離れ、故郷に帰ろうとするヤコブですが(その辺りの詳しい事情についてお話しする時間はありませんが、大変興味深いお話しなのでぜひお読みいただければと思います)、その途中、ヤボクの渡しで「何者か」と「夜明けまで」「格闘した」というものです。このヤコブと格闘した「何者か」というのが一体どんな存在なのかは良く分かりませんが、後に「お前は神と人と闘って勝った」、あるいは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見た」とありますので、神、あるいは御使いだとも考えられています。そんな神、あるいは御使いとヤコブは一晩中戦った。なぜか。祝福が欲しかったからです。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません」とある通りです。しかも、ヤコブはその戦いの最中で腿の関節を外されてしまったようです。さぞかし痛かったに違いない。しかし、祝福を求めて、彼は執拗に、諦めずに、最後の最後まで戦った。

それに対して、今日の福音書の日課に登場してくる「やもめ」はどうだったか。彼女もまた、執拗に、諦めずに、訴え続けました。不正な裁判官に対しても。現在でも、この「やもめ」の立場に立たされている人々は、大変厳しい状況に置かれていると思いますが、この時代ではなおさらそうでした。社会的身分の低い女性、しかも夫を失い一人で生きざるを得ない人、社会の底辺の人物と言えるのかもしれません。ですから当時、そんな弱者を不当にも貪るような人々がいたのでしょう。この女性は必死に裁判所に出向いては訴えるわけです。しかし、ちっとも取り合ってくれない。そういう意味では、彼女も痛みを知っていた。訴えを退けられ、突き返されるたびに、途方に暮れたのかもしれません。悲しみ、怒りさえ抱いたのかもしれない。それでも、彼女は諦めなかった。それが、結果的に功を奏した。

両者ともに諦めなかった。しかも、ただ諦めないだけでなくて、そのために痛みを負いながらも、辛い思いを繰り返しながらも、諦めなかったのです。それが、今日の日課に共通して出てくる。つまり、この「諦めない」ということを、今日は言いたいのでしょう。そうです。確かに、諦めないことの大切さは分かっているつもりです。でも、難しいの です。少なくとも、私はそう感じる。皆さんはどうかは分かりませんが、私自身は、自分の人生を振り返ってみた時、諦めの多かった人生だったな、と思うのです。もちろん、自分なりには努力もし、頑張りもし、忍耐もしてきたつもりです。足りない、と言われるかもしれませんが…。

天使とヤコブの闘い(1659) レンブラント・ファン・レイン


しかし、諦めてしまったものがある。後悔もしている。では、なぜ諦めてしまったのか。思ったような結果・成果が出なかったからです。不可能としか思えなかったからです。続けても無駄だと思ってしまったからです。だから、諦めた。諦めざるを得なかった。

今日の福音書の日課は、こんな言葉からはじまっていきます。「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された」。先ほどは、今日のテーマは「諦めない」ことだ、と言いましたが、少なくとも福音書の日課では、特に祈りについて「諦めない」ことを教えているわけです。もっと言えば、諦めてしまうような現実がある、ということです。気を落としてしまって、絶えず祈ることのできない信仰者の現実がある、ということです。なぜか。私たちにも良く分かるでしょう。祈りの結果が見えないからです。少なくとも、私たちには感じられないからです。祈ったって現実は何も変わらないではないか。この現実を祈りだけで変えることなど不可能ではないか。そう思っても仕方がない現実があるからです。祈ることの虚しさに陥ってしまうような現実が、確かにある。

何度かお話したと思いますが、初代教会ではキリストの再臨が間近に起こると期待されていました。それは、古き世界・現世界の終わりの時であり、新しき世界の到来をも意味しました。つまり、救いの完成の時。この世に蔓延っている不正、悪、不平等、格差、人権侵害、争い、戦争は取り除かれ、全き神さまの国、愛と正義が支配する世界が到来する。しかも、もうすぐにでもやってくる、そう信じていた。期待していた。そんな期待を込めてキリスト者たちは祈ってきた。一日も早くそんな再臨が実現して、この世界が変わるようにと祈ってきました。熱心に。しかし、待てど暮らせど再臨の時は来なかった。相変わらず、暴力が世界を支配し、強き者が弱き者を虐げ、搾取し、普通に真面目に生きている庶民が浮かばれないクソのような世界が広がっていた。むしろ世界が変わらないどころか、キリスト者、教会は迫害の対象とされ、ひどい扱いを受けるようにさえなってしまった。約束が違うではないか。祈りに疲れてしまっても、無理からぬことではないでしょうか。

