【説教・音声版】2022年7月31日(日)10:30  聖霊降臨後第8主日礼拝 「 何が一番大切か 」 浅野 直樹牧師

聖書箇所:ルカによる福音書 章13~21節



「コヘレトは言う。なんという空しさ なんという空しさ、すべては空しい」。

今日の第一の朗読・旧約の日課は、この一度聞いたら忘れられないような、独特の世界観が醸し出されている『コヘレトの言葉』(以前は『伝道者の書』と言われていましたが)からでした。この書は、聖書の中でもちょっと変わり種、と言いますか、異質の書だとも考えられています。ある方は、「悲観的厭世的(厭世…「世の中をうとましく思うこと」ですね)」だとも表現しています。一見すると、その通りだと思います。

しかし、そういった感覚は、何もこの『コヘレトの言葉』に限りません。実は、普段私たちの礼拝では朗読していませんが、教会手帳をお持ちの方はお分かりだと思います、数年前に新しい日課になりまして、毎主日(日曜日)の日課として、詩篇も選ばれているのです。今日の日課として選ばれているのは、詩篇49編ですが、先ほどの『コヘレトの言葉』と非常に共通しているところがありますので、ちょっと読んでみたいと思います。詩篇49編2~13節です。

「諸国の民よ、これを聞けこの世に住む者は皆、耳を傾けよ人の子らはすべて豊かな人も貧しい人も。わたしの口は知恵を語りわたしの心は英知を思う。わたしは格言に耳を傾け 竪琴を奏でて謎を解く。災いのふりかかる日わたしを追う者の悪意に囲まれるときにも どうして恐れることがあろうか 財宝を頼みとし、富の力を誇る者を。神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない。魂を贖う値は高くとこしえに、払い終えることはない。人は永遠に生きようか。墓穴を見ずにすむであろうか。人が見ることは 知恵ある者も死に 無知な者、愚かな者と共に滅び 財宝を他人に遺さねばならないということ。

自分の名をつけた地所を持っていても その土の底だけが彼らのとこしえの家 代々に、彼らが住まう所。人間は栄華のうちにとどまることはできない。屠られる獣に等しい」。「財宝を頼み」とし、「富の力を誇」ったとしても、何になるのか。それで、果たして命が贖えるというのか。知恵ある者も亡き者も、みな等しく死ぬだけではないか。名を残し、広大な土地を得たとしても、人の永遠の住処は、結局は土の中、死者の国に過ぎないではないか。いっとき栄華を極めたとしても、そんなものは時が移れば過ぎゆくもの。そんなものにより頼んで、一体何になるというのか。そうこの詩人は問う。今の政治家たちに聞かせたいくらいです。いいえ、これは私たち自身の問題でもあるでしょう。なぜなら、「諸国の民よ、これを聞け この世に住む者は皆、耳を傾けよ 人の子らはすべて 豊かな人も貧しい人も。」と語りかけられているからです。そうです。一部の人ではない。私たち全てが聞くべき言葉です。

先ほどは、これは『コヘレトの言葉』と非常に似ている、と言いましたが、「空しい」という言葉は直接的には出てきませんでしたが、この『コヘレトの言葉』を読んだことのある方なら、なるほど似ている、と思われるのではないか、と思います。では、なぜそんな「空しさ」を生むのか。私は、ある種の不確実性だと思っています。つまり、方程式通りにはならない、ということです。こうこうこういった原因があるからこうなるのだ、といった式と想定される答えとが、必ずしもイコールでは結びつかない、ということです。

例えば、悪は栄えない。悪は必ず滅びる。罪を犯せば必ず報いがある。しかし、コヘレトも指摘していますように、この世の中は必ずしもそうなっていない現実がある。むしろ、悪の方がかえって栄えているのではないかとさえ思えてくる。逆に、正直者、正しき者が報われない現実もある。かえって、「正直者が馬鹿を見る」なんて言われる始末です。そんな正直者、純粋な人たちの弱さにつけ込んで貪り尽くそうとするハゲタカたちも後を断たない。あるいは、努力は必ず報われる、と言われる。しかし、果たして本当に全ての人が平等に、同じように努力が報われているのだろうか。私は、そうは思わない。実はこう
した矛盾(「努力は必ず報われる」「本人の努力次第」とは必ずしも言い切れない)を無視した現代社会のあり方が、以前もお話しした「無理ゲー社会(ある人たちにとってはディストピア)」を生んでいる要因になっているのではないか、と思うのです。

ともかく、人はそんな不確実性が生み出す「空しさ」をなんとか回避しようとするのでしょう。そこで、確実なものだと思われている地位、名誉、権力、富・財産、自己の才覚、あるいは生命力・健康を追い求めていくことになる。しかし、果てして、それらは本当に確実なものなのか、それで本当に「空しさ」を埋め合わせしていけるのか、と先ほどの詩篇の言葉は問うわけです。

今日の福音書の日課は、群衆の中の一人の言葉がきっかけとなりました。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」。これは、色々とイエスさまの教えを聞いている最中のことだったようですが、何もこんな時にこんなことを、と思わない訳ではありません。しかし、どうやらそうでもないようです。当時は長男が遺産の大部分を相続したようですが、長兄以外の兄弟たちにもいくらかばかりの分け前はあったようです。

