【説教】2022年5月1日(日)10:30  復活節第3主日礼拝  説教 「 再起」 浅野 直樹 牧師

復活節第三主日礼拝説教



聖書箇所:ヨハネによる福音書 21:1-19

弟子たちは、ペトロは失敗をしました。明らかに、失敗したのです。イエスさまを置き去りにして、逃げてしまったからです。最後の最後まで従い続けることができなかったからです。特にペトロは、3度「イエスさまを知らない」と言いました。イエスさまとの関係性を否定したのです。あの人と私は、何の関わりもないのだ、と。彼らは、失敗したのです。

私たちも失敗します。人生において、家庭において、職場において、様々なところで失敗する。人生の選択、人間関係、言葉の失敗を繰り返してしまう。そんな、取り返しのつかない事をしてしまった、という「傷」を、いくつも抱えているのかもしれません。
では、信仰は? あの弟子たちとは違うのか? イエスさまに対して申し訳ない、顔向できない、といった思いはないだろうか…。
失敗したペトロに、イエスさまはこう問われました。「あなたは、わたしを愛しているか」と。あなたにも、同様に問われたとしたら、あなたはどう答えられるでしょうか。「あなたは、わたしを愛しているか」。

先週、復活のイエスさまと出会った弟子たちは「救われた」と言いました。本当に、そうだと思います。彼らは、失敗したからです。復活のイエスさまとは会いたくないと恐れるほどに、鍵をかけ閉じこもっていたのです。その只中にイエスさまは無理矢理に入ってこられ、恨みでも、怒りでも、裁きでもない言葉を語ってくださったからです。「あなたがたに平和があるように」。シャローム。この言葉は、彼らにとって、まさに救いの言葉に他ならなかったでしょう。シャローム。「あなたがたに平和があるように」。

ペトロはイエスさまが死におもむくと告げられた時、このように答えました。
ヨハネ13章36節以下です。「シモン・ペトロがイエスに言った。『主よ、どこへ行かれるのですか。』イエスが答えられた。『わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。』ペトロは言った。『主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。』」。あなたのためなら、イエスさまのためなら命を捨てる。ペトロはそう誓う。同じヨハネ福音書にはこんな言葉もあります。「友のために自分の命を捨てること、これ以上の大きな愛はない」と。ペトロがいかにイエスさまを愛していたかが分かります。

ペトロ自身、そんな自分の愛を疑うことはなかったで しょう。しかし、その思いは崩れてしまった。ヨハネ福音書も、そのペトロが3度イエスさまを否んだことを告げています。しかし、ペトロが泣き崩れたことは記していません。それは、他の共観福音書が伝えているところです。しかも、マタイとルカは「激しく泣いた」と伝えている。大の大人が、海の男が、人目も憚らずに泣き崩れるのです。これほど激しい心の動きはない。

では、なぜそれほど激しく動かされたのか。自分のイエスさまに対する思いが、愛が、こんなにも脆いものだったのか、と痛感させられたからです。自信喪失、自己否定、自我崩壊といってもいい。人は誹謗中傷など「外」からの攻撃にももちろん傷つきますが、案外「内」からの攻撃…、自分が自分を否定するような、拒絶するような攻撃に弱いものです。もちろん、ペトロだって人間です。これまでにだってくよくよすることはあったでしょう。しかし、これほど内なる攻撃にさらされたのは、はじめての経験だったのかもしれません。

繰り返しますが、ペトロもまた復活のイエスさまと出会うことによって救われたので す。それは、事実です。復活のイエスさまを見て「喜んだ」と書かれてあるのが、何よりの証拠です。しかし、まだ積み残されていた課題があったことも事実のようです。赦されている、といった体験だけでは、まだ解決しきれていない課題があった。そのことを伝えているのが、今日の日課の物語でもあるように思うのです。

Christ’s Charge to St.Peter, by Raphael


今日の箇所では、ペトロと他の6人の弟子たちがディベリアス湖畔、つまりガリラヤ湖に来ていたことが分かります。故郷に帰っていたと言ってもいいでしょう。しかし、実はここで多くの人が立ち止まらされると言うのです。なぜならば、先ほどから言っています復活のイエスさまとの出会いの中で、このように言われているからです。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」。

つまり、宣教命令です。ここでペトロたちは宣教の命令を受けているのに、なぜガリラヤ湖に帰っているのか。しか も、宣教活動ではなく、かつての生業であった漁をしているのか、と問う訳です。しか し、私には彼らの気持ちがよく分かる気がする。私自身、失敗した経験を持つからです。確かに、赦されました。罪、過ち、失敗を赦していただきました。その体験は感謝に堪えないものです。しかし、自信はなかなか取り戻せません。過ちの記憶、失敗の記憶というものは、そうそう消せるものではないのです。確かに、赦して頂けたことは感謝なこと だ。

