【説教・音声版】2022年8月14日 聖霊降臨後第10主日礼拝 説教「時を見分ける」浅野直樹 牧師

聖書箇所:ルカによる福音書12章49~56節



本日の説教題は、「時を見分ける」とさせて頂きました。お分かりのように、今日の日課…、ルカ12章56節「このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか」との御言葉を受けたものです。
新型コロナのパンデミック、ウクライナの戦争、そこから来るエネルギー危機、経済危機、食糧危機、また台湾問題、政治と宗教の問題、等々。みなさんは、この今という時を、時代を、どのように見ておられるでしょうか。

先週は、共々に「平和の主日」を守って参りました。6日には広島で、9日には長崎で慰霊祭が行われ、私たちは明日77回目の「終戦の日」を迎えることになります。もちろん、その直前…、3月から6月にかけて行われた凄惨極まる沖縄戦のことも決して忘れてはいけませんが、やはり私たち日本人にとりまして、この8月は特別な意味を持つのだと思います。
以前にもお話ししたことがあると思いますが、私はこの時期に向けて、戦争に関する本を読むように心がけているつもりです。記憶を、思いを、風化させないためです。今年も、いくつか読みましたが、その一つが、これは直接的には先の戦争とは関係がないのかも知れませんが、『未完の敗戦』(山崎雅弘著 集英社新書)という本です。これは、先の戦争の総括がしっかりとされていないが故に、未だに嘗ての「大日本帝国型の精神文化」が継続されてしまっており、そのために相変わらず人を大切にしない、人を粗末に扱う社会・精神文化が色濃く残っているのではないか、と指摘していました。私自身は、非常に共感を覚えたところです。

いま一つは、『太平洋戦争への道 1931-1941』(NHK出版新書)です。これは、元々は2017年のNHKのラジオ放送で、半藤一利さんと、加藤陽子さんと、保坂正康さんが対談したものをもとに本にしたもののようです。ご存じの方もいらっしゃると思いますが、このお三方は立場は違えど、先の戦争を詳しく調べておられる方々です。先の戦争と言えば、軍部の暴走…、特に陸軍の暴走によるものだとの認識が強いように思いますが(私自身、そのように教わってきたように思います)、それは間違いのない事実ですが、しかし、最近ではその他にも様々な要因があったことが取り上げられるようにもなってきました。

その一つが、マスコミです。当初は、ほぼ全てのマスコミが、中央から地方に至まで、戦争を煽るような報道や記事が踊っていたことを、このお三方も指摘しておられます。そして、もう一つが、民衆の熱狂です。民衆が熱狂的に軍部を支持していた。その最たる例として、あの5・15事件が取り上げられていました。ご存じのように、近代日本史・昭和史を代表するようなテロ事件、クーデター未遂事件です。1932年(昭和7年)5月15日、海軍青年将校の一団が首相官邸を襲撃し、当時の犬養毅総理を殺害した事件です。

先ほども言いましたように、これは明らかなテロ行為であり、未遂で終わりましたがクーデターです。にもかかわらず、裁判で語られた青年将校たちの言い分を聞いた民衆たちは、心動かされ、「助命嘆願運動」が起きたと言います。なんと全国から百万通とも言われる嘆願書が届けられたという。その頃は、犠牲者である犬飼首相の方が、むしろ悪者扱いされたほどだったと言います。この民衆の熱狂が、テロ行為を、法律違反を、社会悪を覆すことにもなってしまった。

何が言いたいのか。確かに、軍部の暴走はありました。それは、事実であり、大きな要因です。しかし、それらが国民の支持を得ることができずに、むしろ反対されるようなことであったならば、先の戦争は起きなかったのかも知れないのです。もちろん、「たられば」にすぎませんが。しかし、圧倒的大多数の人々が戦争を望んだ、あるいはそれほど積極的ではなかったにしろ容認したことは事実だったでしょう。それが、一部の反対勢力、戦争に反対だった人々の、政治家、軍人、官僚、識者、民衆、そして天皇さえも、意見を曲げざるを得なくなっていきました。国の中枢の中にも、軍部にも、あの満州事変に反対する人々はいました。対中戦争に反対する人々もいました。早期終決のために奔走した人々もいました。国際連盟からの脱退に反対する人々もいました。日独伊の三国同盟にも反対する人々がいました。アメリカとの戦争を避けるためにハル・ノートを受け入れるように主張した人々もいました。対米英戦に最後まで反対する人々もいました。そうした反対の声がありながらも、あの戦争は起き、泥沼へとはまっていったのです。

