【 説教・音声版 】2022年8月7日(日)10:30  平和主日礼拝 「 新しい人 」三浦 慎里子 神学生

ミカ 4:1-5、エフェソ 2:13-18、ヨハネ 15:9-12



本日は平和主日です。

77年前、8月6日に広島、9日に長崎にそれぞれ原子爆弾が投下され、その後終戦を迎えました。

唯一の被爆国である日本では、毎年 この時期になると、各地で平和を願う集会が開かれ、二度と戦争を繰り返しては いけないと、人々が心をひとつにして祈ります。戦争の苦しみを経験したのは日 本だけではありません。第二次世界大戦で犠牲になった方は、全世界で何千万人 にも及ぶと言われています。私は子どもの頃から、祖父母の戦争体験の話を聞い て育ちました。社会科見学で長崎に行った時には、原爆資料館で語り部の方のお 話を聞いた記憶もあります。また、自分でも本を読んだりドキュメンタリー映像 などを見たりして、戦争は人間が人間でなくなる大変恐ろしいものなのだとい う考えを持って生きてきました。多くの日本人のように、私もこのような教育を 通して、戦争について学んできたのです。

しかし、隠された不都合な事実があっ たことを後になって知りました。日本もアジア諸国の人々に対して、世界中の 人々に対して残酷な仕打ちをしてきたという事実です。今でも痛みと怒りと憎 しみの中で苦しんでいる人たちがいるということを知らずに、今は平和な世の 中だと思ってきたことを恥ずかしく思い、胸が痛みました。「当時の状況を知ら ないからそんなことが言えるんだ。戦争の時は皆同じことをしていたんだ。」と 言われるかもしれません。その通りだと思います。しかし、皆が同じことをして いたとしても、多くの人の命を奪い傷つけたこと、それが罪であることに変わり ありません。私たちは、戦争で受けた傷を語り継ぐと同時に、自らが犯した罪に ついても真摯に受け止め、語り継いでいかなければならないでしょう。なぜなら、私たち人間は同じ過ちを繰り返してしまう者だからです。そのことは聖書にも 記されているし、今日の私たちが置かれた状況からも明らかです。

ロシアとウク ライナの戦争だけでなく、日本も近隣諸国との関係が常に緊張しています。国と 国は互いに牽制し合い、何かあればすぐに報復措置を取ります。私たちは、非常 に不安定な社会情勢の中にいます。戦争が過去のものではなく、現実の問題とし て我が身に迫っている今、私たちは何を学ばなければならないでしょうか。

私たちが平和を考える時、真っ先に注目するのは戦争のことです。しかし、戦争が無ければ平和かというと、そうではないでしょう。先日テレビで、ウクライナの戦争で教育が受けられなくなった子どもたちのために、避難先のポーランドで小さな教室を開いて勉強を教えている女性のことを紹介していました。その女性のインタビューの中で、「子どもたちは、未来を思い描くことができないのです。」と話していた言葉が心に残りました。「未来を思い描くことができない。」その言葉を心の中で繰り返していると、画面がコマーシャルに切り替わりました。保険会社のCMでした。出演者が優しい笑顔で「未来のはなし!」と語りかけています。未来は明るいと思わせてくれるような雰囲気でした。

ウクライナの子どもたちの話と保険会社のCM。一見まったくつながりがないものですが、その根底に共通してあるものは、未来への希望です。戦争が無いことが平和だと一般的に考えられているのは、戦争が人間から未来を奪うものだからではないでしょうか。平和というのは、安心して未来に希望を持てることではないかと思うのです。本日は、与えられたみことばから、未来に希望を持つということについて、共に考えてみましょう。

先ほどお読みしたミカ書には、未来の平和の預言が書かれています。ミカは紀元前8世紀後半のユダ王国で活動した預言者で、同じ時代の預言者にはイザヤがいます。この時代は、アッシリア帝国に侵略され、政治は緊張状態にありました。また、本日の箇所よりも前に書いてあることを読みますと、政治的にも経済的にも不正が蔓延していたようです。権力者たちは人々から搾取して私腹を肥やそうとし、弱い者が家から追い出され、祭司も預言者も買収されていました。人々は心から安心できない、不安定な日々を生きていたのです。

今日の私たちのように。ミカは、堕落してしまった国に滅びを預言すると共に、来るべき日には平和が実現することをも預言しています。「彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。」手にするのは戦いの道具ではなく、大地を耕し生きるための道具。もはや戦う必要がなくなり、人々が安心できる平和な時が来る。未来には希望がある。戦いや不正が蔓延する生活に疲れた人々にとって、この希望がどれほど大きな意味を持っていたことでしょうか。

