【説教・音声版】2022年4月10日(日)10:30  四旬節第6主日  説教 「 主イエスの十字架 」 浅野 直樹 牧師

主の受難主日礼拝



聖書箇所:ルカによる福音書23章26~49節

いよいよ受難週が始まりました。
これは、何度かお話しさせて頂いたことだと思いますが、むさしの教会ではどちらかと言いますとこの日を「棕櫚の主日」として記念してきたように思いますが̶̶今日も棕櫚 の十字架を用意してくださっていますので、お持ち帰りいただければと思います̶̶私が 赴任してからは、「受難主日」として守らせていただいていると思います。

もちろん、今週金曜日にも「聖金曜日礼拝」を行なってイエスさまの十字架の出来事を覚えて行こうと思っていますが、全ての方が参加できるわけではありませんので、十字架なしに、十字架を飛び越えて、いきなり「復活」に行ってしまうのはどうなのだろうか、と個人的には思っているからです。ですので、今日は皆さんとしっかりとイエスさまの十字架に思いを向けていきたいと思っています。

私たちは先週、衝撃的な映像を目にしました。ロシア軍の後退によって、キーフ周辺の惨状が明らかになったからです。SNSが戦争を変えたと言われますが、ご覧になられたことがおありでしょうか。ニュース映像等でも生々しく衝撃的ですが、私もほんの少し覗いてみたことがありましたが、もう見ていられないような惨状が映し出されていました。

一般市民のご遺体です。しかも、誤爆によるのでも、戦闘に巻き込まれたのでもないのです。明らかに標的にされた民間人。拷問され、手を後ろで縛られ、銃で撃ち殺されていく。

小学校の高学年のとき(確か4~5年生だったと思いますが)、学校の図書室で何気なく一冊の写真集を手にとったことがありました。戦争の写真集です。空爆され煙をあげている街中の様子や、瓦礫と化した建物など、色々な写真があったと思いますが、その中の一枚に釘付けになったことを今でもよく覚えています。おそらく、中国の人だったので しょう。軍服ではなく普通の服を着ていました。そんな3~4人の男性たちが手を後ろで縛られて跪いています。その後ろで彼らを見下ろすように立っていた日本兵が手前の男性の後頭部に拳銃の銃口を突きつけている、そんな写真です。しかも、その日本兵は笑っていた。あるいは、手前の人と談笑していたのかもしれません。笑いながら、銃口を突きつけていた。忘れられない写真です。

ロシア軍によるこの残虐極まりない振る舞いを非難するのは、もっともなことです。しかし、同時に、私はこの写真のことが思い起こされて仕方がないのです。日本もしてきたことではないか、どの口が言えるのか、と。いいえ、日本だけでもないでしょう。アメリカも、ドイツも、フランスも、イギリスも、どこの国でも、おそらく同じことをしてきてしまった…。それが、戦争です。

だから、どんな理由があろうと戦争はしてはいけないのです。綺麗な戦争など、あり得ないからです。ともかく、他人事としてはいられないような思いがする。残念ながら人類は、この21世紀になっても、7~80年前も、何百年前も、何千年前も、同じ愚かなことをし続けている。残念ながら、それが世界の現実。私たち人類・人間が歪めてしまった世界です。

私たちはひょっとして、ここ数十年の「平和ぼけ」と言われる幸いな時代の中で、どことなく罪の世界という現実を忘れてしまっていたのかもしれません。単に個々人の精神世界のことではなくて、具体的な罪の世界の現実というものを…。

改めて、ヨセフスが書いた『ユダヤ戦記』を読んでみました。このヨセフスはユダヤ人で、イエスさまがお亡くなりになられた少し後に生まれた人です。これは、いわゆる「マカバイ戦争」(紀元前167年)からユダヤ戦争(これはローマと戦った戦争で、エルサレム神殿が破壊された戦争として有名ですが)まで、主に戦争を中心に描いた歴史書ですが、彼自身、ユダヤ戦争には参加していましたので、自分の体験談も元にして書かれているものです。

これを読んでいきますと、なんだか今行われていますウクライナ侵攻のことが書かれているような錯覚を覚えました。いいえ、シリア紛争のことも、イラク戦争のことも、イスラム国との戦いについても書かれているようにさえ思います。笑ながら銃口を突きつけるような、自国の平和・安全のため、人々の幸せを守るため、自分達の正義を実現するためにと、まさに血塗られた歴史です。イエスさまは、そんな世界に来られ、そして死なれたのです。

