【説教・音声版】2022年8月28日 聖霊降臨後第12主日礼拝 説教「安息日にすべきこと」浅野直樹 牧師

聖書箇所:ルカによる福音書14章1、7~14節説教題



ルーテル教会のペリコーぺ、いわゆる教会歴に基づいた聖書日課は、正直、助かる面もありますが̶̶ 別の教派で牧師をしていた頃は、いわゆる連続講解説教…、例えば、牧師がルカ福音書をやろうと決めますと、毎週その続きから説教するといったスタイルですね。

あるいは、牧師が適当な箇所を決めることができた訳です(気持ちを切り替えるというか)̶̶    、こうどうしても、ここからどう話したら良いのだろうか、と思うようなところも、正直ある訳です。今日の箇所も、その一つでしょう。

ここから、何が言えるのだろうか、と戸惑ってしまう。なぜなら、こんな風景を私自身は見たことがないからです。客が促されることなく、自ら上席にひょいひょいと行くような場面に遭遇したことがない。ましてや、ホスト側に注意されて席順を変える場面になど、遭遇したことがない。

実際には、この社会にはこの場面と同じようなことが起こっているのかも知れませんが、少なくとも私自身は見たことがないからです。特に、教会内、キリスト者同士においては。大体、皆さん前に来ません。最も、教会の集会等で上席、末席なるものは存在しないと思いますが、それでも、大体が入り口付近に固まるものです。礼拝もそうです。真ん中から後ろの席が埋まって、前の席がガラッと空いていることは普通のことです。

たまたま遅刻をされて、前の席しか空いていないと、なんともバツが悪い感じで席につかれる。場合によっては、前の席しか空いていないと出て行ってしまわれる方さえもいる。もっとも、私自身も同様の傾向がありますので、気持ちは分かります。本当に良く分かります。しかし、それが謙遜さから出ていることなのか、と言われると、途端に考え込んでしまう。遠慮はあるかも知れないが、果たして謙遜なのだろうか。性格的に目立つ場所が、チヤホヤされるのがあまり心地よくないから、なるべく目立たないようにと、末席を選んでいるに過ぎないのではないか。

ある方は、こうも言います。末席にいながらも、不当な扱いを受ければ腹を立てるのではないか、と。自分を差し置いて、後輩たちにだけ、「さあ、さあ、前に来てください」と言われるのを目の当たりにしたら、気分を害するのではないか。確かに、そうかも知れない。そう考えますと、ますます、この上席に行きたがらないことと、この箇所で語られている「へりくだる」、つまり謙遜さとは随分と開きがあるのではないだろうか、と思えてきます。

そもそもこの箇所は、社会生活を円滑に進めるための、あるいは、自分がちゃんと社会の中で認められる存在となるための、恥をかかない、損をしないための、いわゆる処世術を伝授されているということなのだろうか。イエスさまはそんなことをわざわざ教えておられるということなのだろうか。もちろん、違うでしょう。ただし、私自身は、イエスさまは常に霊的なことを教えておられるのだから、こんな処世術のような浮き世のことなど教えられるはずなどない、といった議論には、賛同できません。イエスさまは、この私たちの社会生活・実生活自体を決して軽視されないでしょう。それは、旧約聖書にも記されていることです。

「大宴会のたとえ」ブランズウィック・モノグラムミスト (1525~1545年)


イエスさまは決して、この世の現実を無視されて、かすみを食べて生きていくようには言われない。むしろ、この社会の現実に生きるための知恵も授けて下さっていると思います。ただし、イエスさまは、そこでも神さまの存在を無視されない。いわゆる霊的な事柄と、この世の事柄とを綺麗に切り離してはおられないのです。どこにでも、神さまのご臨在、神さまのご支配、神さまの御心がある。ですから、今日の箇所も、単なる処世術を言っているのではないはずです。

今日の箇所で、一つのキーとなる言葉が、11節「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」でしょう。ここについて、度々ご紹介している雨宮神父は、もともともの原語の意味合いを込めて、こういうことではないか、と言っておられます。「自分自身を高くする者は神が低くするだろうし、自分自身を低くする者は神が高くするだろう」と。つまり、これは、神さまのなさる業ということです。

今日のこの箇所を理解するのに助けになるのは、「神の国」という理解ではないでしょうか。なぜなら、今日の箇所で「神の国」を想起させる言葉がいくつも記されているからです。一つは、「安息日」です。今日のこの箇所の場面設定として読みました1節のところで、この食事会が「安息日」に行われていたことが明記されているからです。また、イエスさまは、招待されていた人々が上席に向かうのをご覧になって、「たとえ」を話された、とあります。

イエスさまの譬え話の多くは、神の国のたとえ、ですので、ここにも関連があると考えられます。また、そのたとえの冒頭で、場面設定として「婚宴」と言っておられます。これも、神の国の比喩的表現で多く用いられる言葉です。また、今日の日課ではありませんが、この一連のやり取りを聞いていた人の口から15節「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言われている訳ですから、今日の箇所が「神の国」と関連づけられていることは、間違いのないことのように思われます。

