【説教・音声版】2022年5月8日(日)10:30  復活節第4主日礼拝  説教 「 イエスの羊」 浅野 直樹 牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書10章22~30節

信仰とは、実に不思議なものだと思います。
私ごとで恐縮ですが、私は信仰に悩んできた人間です。受洗まで5年かかりました。その間に、教会から逃げ出したこともありました。罪の自覚に居た堪れなかったからです。私のような罪深い者がいるような場所ではないと…。受洗後も、信仰の悩みが消え去ったわけではない。その後も、何年も悩み続けました。時には、友人に伝道をしようと試みましたが、失敗したこともありました。そのような過程を経て気付かされたことは、信仰とは実に不思議なものであるということ、そして、信仰とは自分の内から出てくるものではない、ということです。神さまからの賜物でしかない。そう痛感させられてきました。

日の箇所は、読み方によっては大変厳しいものです。ある意味、絶望感を伴うもの、と言っても良いでしょう。信仰に悩んでいたかつての私なら、そう受け止めたに違いな い。なぜなら、イエスさまの羊でなければ、可能性がゼロだからです。いくら求めても、求道しても、救われたいと願ったとしても、もしイエスさまの羊でなければ、決して手に入れることができないからです。ある意味、この決定論的な事柄は、私たちにとっては理不尽とさえ思える。

今日の物語は、ユダヤ人からの問いからはじまりました。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」。私たちは、聖書の中のこういった言葉を読むと、ついついイエスさまに敵対する者たちが、揚げ足を取るために、訴える口実を見つけるために、論争をふっかけている、と受け止めやすいと思います。確かに、そういったことがあったのかも知れませんが、案外純粋に本当のところを知りた い、と思っての問いだったのかも知れません。しかし、イエスさまはこう言われるので す。

「あなたたちは、信じない。わたしの羊ではないからである」と。そう言われてし まっては、もう身も蓋もない。先ほど言いましたように、せっかく求めたとしても、「あなたは、わたしの羊ではないから、無理だ」と言われてしまったら、もうどうしようもないでしょう。そして、おそらく私たちの多くは自信満々に、いいえ、私はイエスさまの羊です、と言い切れないところがあるのではないか、そう思う。

これはよく、「選びの教理」「予定論」と言われたりするものです。当然、そのことを突き詰めていけば、救われる者も、救われない者も、すでに決められている、変えることのできないものとして選ばれている、ということになるでしょう。しかし、何度かお話ししてきたことですが、本来の予定論は、自分が果たして選ばれているかどうかと不安に なっている者に対して、「大丈夫、あなたは選ばれている」と確信を与えるためのものだと思うのです。少なくとも、不安感を助長させるためのものではないはずです。そこで、はっきりと区別しなければならないのは、いわゆる不信仰と信仰的な悩みとは全く違うものなのだ、ということです。

最初に私自身のことを話しましたが、その頃の私は、信仰の悩みを持つことを「不信 仰」だと思い込んでいました。だから、イエスさまの羊ではないのではないか、と思い悩んだ。しかし、悩めるということは、信仰があるからです。与えられているからです。自分の信仰的弱さを嘆いたり、御言葉に従い得ない自分を責めたり、自分の不信仰ぶりに(私がこのような時に使う「不信仰」とは、不良信仰のことを意味するのですが)嫌気が差すのは、「信じたい」との思いが与えられているからこその悩みだからです。それに対して、不信仰とは、文字通り信仰を否定することです。つまり、信じたいのに、なんていう悩みなど起こらないのが、不信仰。自分とは関わりのないこととして、無関心でいられる、ということです。皆さんは、そうではないでしょう。

確かに、信仰的な悩みはあるのかも知れない。自分は不信仰だ、と思えてくるのかも知れない。しかし、そのことに落ち込むことができること自体が、すでに信仰が与えられている証拠なのです。イエスさまの羊であることの証拠なのです。しかし、羊は迷いやすいことも事実。私たちはついつい目の前の自分にとっての良きこと、利益に心奪われてしまい、向かうべき場所を見失ってしまうかも知れない。では、そんな羊は見捨てられるのか。いいえ、違うわけです。イエスさまはご自分の羊を、他の99匹を野に残しておいてでも、探し出される。決して、見捨てるようなことはされない。だから、「だれも彼らをわたしの手から奪うことはできな い」と言われるのです。

