【説教・音声版】2022年6月5日(日)10:30  聖霊降臨(ペンテコステ)礼拝  説教 「聖霊の力」 三浦 慎里子 神学生



私たちの教会は、ペンテコステの日を迎えました。約束された聖霊が、使徒たちに降った日です。この時起こった出来事から、多くのキリスト教会では、この日を教会の宣教が始まった日、教会の誕生日として祝っています。神様から送られた聖霊が何をしたのか、その働きについて紐解いてまいりましょう。先ほど読まれました旧約聖書の箇所は、バベルの塔の話でした。世界中が同じ言葉を同じように話していた頃、人々は天まで届く塔のある町を建てて、有名になろう、散らされないようにしようと考えますが、その企みを知った神様によって言葉が混乱させられ、全地に散らされてしまうという内容です。人々が「散らされないようにしよう」と言っているということは、散らされることを恐れているからでしょう。人々は安全な場所に留まろうとします。自分たちを守るためにひとつにまとまろうとします。しかし、創世記1章28節に書かれているように、神様は初めから、ご自分が創造された被造物を全地に広がらせようとなさるのです。

「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」と。自分たちの保身と欲望のために天まで届く塔を作り、神様に反抗した人々には、言葉が混乱させられた上に、全地に散らされるという裁きが下されます。散らされる、分断されるということは、悲しく、恐ろしいことです。私たちの生きる今の世界においても、人間の自己中心的な思惑は、あらゆる分断を生み出しています。戦争、環境破壊、差別、富の偏りなど、向き合わなければならない問題はたくさんあります。社会的な問題だけではなく、私たち個人の日々の生活の中にも妬みや憎しみなど、分断は存在するでしょう。そのような状況を少しでも改善しようと努力してみても、問題の闇の深さに打ちのめされ、自分の無力さを思い知ることも少なくありません。私たちはばらばらです。しかし、この旧約聖書のみことばによって、聖霊降臨の出来事は、私たちへの希望の福音として光を放ち始めます。これは、神に反抗した人間たちに裁きが下った、という単純な話ではありません。確かにばらばらに散らされたことは裁きであったけれども、同時に救いの始まりでもあったのです。なぜなら、聖霊降臨の出来事において神様は、ばらばらに散らされた人々を一つに集めておられるからです。

本日の使徒書の箇所は、使徒たちに聖霊が降った時の様子を生き生きと臨場感たっぷりに伝えています。先週の主の昇天主日で読まれた使徒言行録1章で、イエス様は使徒たちに、「エルサレムを離れず、父の約束されたものを待ちなさい」と命じられました。使徒たちはイエス様から言われたことを守り、エルサレムに留まり、集まって祈っていました。すると突然、その時はやってきました。

激しい風が吹いて来るような音が鳴り響き、炎のような数々の舌が現れ、使徒たちの上に留まります。聖霊はまず、人の聴覚と視覚に対するしるしとして現れました。神がご自身の臨在を、目に見える形で示されたのです。しかし、これで終わりではありませんでした。聖霊に満たされた使徒たちが、それぞれに他の言語で話し出したのです。非常に迫力のある、異常な光景が広がっていたことでしょう。ここで使徒たちは「霊が語らせるままに」語ったと書かれています。使徒たちは、自分で努力して外国語を習得したのでもなければ、自分が思ったこと伝えたいことを話しているわけでもありません。聖霊は、使徒たちの中に入り、使徒たちを満たし、内側から突き動かす力となったのです。さらに聖霊は、ペトロを雄弁に語らせています。