ここで本日の使徒書エフェソの信徒への手紙 2 章を見てみましょう。ここに 書かれていることの背景となっているのは、ユダヤ人と異邦人の間の隔たりで す。ユダヤ人は神様に選ばれた民として、律法に固執していました。そもそも律 法は、神様が民を祝福し、良く生きるために与えられたものでしたが、彼らは次 第に律法を自分と他者を区別するもの、自分の優位性を保つものとして用いる ようになりました。律法を守っている自分たちは優れており、律法を知らない 人々は劣っていると。律法という名の壁が、ユダヤ人と異邦人を隔てていたので す。時代は変わっても、人々の間には敵意があり、平和な世の中ではなかったの ですね。そこに、イエス様が来られた。イエス様は律法の本来の意味を問い直し、自らが十字架の上で死ぬことによって、人々の罪の負債を贖ってくださいまし た。エフェソの信徒への手紙 2 章 15 節には、「キリストは、双方を御自分にお いて一人の新しい人に作り上げて平和を実現し」たと書かれています。イエス様 がご自分において「一人の新しい人」を作り上げたとはどういうことでしょうか。

私は先ほど、安心して未来に希望を持てることが平和なのではないかと申し上げました。安心して未来に希望を持つためには、安定した土台が必要です。戦地の人々がそうであるように、安心できない環境の中では、明日のことさえ思い描くことができません。先ほどのユダヤ人たちも、本来の意味を失い空虚なものとなった律法にしがみ付き、土台が揺らいでいました。ガラテヤの信徒への手紙3章の中でパウロは、イエス様につながることについてこう言っています。「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」この世のものを否定するつもりはありません。確かに、他人に自分を証明できる国籍や身分があって、生きていくための蓄えがあることは大切なことです。しかし、私たちがそれを持つことによって安定していると思ってしまいがちなこの世の基準は、実際は違いを生み出しはしても、私たちを一つにすることはできません。状況が変われば、今ある価値も無くなってしまうかもしれない、不安定なものです。

イエス様が私たちを、そのようなものに支配されることのない新しい人として一つにして生かしてくださることは大きな恵みです。なぜなら私たちは、空虚で不安定なものに必死にしがみ付いて生きる生き方から解放されるからです。イエス・キリストという安定した土台の上に立つことができるからです。イエス様は、本日の福音書の中で、「わたしの愛にとどまりなさい」と語りかけておられます。そうです。イエス様という土台は、永遠にとどまり続けることができるものなのです。しかも、イエス様ご自身がそれを求めておられます。この箇所はもともと命令形では書かれていません。イエス様が私たちにこうあって欲しいと求めておられる心の中の思いが投げかけられているのです。イエス様は、安心して未来を築くことのできる土台の上に、私たちを招いてくださっています。

しかしながら、私たちを取り巻く物事に目を向けると、イエス様が平和を実現なさったというのは本当なのかと疑いたくなるような現実があります。平和はまだ実現していないじゃないか。世界には今も争いがあり、人々は憎み合い、殺し合っている。私たちひとりひとりの間にも差別や偏見がはびこり、むしろ、人々の心の中にある悪い思いが露わにされているではないか。過去の失敗から学ぶことができず、人類は破滅への道を歩んでいるようにも見えます。確かに、私たちが願う平和はまだ実現していません。私たちは、しばらくは頑張れても、うまくいかなくなると、心が折れて諦めたくなるものです。しかし、思い通りにならない時にこそ、私たちが、あらゆる隔ての壁を越えて私たちを一人の新しい人となさったイエス様の僕であることを思い出したいのです。心を乱される時こそ、イエス様という揺るがない土台に立つ者であるということを確認するのです。

私は、本日がむさしの教会での実習最終日です。2年生の時から一年半の間お世話になりました。むさしの教会は日本福音ルーテル教会の中では規模がとても大きく、在籍する信徒の方の人数も多い教会です。それだけ年齢の幅も広く、様々に違った背景や考え方を持つ信徒さんたちが集まっておられます。つまり、それだけ隔ての壁が生まれやすい環境にあるということです。しかし、そのような環境にあるにも関わらず、私は、むさしの教会でお会いする皆さんが、イエス様によって一つにされているのを何度も目撃しました。コロナ渦にあって、今までのように集えない中でも、お互いを思いやり、声を掛け合い、共に生きて行こうとされる姿。議論することを恐れず、近くにいる人のためにも遠くにいる人のためにも働く教会の未来について、愛をもって考えておられる姿が、そこにはありました。それは、むさしの教会のみなさんが、イエス様という土台にしっかりと根を張って生きておられるからだと思います。週に一度の実習ではありましたが、多くのことを学ばせていただきました。

さて、最後にミカ書の一節に注目してみましょう。ミカ書4章5節の終わりには、「我々は、とこしえに 我らの神、主の御名によって歩む。」と書かれています。これは、人々の信仰告白です。主の呼びかけをただ聞くだけではなく、「私たちは主の御名によって歩む」と決断しています。そこには、神様への信頼と未来への希望によって強められた人々の意志が込められています。

では私たちは、「私の愛にとどまりなさい」と言われるイエス様の呼びかけにどう答えるべきでしょうか。平和を祈り求めるこの日、私たちは、イエス様という揺らぐことのない土台に立っていることを確認し、私たち自身が未来に希望を持つ者でありたいのです。そして、豊かに与えられた者であるからこそ、今度は与える人となって私たち一人一人が、むさしの教会が、ルーテル教会が、できることをあきらめずに行う決意をしたいのです。誰もが未来への希望を奪われることのない平和を共に築いていくために。