イエスさまの物語は、メルヘンでもフィクションでもありません。この世界の現実の中で…、人が生き、死ぬ、そんな現実の真っ只中で起こった出来事です。この時代には、小規模な反乱が多発し、流血沙汰も多かったと言われます。ローマ兵は一応軍隊としての規律は保たれていたようですが̶̶ヨセフスも、ユダヤ戦争の時、実はローマの兵隊よりも ユダヤ人の武装勢力の方が恐ろしかったと述べています。これも、沖縄の人たちから聞いた、アメリカ兵よりも日本兵の方が恐ろしかったという証言を思い起こします̶̶、それでも見せしめ的な残虐行為がなかったとは言えないでしょう。パレスチナのあちらこちらで十字架刑の人が晒されていた、とも言われます。

あるいは、今風に言えば、政情不安でもありました。国の指導者たちが、イエスさま一向に事を起こされてローマ軍が介入しては敵わん、といった理屈も分からない訳ではありません。ともかく、社会秩序を乱す目障りなイエスさまを亡き者にしたかったわけです。

あるいは、民衆はどうだったでしょう。もちろん、賛否はあったと思います。しかし、おそらく、彼らの多くもイエスさまに罪状が見出せなかったとしても、自分達の正義感や価値観から、「十字架につけろ」と叫んだのではないでしょうか。

イエスさまは、道ゆく人々からも「自分を救ってみろ。そうしたら信じてやるさ」と馬鹿にされ続けられました。最後の最後まで、人々の悪意に晒され続けられました。そうです。イエスさまを十字架につけたのは、人々の悪意に他ならなかった。色々と言い訳をつけたとしても、人の命を奪ってでも自分を…、という人の罪の結果に他ならなかった。

確かに、そうです。イエスさまを十字架につけたのは、イエスさまを殺したのは、人 の、私たちの罪です。もし、私たちもその時代の只中にいたら、同じようにしたかもしれない。あの銃口を向けた人のように。しかし、私たちは知っています。それだけではな い、と。パウロもはっきりと語っている。イエスさまの十字架は、この罪人である私たちを救うためにあったのだ、と。

私たちは今朝、もう一度、あのイザヤ書第53章の言葉をしっかりと噛み締めていきたいと思います。

「わたしたちが聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように この人は主の前に育った。見るべき面影はなく 輝かしい風貌も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて 主は彼に負わせられた。……彼は自らの苦しみの実りを見 それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために 彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし 彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで 罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをしたのは この人であった」。

確かに、イエスさまを十字架につけたのは、紛れもない私たちの、人類の罪です。いまだになくならない罪のせいです。しかし、そんな罪人である私たちを神さまは放ってはおけなかった。自ら侵略行為を行い、拒否権を発動するようなどこぞの国とは違い、正し き・正当な裁きをしつつも、人を救う道を諦めることができず、命懸けでその道を探し求められた神さまのご計画でもあるからです。そんな神さまの御心にイエスさまは応えられた。全身全霊で応えられた。私たちに向けられた銃口の前に、自ら立ち塞がってくださった。私たちを愛するが故に。それが、ご自分の喜びであるかのように。

今日の日課には、このようにも記されていました。「太陽は光を失っていた」と。確かに、イエスさまの死はそのようなものです。全く光を失い、暗黒の中に閉ざされてしまうような出来事です。それが、罪の現実です。しかし、聖書は続けてこう語っていきます。

「神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた」と。だからこそ、神さまへの道が開かれたのだ、と。新たな何かが始まろうとしているのだ、と。イエスさまの死によって…。

十字架は終わりではありません。復活へと向かう道です。私たちは、来主日の復活祭に向かって、その道を歩んでいくことになる。確かに、2000年も経っても相変わらず人は変わらないのだ、と思い知らされるような昨今ですが、しかし、それでも、やはり人類は変わってきた、変わって来れたのだと思うのです。それは、やはりイエスさまの十字架と復活の出来事が、確かにこの世界の只中で起こったからです。

そして、それを信じる 人々が、群れが起こったから。罪を悔い、平和を求める人々が。それもまた、私たちのこの世界の現実だと思います。