ペトロというと、イエス様が捕まった時、イエス様のことを知らないと言って裏切ってしまった、あの場面を思い出します。イエスの仲間ではないかと聞かれて、「そんな人は知らない」と答えたあのペトロが、イエス様によって預言が成就されたことを語っているのです。公然と、大胆に。聖霊は、臆病だったペトロに命を吹き入れ、大胆に語る賜物を持った人へと創り変えました。本日読まれた箇所には含まれていませんが、この後の部分で、ペトロの説教を聞き心を打たれた三千人もの人々が、洗礼を受けて仲間に加わったと書かれていますから、ペトロが語った言葉がどんなに力に満ち溢れていたかが想像できます。こうして聖霊が降った使徒たちの様子を見ていきますと、聖霊の数々の働きは、ひとつのことを成すためにあることに気付きます。それは、「語る」ということです。聖霊は使徒たちの中に入り、満たし、創り変えて、語らせています。何を語らせるのか。イエス様の死と復活についての証言です。聖霊降臨の出来事において、神様は、キリストを証言するということによってばらばらに散らされた人々を一つにし、ご自分のもとに立ち返らせ、ご自分と結ばれた生き方へと招かれるのです。私たちはキリストによって一つにされるのです。この証言を語らせるのが聖霊の力です。

語る者だけでなく、聞く者の存在も、宣教には必要です。聖霊が降った日は、五旬節の祭の日でした。ユダヤ教の大きな例祭の一つです。エルサレムは、当時すでに周辺の様々な地域から多くの人が集まる国際都市でしたが、祭りの時には、イスラエル全土から、そしてその他の地域からさらに多くの人々が巡礼に訪れました。ですから、五旬節の祭の日、エルサレムは人々の熱気や興奮に満ち、大変な賑わいを見せていたと思われます。聖霊は、そのような時と場所において使徒たちに降りました。聖霊降臨は、使徒たちの集まりの中だけで起こった内輪の出来事ではなく、公の出来事として起こったのです。物音を聞きつけ集まってきた大勢の人々の耳に飛び込んできたのは、それぞれの土地の慣れ親しんだ言葉でした。私は九州の生まれですが、東京で自分の出身地の方言を聞くと、即座にアンテナがピーンと立ち、その人の話が良く耳に入ってきます。その人のことを知らないのに、まるで友達のような親近感さえ湧いてきます。海外に行った時に日本語を耳にするとどこかほっとした気持ちになる、あの感覚を経験されたことのある方もいらっしゃるのではないでしょうか。

ここに書かれている、この場に集まってきた人々は、エルサレムからはかなり遠く離れた、広い範囲の地域からやって来た人々でした。ユダヤ人ではない人々もいました。自分の出身地の言葉で語られる偉大な神様の言葉は、エルサレムで話される共通語で聞くよりももっと、はっきりと、鋭く、一人一人に届いたことでしょう。神様は、ばらばらになった言語の違いをそのままにされ、統一しようとはなさいませんでした。むしろ、その違いの中で一つの証言を聞き、一人一人が豊かに福音を受け取ることができるようにし、国境を越えて救いが広がっていくようになさいました。キリストについての証言は、多くの人に聞かれ、世の果てまで広がっていかなければならないのです。私たちキリストの教会は、使徒たちが担ったこの役割を引き継いでいます。そんな大それたことが自分にできるのかと重荷に感じるでしょうか。今の教会にそんな力はないと思われるでしょうか。

イエス様はヨハネ福音書14章においてこう語っておられます。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は真理の霊である。」イエス様は、聖霊を送ることを約束してくださっています。そして、イエス様が約束してくださることは必ず果たされます。確かに、私たちの生きる現実には悲しい分断があります。私たちはばらばらです。しかし、イエス様が約束してくださった聖霊が与えられ、イエス様を証言するものとされることを、そしてその証言によって、分かたれたものが一つにされることの確かな希望を、私たちは聖霊降臨の出来事から受け取ることができます。遠い昔、使徒たちは、聖霊の力によって心の目が開かれ、自分の内にイエス様がおられることを知り、確信を持って神様の言葉を伝えてゆく者とされました。ペンテコステのこの日、教会を受け継いだ私たちは、再びこの始まりの出来事に立ち返ります。そして、燃える心でここから押し出されていきたいのです。