自信を持ってください。自分に、ではありません。この私を、私たちを、イエスさまの羊としてくださった、そのようにお選び下さった神さまに、イエスさまに、です。私たちが信仰深いから、熱心だから、だからやっていける、信仰生活を続けていける、ということではありません。私たちがイエスさまの羊だからです。そうして下さったからです。だから、私たちは滅びない。見捨てられることもない。そのことに、自信を持っていただきたいのです。

先ほども言いましたように、イエスさまは「だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」と言ってくださいましたが、この言葉を聞いて、私自身はパウロの次の言葉を思い出します。ローマの信徒への手紙8章35節以下です。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。…わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」。

このコロナ禍、ウクライナ問題…、それらによって、この世界が大変厳しいものであることに、私たちは改めて気付かされたのではないでしょうか。先日も電話相談を受けましたが(教会員の方ではありません)、本当に厳しい現実でした。たとえ、そうではなくても、いずれ私たちの誰もが「死」という厳しい現実に向き合わされることになる。そんな世界で、私たちの現実の中で、一体何が救いとなるのか。

イエスさまです。これは、単なる気休めではありません。イエスさまの時代、初代教会の時代は、今の私たちよりも、よほど厳しかった。子どもたちは生まれてすぐに死んで いった。大人になるのは当たり前ではなかった。ローマに占領されていた。領主たちの理不尽な統治に苦しめられていた。何度も、反乱が起こっていた。病気で死ぬ者、武力で殺される者、あちらこちらに死の匂いが漂っていた。将来に展望など見出せなかった。本当に、この世界に神さまはおられるのか、と問わざるを得ない現実を抱えていた。その人々を救ったのが、イエス・キリストなのです。おとぎ話でもなんでもない。ハッピーエンドとも限らない。信仰のゆえに殺されていった人だって多くいた。それでも、人は救われたのです。イエスさまによって救われたのです。なぜなら、永遠の命が与えられたからです。

「永遠の命」…。文字通り、永遠の命です。しかし、それだけではない。ヨハネはこのようにも語っています。17章3節「永遠の命とは、唯一まことの神であられるあなた と、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」。「知ること」、これは深い関係性を表す言葉です。神さま・イエスさまと深く結ばれる。しかも、永遠に。それが、永遠の命…。だから、言える。誰も、奪うことはできない、と。この世の何者からも、悪魔からも、死においてでさえも、神さまから、イエスさまから、引き離されることはない。その愛から、断ち切られることなど、あり得ない。それが、イエスさまの羊。そして、あなた方は、すでに「わたしの羊なのだ」とおっしゃってくださっているのです。

なろうと思ってなれるものではありません。私たちは、そんな不思議な世界の中に生きている。生かされている。信仰という不思議な世界の中に、神さま・イエスさまとのつながりの中で…。

悩んでもいいのです。むしろ、イエスさまの羊ならば、信仰の悩みはつきものなのかも知れません。しかし、そんな自分ばかりを見つめても解決にはつながらないことも知る必要があります。むしろ、そうではなくて、この言葉に耳を傾けていきたいと思う。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」。こんな私が、イエスさまの羊などと受け止めていいのだろうか。

イエスさまの愛を、赦 しを、救いを、信じていいのだろうか。いつどこにいても、どんな時にも、たとえ死の床につくような時にも、その先にも、イエスさまは本当に私を見捨てることなく、一人にすることなく、共にいて下さるのだろうか。こんな弱き信仰の、罪深い私でも…。そう疑ってしまうかも知れない。それが、私たち。でも、信じるのです。この私の気持ち、思い、心を信じるのではない。

「あなたの言葉を、その約束を信じます。たとえ、信じられないといった自分がいたとしても、あなたがおっしゃるなら、そう信じます」と言っていける、信じていけるのもイエスさまの羊であることを覚えていきたいと思います。