しかし、あのような失敗をしでかした者が、一体どの面下げて何事もなかったかのように宣教活動に踏み出せるのか、と。ペトロは確かに赦していただいたということを受け止めながらも、自分自身を赦すことができなかったのかもしれない。そんな悶々とした気持ちを振り払うかのように、忘れようとするかのように、かつてのように漁に出ていったのではないか、そう思うのです。しかし、一晩中働きましたが、一匹も捕れませんでし た。

ペトロは夜の暗闇の中、そんな徒労とも思える作業を繰り返しながら、思い出していたのかもしれません。あの時も、一晩中働いたが、一匹も捕れなかったな、と。そうです。ルカ福音書に記されている弟子の召命物語です。あの時も、一匹も捕れなかった。そし て、疲れ切って網を繕っていると、イエスさまが来られて、舟を使わせてほしいと言われた。人々への話が終わると、沖へ漕ぎ出しなさい、と言われた。一晩中働いたが何も捕れなかったと答えたが、お言葉だからと従ってみた。すると、信じられないくらいの魚が捕れた。あまりのことに恐ろしくなると、イエスさまはこうおっしゃった。「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と。懐かしく、思い返していたのかもしれません。

すると、一人の人から声がかけられました。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」と。その通りにしてみると、大量の魚が網にかかりました。そして、ヨハネとも考えられているイエスさまが愛しておられた弟子がペトロにこう語った。「主だ」と。雷にでも打たれたような感じだったのかもしれません。あるいは、ちぐはぐだった ピースが一気に当て嵌まったような衝撃だったのかもしれません。ペトロは思わず湖に飛び込むほどでした。
ペトロが復活のイエスさまと出会ったのは、これで3度目です。ですので、復活のイエスさまと出会ったという衝撃ではなかったでしょう。しかし、今度の出会いは、今までとは違うものであったはずです。赦しのため、というよりも、「再起」のため、と言えるのではないか。失ってしまっていたものを、再び取り戻すため。いいえ、元に戻るのではなく、新たにされるための出会いでもあった。

ペトロはイエスさまに問われます。「あなたは、わたしを愛しているか」と。ペトロはこう答えます。「はい、主よ。わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知で す」。これまでのペトロの性格から言えば、信じられないような答え方です。従来のペトロならば、「もちろんです。わたしはあなたを愛しています。この命にかけても」とでも答えたでしょう。しかし、この答えからは、そんな自信は感じられません。むしろ、主 よ、あなたこそ知っていてくださいます、とイエスさまに委ねているかのような言い方です。

ペトロはあの裏切りから、ずっと問うてきたのではないでしょうか。私のイエスさまへの思いは、愛は、本物なのか、と。あんなにも脆い愛など、愛の名に値しないのではないか、と。内から湧き上がる問いの中で、彼は自分の心を、本当の自分自身を見つめざるを得なかったのではないでしょうか。そこで、気付かされたことは、それでも愛している、という事実です。自分の内側に、奥深くに生まれていた、育っていた、イエスさまへの思いです。たとえそれは、小さく、脆いものであったとしても、弱く、儚いものであったとしても、他と比較したら見劣りするようなものであったとしても、それが否定しようのない真実だった。私は、イエスさまを愛している。

そこで、皆さんに、あなたに、改めて問いたい。イエスさまの「あなたは、わたしを愛しているか」との問いに、どうお答えになるのか、と。そうです。おそらく、自信満々に答えられるような愛はもってはいないのかもしれません。しかし、もっと奥深くを覗き込んでください。必ず、あなたにもイエスさまへの愛があるはずです。どんなに小さくて も、見窄らしくても、必ずある。イエスさまご自身が、その愛の業をはじめてくださったからです。でなければ、私たちは信仰に生きることなどできない。

ある方は、このペトロの愛を、「悲しみを知っている者の愛」だと言いました。そうだと思います。おそらく、ペトロも生涯、あの裏切りを忘れることはできなかったでしょ う。パウロもキリストの教会を迫害してしまったという痛みを生涯消せなかったでしょ う。しかし、その上で、いいえ、それ以上の恵みを知ったからこそ、イエスさまを愛する愛に生きられたのです。

「あなたは、わたしを愛しているか」。この問いは、責めるためでも、奮起させるためでも、落ち込ませるためでもありません。そうではなくて、こんなにも小さな愛であったとしても、その愛を引き上げてくださるためであり、受け入れてくださるためであり、新たな愛の絆で結んでくださるためなのです。
そこから、「主に従う」という道もはじまっていきます。