【説教・音声版】2022年9月4日 聖霊降臨後第13主日礼拝 説教「厳しさも愛」浅野直樹 牧師

聖書箇所:ルカによる福音書14章25~33節



本日は、時間の関係でお話しすることができなかった先週の後半部分、ルカ福音書14章12節以下を手短にお話しすることからはじめていきたいと思っています。どうしても、そのままやり過ごすことができなかったからです。もう一度、12節以下をお読み致します。「また、イエスは招いてくれた人にも言われた。『昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる』」。

先週のことを少し思い出してください。この出来事は、安息日に行われた食事会でのことでした。おそらく、シナゴーグで行われた礼拝後のことでしょう。そして、先週の日課を理解するためには、「神の国」との関連性も欠かせないのではないか、と言いました。今日の箇所もそうです。14章15節以下には、「神の国」についての譬え話が記されていますが、神さまが大宴会を催そうとして、本来招くべき人々を招く訳です。おそらくはファリサイ派や律法学者たちを念頭に置いているのでしょう。しかし、招かれた人々は、いろいろと理由をつけては来ようとしません。腹を立てた主人は、僕たちに別の人々を招くようにと言いつけます。それは、21節「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」でした。お分かりのように、先ほどの箇所と全く同じ人々がリストに挙げられている訳です。ですから、先週の日課の後半部分も「神の国」と無縁ではないと言えるでしょう。

以前もお話ししましたように、ユダヤ教の言うところの「安息日」と私たちの礼拝とが、全くイコールということはないと思います。ただし、受け継がれてきたもの、あるいは、関連づけられるものはあるはずです。この時も、礼拝の時ではありません。同じように癒しの業が行われたにしろ、礼拝の場と食事会は別です。しかし、私たちの礼拝は、使徒言行録にも見られるように、この礼拝の後に行われた食事をも、最初っから礼拝との関連の中で、いいえ、礼拝を構成する一つの大切な側面として受け止めてきた訳です。それが、やがて「聖餐式」として整えられるに至った。つまり、ルカ14章12節以下の御言葉も、私たちにとっては、私たちの礼拝と関連づけて考えることも許されるのではないか、と思うのです。つまり、私たちの礼拝の姿です。ここで重要なのが、「お返しができる人と、お返しができない人がいる」ということです。家族、友人知人たちを招くこと自体が悪いことではないでしょう。

しかし、その奥に潜んでいるのが、何らかの「益」となる人選ということならば、それは、本来の目的、礼拝の姿と合致するのか、ということです。逆に言えば、先ほどからリストに挙げられている人々、「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人」というのは、言葉は悪いですが、「お荷物」ということです。役に立たない、むしろ、迷惑をかけるような人々…。しかし、そういった人々こそが、宴会に、神の国に、礼拝に招かれている、と言われる。いいえ、単に神さまがそう望まれている、そう招かれている、ということだけではなくて、この私たち自身も、そういった人々をこそ招くべきではないか、と言われているように思うのです。具体的に言えば、少しの献金もできない人たち、少しの奉仕もできない人たちです。本来できるのにしない、ということとは別の問題です。そうではなくて、本当にできないのです。何もできない。席に座っていることすら満足にできない。それでも、招かれている。招くことが求められている。

時に、こういう声を聞いたりします。私は何のお役にも立てない、と。もちろん、かつては「できた」ことが「できなくなった」ことの辛さはあるでしょう。しかし、それは、招かれていない、ということではない。むしろ、招かれている。私たちも招かなければならない。それは、今の時代、この同じ場所に集う、ということばかりでもないのかも知れません。IT等を活用することも、具体的な取り組みの一つでしょう。しかし、それ以前に、この私たちの礼拝とは、一体誰のためのものなのか、ということです。教会にとって、私たちにとって、「益」となる人々のためのものなのか。そうではないのか。

繰り返します。出来るのにしない、とは違います。これは、また別の課題です。たとえ取るに足らないことであろうと、出来ることをすることは必要なことです。しかし、たとえ本当に何もできないとしても、神さまは、そして私たちも、喜んで迎えたいと思う。これは、先週の日課から、どうしても伝えたかったことです。
今日の日課に戻ります。今日の箇所は、「弟子の条件」と小見出しが付けられていた非常に厳しい内容の箇所でした。こう言われているからです。26節「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」。

何度もお話ししていますように、キリスト者であるということは、「弟子」ということです。つまり、この言葉は、私たち全員がちゃんと聞かなければならない、受け止めなければいけない言葉だ、ということです。ここで「憎む」という表現が出てきますが、これは、ユダヤ的表現の一つで、日本人の私たちからすると、随分と印象が違うものです。つまり、程度の差、優先順位とでも言えるでしょうか。一つのものを愛そうとすれば、もう一つのものは憎まなければならない。別に、本当に憎むのではなくて、愛したものよりも幾分程度が落ちるものとしなければならない、ということです。