ところで、ペリコーぺ・日課としては飛ばされていましたが、今日の出来事の前に「癒し」の出来事が起こっていたことが分かります。先週の日課も、安息日の癒しの出来事でした。今日の場面は、先週の礼拝時とは違い、食事会の席ではありますが、同様に、安息日ということが大きな問題だった訳です。ここで癒された人は「水腫を患っている人」とあります。どうして、このような人がこの食事会に招かれていたのかは分かりません。ある人は、イエスさまを陥れるためだったのではないか、と言い、ある方は、イエスさまご自身が礼拝を共にしたこの人を連れてきたのではなかったか、と言います。もちろん、分かりません。

しかし、いずれにしても、この食事会を催した側としては、この食事会に対して好ましくない人物だと考えられていたのではないでしょうか。それが、先週も言いましたように、イエスさまからすれば「偽善」に思える。

しかし、一方の彼らの常識からすれば、分からなくもない。当時の病の理解は、神さまからの罰と考えられていたからです。何か悪いことをしたから、バチが当たったのだ、と。あるいは、この「水腫」という病気は、不道徳な生活をしていたからだ、と考えられていたようです。尚更、彼らにとっては、眉を顰める人物と写っていたことでしょう。

繰り返しますが、これらは当時の人々にとっては、常識なのです。そのように理解し、そのような見方をしていた人々は多くいた。しかし、それは、偽善なのです。少なくとも、イエスさまはそう見られた。なぜなら、神さまの御心は違うからです。なのに、彼らは神さまの名を使って、御心からズレてしまっていたことを常識としていた。それについて、省みることもなく、悪びれもしなかった。ここに課題がある。そして同時に、これらのことについても、私たちは無縁ではいられないでしょう。もちろん、今日の私たちの常識とは違います。

私たちは、病にかかっている人を、そのような目では見ない。しかし、私たちの常識、私たちにとっての正しさとは、本当に合っているのだろうか。知らず知らずのうちに、神さまの御心からズレてしまった偽善に陥ってはいないだろうか。ともかく、ここにも先週同様に、本来の安息日の在り方からズレてしまっていた現実があった訳です。

神の国とは、一体、どんなところなのでしょうか。少なくとも、自分自身で、自己評価で、上席を選ぶことができるようなところではないようです。自ら上席を選んだ今日の食事会に招かれていた人々の多くは、自分に自信があったのでしょう。少なくとも、あの水腫の人よりは、あるいはイエスさまよりは、神さまに認めていただいているはずだ、と。確かに、根拠はある。それは、彼らの常識の範囲では、ということです。おそらく、彼らは真面目な生活をし、貧しい人々を援助し、規定通りの捧げ物もしていたことでしょう。安息日にも仕事をせず、礼拝もしっかり守っていた。そういう意味では、確かに模範的かも知れない。

しかし、イエスさまの目には、神さまの目には、そうは写っていなかったのです。むしろ、そんな彼らを、神さまが低くされるであろう「高ぶる者」とさえ思われていた。思い出してください。あの「『ファリサイ派の人と徴税人』のたとえ」話しを。二人はともに祈っていた。しかし、模範的なファリサイ派の人ではなく、「目を天に上げようともせず、胸を打ちながら『神様、罪人のわたしを憐れんでください』」と祈ることしかできなかった徴税人の方が義とされた、と言われたのです。神の国とは、イエスさまが地上に、この浮き世に来られた、ということです。このイエスさまとの出会いこそが、福音に他ならない。

しかし、このイエスさまに、福音に触れるとき、私たちは罪の自覚に囚われることも、また事実です。とても、自信満々に、堂々と上席を選ぶことなどできない自分に気付かされる。そうです。神の国とは、自ずと、末席につかざるを得ないことを知る、ということでもある訳です。むしろ、そこに偽善からの解放の道もある。しかし、イエスさまはこう語られるのです。「さあ、もっと上席に進んでください」と言うだろう、と。そうです。私たちは、自分など末席も末席、本当にギリギリに位置するのも難しい、と思うのかも知れません。

しかし、それでも、そこは婚宴、喜ばしき所なのです。そこに私たちは招かれている。しかも、末席に過ぎないと思っていたら、「どうぞ、どうぞ、もっと上席に進んでください。あなた方を招いておられるホスト、神さまがそう言っておられますよ」と言ってくださる。そんな、本来あるべき神の国の姿を、ここでイエスさまは描き出されているのではないか、と思うのです。

そこで、もう一つ気になることは、それでも、固辞することは、果たして謙遜なのだろうか、と言うことです。あなたを招いておられるのは、神さまです。末席こそ自分に相応しいと思っていたのに、「さあ、どうぞどうぞ上席にお進みください」と言ってくださるのも神さまです。高ぶる者を低くし、へりくだる者を高めてくださるのは、神さまです。どれも、自分ですることではありません。自分自身の自覚でさえありません。それが、神の国である、と言われる。そのことも、私たちは忘れずに、真の謙遜への道へと進んでいきたい、そこには偽善性からも解き放たれる道がある、と言うことも覚えていきたい、と思います。