しかし、この人はそんな正当な相続分さえももらえなかったらしい。そんな時、律法の規定に詳しいラビ(教師)たちに調停を願うことは一般的なことでした。この人も、イエスさまからいろんな話を聞きながら、自分の正当な権利を弁護してくれるに違いない、と思って、ああいった申し出をしたのでしょう。ところが…。イエスさまはこう答えられました。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか」と。

正直、私はこういった所に躓くんですね。冷たいな~、と。案外、聖書には私たちが思っているのとは違ったイエスさまの姿も描かれているんです。しかも、イエスさまは「どんな貪欲にも注意を払い」なさい、と話を進められる訳です。あたかも、あの願い出た人が「貪欲」であるかのように。これを聞いた人は「え~」と思ったでしょう。私たちも、その場に居合わせたら、そう思ったかもしれない。もう一度繰り返します。この人は正当な要求をしただけです。律法にも何ら反していない。兄の分をよこせ、というのではない。兄の分は分でとったらいい。しかし、律法で許されている範囲の自分の取り分はもらって当然ではないか、と言っているだけです。むしろ、そんな小さな権利さえ蔑ろにする兄の方が悪いと思う。

ここで語られた譬え話だってそうです。この人はなんら不正はしていない。悪いことをして、人から搾取して財産を増やしたのではないのです。自分が所有していた畑がたまたま豊作だっただけです。むしろ、ユダヤ的理解で言えば、それは神さまのお恵みとさえ思えることです。そういった予期せぬ幸運を、むしろこの人は巧みに用いたと言えるのではないでしょうか。そんな幸運がいつも起こるとは限らないからです。不確実性です。そんなものに依存するようではダメです。創世記のヨセフ物語りなんかにも記されていますように、場合によっては飢饉が何年も続くことだってある。それは、来年かもしれない。収
穫物を売ってお金に換えても、もし来年以降飢饉が続くようならば、いくらお金を出しても食料が買えなくなるかもしれません。そういう意味では、この食糧を蓄えておく方がより確実でしょう。むしろ、この譬え話の金持ちは、熟慮に熟慮を重ね、何度もシミュレーションをしては、そんな賢い選択をしたのではなかった。どこぞの経済界に採用したいほどです。しかし、イエスさまは、「愚か者」と言われる。

こう考えていきますと、私たちの常識からすれば、これらは、むしろ普通のこと、当然のこと、賢い選択のように思われます。聖書の他の箇所から見ても、そうではないでしょうか。「蛇のように賢く、鳩のように無垢」であれ。であれば、それらのことと私たちの「命」とを結びつけていることこそが問題なのでしょう。こうあるからです。「人の命は財産によってどうすることもできないからである」。事実、先ほどの譬えでも、知恵の限りを尽くして最善を講じたとしても、命を無くしたら一体何になるのか、と言っている訳です。そうです。私たちは、それらの確かさを「命」の確かさと結びつける所にこそ、問題がある、と言われるのです。財産にしろ、権力にしろ、自己の才覚にしろ、それら自体は決して悪いものではないでしょうが、それらは命の確かさとは何ら関わりがないのだ、と。だから、先ほどの詩篇でも「死」が問題とされる。死によって失われてしまうものにしがみつくことに、頼ることに、一体どんな意味があるというのか、と。それは、結局は「空しい」ことではないか、と。

「最後の晩餐」(1625-1626)ヴァランタン・ド・ブーローニュ


ですから、今日の結論でイエスさまはこう言われるのです。「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」。私は、この言葉を聞いて、まずは「天に宝を積む」といった言葉を連想致しました。しかし、それだけでもないように思います。自分の命を支え、守り、豊かにし、永遠に生かして下さるのは、神さまなのだ、との信頼です。つまり、信仰です。ですが、ここで私たちは問う。果たして、信仰とは確実なものなのだろうか。先ほどの「空しさ」も、結局は神さまはおられないのではないか、神さまは働いてくださらないのではないか、助けてはくださらないのではないか、といった
不確実性、不安・不満から生まれていたのではなかったか、と。

確かに、そうです。しかし、私たちはこのことを忘れているのかもしれません。信仰は試されるものだ、ということを、です。信仰は試されるのです。しっかり、その確さの上に立っているのか、と。では、その確かさとは何か。私たちの信心ではありません。信じる力、熱意ではないのです。そうではなくて、私たちが信じるイエス・キリストの確かさ、です。これほど確かな方はおられない。それを、私たちは信じる。

名誉、権力、力、財産、夢・理想、やり甲斐、友・愛すべき者たち…。私たちが確かだと思うもの。いいです。それらは、私たちの「空しさ」を回避するモチベーションになる。しかし、残念ながら、私たちの命の補償にはならないのです。その確かさにはならない。最後は誰も、何も助けてはくれないからです。そうではない。イエス・キリスト。私たちには、十字架と復活によって私たちへの愛を、永遠の命の確かさを示して下さったイエス・キリスト、イエスさまがいるのです。私たちの最も大切な「命」を託すことのできる方が。そのことを、もう一度改めて確認していきたいと思います。