ですから、別に、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹、あるいは自分の命を、私たちのいうところの「憎む」ということではなくて、それら以上にイエスさまを大切にすべきだ、ということです。しかし、それにしても、やはり厳しい言葉に違いないと思います。私たちはどうしても、家族優先としたい気持ちを自然に持っているからです。そして、そんなイエスさまの言葉を説明するかのように記されている二つの譬え話も、何だか良く分からないところがある。どんな繋がり、関係性があるのかと頭を抱えてしまうところがあるのではないでしょうか。至極簡単に言ってしまえば、「何かを成そうと欲すれば、それなりの熟慮と覚悟、犠牲はつきものだ」ということです。

今日の日課の出だしのところで、こんな言葉がありました。「大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた」と。ある方はここに熱狂があった、と言います。ここにいた人たちは、イエスさまに何らかの期待を抱き、ついてきた。しかし、弟子として生きるということは、それほど簡単なことではない、ということです。現に、あの12弟子でさえも、最後までイエスさまについていくことはできませんでした。この日本でもキリスト教ブームなる一種の熱狂が幾度となくあった訳ですが、その多くが途中で挫折していきました。残念ながら、私たちもそのような人々を少なからず知っている。おそらく、そういった方々は、「こんなはずではなかった」「思っていたのとは違っていた」といった思いを抱かれたに違いない。

だから、イエスさまは、まず腰を据えてよく考えてみなさい、と言われます。そして、それらを手に入れるためには、何事かをなすためには、それなりの覚悟、あるいは支払わなければならないもの・犠牲がある、と言われるのです。譬えにある塔を建てるにも費用が必要です。戦いに負けると分かれば、降伏して、少なからぬ貢物を送らなければならないでしょう。それは、屈辱的でもある。しかし、その判断を誤まれば国を滅ぼしかねない訳です。

先ほどは、この二つの譬え話は分かりにくいのではないか、と言いました。しかし、実際には良く分かる話です。私たちの現実社会の中で、すぐにでも浮かんでくるものでもある。つまり、一般常識でもある訳です。「何かを成そうと欲すれば、それなりの熟慮と覚悟、犠牲はつきものだ」ということが。しかし、どうも私たちは、信仰の事柄になると、そんな一般常識とが重ならなくなってしまうのでしょう。熟慮も、覚悟も、犠牲も、信仰生活には、イエスさまについていく・従っていく道には必要ないのではないか、と。だから、今日の日課のような言葉を聞くと、途端に私たちにとっては難しく感じたり、あり得ない要求を突きつけられているような感覚に陥るのではないか、と思うのです。

そもそも、イエスさまはなぜこんなにも厳しいことを言われるのか。今日の旧約の日課は、祝福か呪かといった二者択一を迫るような言葉でしたが、果たしてここで神さまが言いたかったことは、呪いの方でしょうか、それとも祝福の方でしょうか。もちろん、祝福です。祝福を与えたいが故に、間違った道を歩まないように呪いも語られる。では、イエスさまは私たちに、巷のパワハラ上司たちのように、私たちを困らせようと無理難題を押し付けようとされているのか。決して、そうではないでしょう。厳しいことを語られるにも、そこに意味があるからです。救いの道があるからです。愛があるからです。だから、時に厳しいことも語られる。

イエスさまは、家族よりもイエスさまに従うことを優先するようにと願われる。それは、本当に救いになるのでしょうか。私は、こう思う。果たして、私たちは、一体家族のために何が出来るのだろうか、と。家族が病に罹る。私たちは、何もしてあげられません。ましてや、愛する者が死の床につこうという時、私たちは全くの無力でしかない。しかし、それでも、私たちは祈れるのです。家族を、愛する者たちを、神さまの御手に委ねることができるのです。それは、何と幸いなことだろうか。何と心強いことだろうか。

これらも言葉だけを聞いていれば、今巷でお騒がせの某宗教団体と似ているように聞こえるかも知れませんが、似て非なるもの、いいえ、全く違ったものであることは明らかでしょう。

イエスさまを信じ、信じ続ける道においても、熟慮と覚悟と犠牲が必要なのでしょう。しかし、それは、救いの道なのです。恵みの道なのです。確かに、「こんなはずではなかった」「思っていたのとは違った」といった現実もなくはないでしょうが、それでも、ここにイエスさまの愛の道があるのです。なおも、そう信じる信仰に生きたい、と思います。