そして、現在の私たちも…。そんな私たちに、イエスさまはこの「やもめと裁判官」の譬え話を語られるのです。私たちが、祈りに疲れてしまうことを、気落ちしてしまうことを、諦めてしまうことを、祈れなくなってしまうことを知っておられるからこそ、イエスさまはこの話を私たちに、この私たちにしてくださったのです。

先ほどから言っていますように、この譬え話は明快です。「諦めない」ことです。たとえ、訴えが取り上げられなくても、門前払いを食らっても、ちっとも成果が見えなくても、期待すること自体が無駄のように思えても、とにかく諦めない。何度突き返されようと、その度に苦しい思いを、悲しい思いを、切ない思いをしようと、諦めない。必死だからです。そこにしかすがるところがない、希望がないからです。だから、諦めない。

あの旧約聖書のヤコブもそうでした。滞在先の叔父ラバンのところには戻れない。かといって、故郷に帰ろうにも待ち受けているのは、長子の権利を奪い取ったことに腹を立て、ヤコブを殺したいと思うほど憎んでいた、あの兄エサウです。八方塞がりです。自分だけじゃない、家族みんなの命運がかかっている。だから、彼は必死になって、食い下がって、執拗に、諦めないで、祝福を願ったのです。そうです。ヤコブもやもめも必死だったのです。そこにしか救いがなかったからです。それは、私たちにも覚えがあるでしょう。普段は祈りに対していい加減になってしまっているような私たちも、いざという時には、窮地の時には、必死に祈った経験、記憶が…。

では、やはりこの「必死さ」が祈りの鍵なのか。そうではありません。ここは、しっかりと押さえておきたいところです。なぜなら、イエスさまはこう語っておられるからで
す。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか」。そうです。この譬え話のような人でなしの裁判官ならば、必死さは必要なのかもしれません。善良さではなくて、私たちの必死な執拗さで聞いてくれるかもしれない。

しかし、私たちが信じる神さまは、そんな裁判官とは違うのです。「まして神は」と言われる方なのです。神さまは昼も夜も叫び求める者たちの声を聞いてくださる。それが大前提。だから、「諦めない」ということです。聞いてくれない人に無理矢理に聞かせるために「諦めない」のではない。そうではなくて、聞いてくださっている。すでに聞いてくださっている。もちろん、それは、私たちの思うような形ではないのかもしれませんが、それでも、はっきりと聞いてくださっていると言われているのです。だからこそ、「諦め」てはいけないのです。いいえ、諦めなくても良いのです。

では、私たちは諦めずに、何を祈ったら良いのか。その一つの答えが今朝の使徒書にあると私は思っています。それは、「聖書」です。聖書を学ぶ・聖書に聴くことです。なぜなら、イエスさまはこうも語られているからです。ルカ18章8節「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」。先ほど来言っていますように、イエスさまは私たちの弱さを知っておられるのです。祈ることさえも、気落ちしないで、諦めないで祈り続けることさえもできない私たちであることを知っておられるのです。そして、「果たして地上に信仰を見いだすだろうか」とも危惧されている。心配されている。だから、聖書を学ぶために、聖書に聴くために私たちは祈らなければならない。祈り続けなければならない。なぜか。「この書物(聖書)は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができる」からです。聖書こそが、私たちを救いへと導く。私たちの生きるべき・歩むべき道を、あるべき姿を示していく。「聖書はすべて神の霊の導きの下(もと)に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」。

私たちは失いやすいのです。忘れやすいのです。新鮮さを失い、マンネリ化し、すぐに当たり前になってしまう。夫婦でもそう。だから、努力が必要なのです。それに気付いたからこそ、それではダメだと努力することを求めるようになる。それは、私たちの信仰生活においても、同じでしょう。私たちが、この信仰生活を有意義なものにするためには、ある程度の努力が必要。問題は、その努力がどこに向かうか、です。私たちに向かうのか。私たちの信心、熱意、熱心さに向かうのか。それらを高めるために努力するのか。

そうではないのです。そんな努力は、結局は虚しさを生むだけ。そうではなくて、祈ること。聖書の言葉を、約束を、知恵を、真理を、私たちのものにしてください、と祈ること。祈り続けること。そうであれば、例え私たちが弱っても、飽きても、虚ろになっても、御言葉が私たちを立ち上がらせてくれる。その力が御言葉にはあるのです。それが、聖書。だからこそ私たちは、失敗を繰り返しながらも、気落ちしながらも、何度でも祈りに立ち戻らされていくのではないでしょうか。神さまの恵みによって。

私たちは、今日の御言葉から、「諦めない」ことを学びたいと思います。それは、生きるためです。キリスト者として生きるためには、祈ることを諦めてはいけないからです。そして、御言葉に教えられることも。そのことをもう一度、深く覚えていきたいと思います。