先週は、「平和の主日」として、エフェソの信徒への手紙から、平和のための一致、ということを考えていきました。確かに、そうだと思います。しかし、果たして、本当に一致さえすれば、平和は訪れるのでしょうか。先ほどお話ししたように、先の戦争は、むしろ国民が一つになったからこそ、生じたと言えるのかも知れないからです。戦争の動機は、悪とは限りません。実際には、平和の名の下に起こることの方が多いでしょう。先の戦争だって、日本の平和のために、ソ連から自国を守ために、日本国民の生存権のために、とはじめていった。他国の平和のことなど、考えずに。そうです。私たちは、非常に限定的な、家族の、社会の、国家の、自分達の平和のために、安心安全のために、他者を傷つけ、貶め、いじめ、挙げ句の果てに戦争までしでかすのです。そこに、たとえ一致があったとしても、それは、果たして神さまが、イエスさまが求めておられる一致と言えるのでしょうか。

逆に、分裂は悪でしかないのでしょうか。確かに、分裂は争いを起こすことがあります。当然危険性がある、良いものとは言い難いでしょう。しかし、先ほども言いましたように、かき消されてしまったあの反対意見が、戦争回避の意見が、もっと強く出ていたのなら、それにも賛同する人々がもっと多数いたのなら、どうなっていただろうか…。この分裂だって、使いようによっては悪にも善にもなるのです。より大きな悪に対しての歯止めになるかも知れないし、あるいは自浄作用として用いられるかも知れない。つまり、少なくとも私たちにとっては、単なる一致か分裂か、ということではないはずです。そうではなくて、イエス・キリストによる一致か、イエス・キリストによる分裂か、です。どちらにしても、イエス・キリストとは切り離せないものです。

そこに立ってこそ、あくまでも、このイエス・キリストによる一致と分裂だからこそ、そこに意味が生まれるのだと思うのです。自分の正義感ではありません。他者に対する愛情、思いやりでもありません。国を、社会を憂う思いでもありません。私たちの信仰深さでもない。もちろん、それらが悪い訳ではありません。しかし、それらは、いいえ、私たちがやることは、絶対正義にはなり得ないことも肝に銘じておくべきでしょう。私たちは歪むからです。最初は、動機が正しいように思えたとしても、私たちは道を逸らす。

飼い主のいない羊のように。なぜなら、私たちは罪から、自己中心から完全には自由になり得ないからです。ですから、キリスト…、イエス・キリストなのです。私たち罪人のために、敵対する者のために十字架の道を選び、歩んで下さったイエスさまこそが、罪から、自己中心から、もっとも遠い方だからです。ですから、一致するにしろ、分裂せざるを得ないにしろ、イエス・キリストから離れてはダメなのです。そうでないと、必ず、道を外してしまうことになる。この世のことであろうと教会のことであろうと、歴史が証明している通りです。

最初に問いました。今の、この時・時代をどう見分けたら良いのだろうか、と。非常に難しいことです。安全保障の問題一つとっても、なかなかはっきりとした答えには辿り着けない。むしろ、複雑化を無視したような安易な単純な答えに警戒した方が良いと私個人としては思っているほどです。しかし、それでも、私たちには確かな見分け方があるはずです。それは、イエス・キリストがこの世界に、私たちのところに来られた、という事実です。そのことを見分けることができていなかった当時の人々に、イエスさまは問われる。「どうして今の時を見分けることを知らないのか」と。しかし、私たちは知っている。神の子がこの世界を救うために来られたことを。神の子がこの世界のもっとも貧しき、価値なき者たちに仕えられたことを。罪と自己中心にまみれたこの世の人々を、弟子たちを愛されたことを。決して武力・力による社会変革を望んではおられなかった、ということを。人を力で支配するのではなくて、自らへり下って仕えることによって相手を生かすことを望まれていたことを。

ご自分のためではなく、神さまの御心のために、私たち人類の救いのために、自ら進んで十字架上に命を捨てられたことを。復活によって、新しい命への希望を与えて下さったということを、私たちは知っている。そして、今という時は完成の時ではなく、不完全であり、必ず完全な平和が訪れることを約束してくださっている、ということを。人の知恵・力によるのではなく、神さまの恵みとして。

私たちは、道半ばに生きています。確かに、平和のための一致が理想ではあるでしょうが、なかなかそうもいかず、かえって家族の間にさえ分裂を引き起こすこともあるのかも知れません。しかし、少なくともこの私たちが、この時を、つまり、イエス・キリストの到来の時をしっかりと見分けているならば、歪んだ一致を防ぎ、意味ある分裂を引き受けることができるのではないか、と思うのです。
それが、あくまでも救いのため、真の平和のためなのだ、と。そうではないでしょうか。