【説教・音声版 】2022年3月6日(日)10:30  四旬節第1主日  説教 「 誘 惑 」 浅野 直樹 牧師

四旬節第一主日礼拝説教



 

聖書箇所:ルカによる福音書4章1~13節

今日から四旬節の主の日の礼拝がはじまって参ります。四旬節と言われますように、「灰の水曜日」から数えて40日間、イエスさまの復活を記念する日曜日は除かれます が、復活祭の前日、土曜日までが四旬節となります。伝統的には、イエスさまの御受難を想起する期間、自らを律する・節制していく期間とされてきました。私たちも心静かに、イエスさまに、特に十字架のイエスさまに想いを向けていきたいと思います。

世界は大きく変わりました。もちろん、新型コロナの世界的蔓延によって変わってし まったことは言うまでもありませんが、ここ数日間で世界はがらっと変わってしまったように思います。大国ロシア軍によるウクライナ侵攻です。これまでも、大国同士の思惑が絡み合った代理戦争的なものはありましたし、テロとの戦争も続いていると言えるのかもしれません。しかし、核兵器を大量に保有している大国が主権国家に侵攻するなど、この21世紀においては考えられないことでした。信用、経済など、国際的なリスクがあまりにも高いからです。それが、いとも簡単に破られてしまった。今後の世界秩序が心配されるところです。

この日本においても、ウクライナ問題にタカ派が勢いづいたのか、度々こんな声も聞こえてきました。ウクライナは軍備を怠ったから付け込まれたのだ、と。自国を守り抜くぐらいの軍備は必要なのだ、と。はたまた、こんなことも言われ出した。この日本においても核配備を検討すべきだ、と。

掲示板タイトル「誘惑」正直、気持ちが分からない訳ではない。国連もNATOも役に立たないといった意見にも頷きたくなります。現実に、街が破壊されている様子を見ると、不安の中で狭い防空壕で息を潜めている人々の姿を見ると、涙ながらに戦闘をやめてほしいとの声を聞くと、命を奪われていく様子を見せつけられると、確かに第三次世界大戦を回避するという理屈も分かりますが、なんとか軍事介入してでも、この今の悲惨な状況を、現実を止めてほしい、と願っている自分がいます。あの第二次世界大戦、殺人という罪を引き受けてでもヒト ラーを止めたいと、暗殺計画にも関わったと言われるボンヘッファーの気持ちが少し分 かったような気がいたしました。

先週の説教の中で、私自身は、この現実に対しての信仰的無力感があるといったような話をしたと思います。しかし、それは、この現実に神さまの力が働くことを信じていないのではありません。私は、それを信じている。私自身、神さまの力を幾度となく味わってきましたし、私の人生を、また私自身を変えてくださったことを覚え、感謝しています。皆さんにおいてもそうだと思います。神さまの力は働いている。個人、個々人において は、そう信じている。しかし、どうも社会、世界全体の現実になると、そこにも神さまの力が働いているのだという信仰が、私の場合は弱いのだと思う。それが、社会的な出来事に対する無力感を生んでいるような気がするのです。そして、そんな自分に対して「誘惑を受けている」と先週は言いました。私のその弱さに付け込んで誘惑をしてくる者がい
る。少なくとも、私はそう理解し、その問題に向き合うために悔い改めをしようと思ったのです。

イエスさまも誘惑を受けられました。悪魔は元々「告発する者」という意味ですがこの悪魔から誘惑を受けられたのです。洗礼を受けられた後、ただちに誘惑を受けられた。マタイ、マルコ、ルカ、この共観福音書が共に伝えるところです。
最初に言いました四旬節とも重なるところですが、イエスさまは40日間悪魔から誘惑を受けられたと記されています。この40という数字は、あの出エジプト後40年間荒野を彷徨った出来事を彷彿とさせるものです。ちなみに、ある方がこう言っているのです が、3という数字は天上のことを指し、4という数字は地上のことを指す、と言います。ですから、この40という数字、年数にしろ日数にしろ、地上の、しかも永遠ではなく限られた時間を指すというのです。

今週の讃美歌ともかく、イスラエルの民たちは、あの40年間に渡る放浪生活で様々な試練を経験しました。水不足、食糧不足、偶像礼拝の危機等々、ここでイエスさまはあのイスラエルの民たちが味わったであろう同様の試練・誘惑に合われたのではなかったか、ある意味、私たち人類の普遍的な試練・誘惑にあわれたのではなかったか、とも言われます。確かに、そういったことも否定できないでしょう。しかし、私自身は、それ以上に、メシア・救い主特有の誘惑・試練に合われたのではなかったか、と思っています。なぜなら、この誘惑が福音宣教の直前に行われたからです。メシアとして、救い主として、神の国の福音を宣べ伝えていくに及んで、しっかりと対峙しなければならなかった、向き合わねばならなかったであろう誘惑でもあったと思うからです。ですから、

「パン」はいっときの空腹を満たす食事以上のことを意味するのでしょう。この21世紀の現代においても、空腹の人々は決して少なくありません。すぐにでも、空腹を満たす食料援助が必要です。食糧不足こそ治安の低下、争いの火種になるとも言われます。ノーベル平和賞にも輝いたWFP(国連世界食料計画)などの働きも喫緊に必要なことでしょう。確かに、そうです。私自身、僅かながら支援をしている。しかし、それだけで十分か。腹が満たされる、物質的なものに満たされるだけで人は、世界は本当に幸せになれるのか、といえば、そうではない現実も私たちは知っています。人は益々傲慢・強欲になり、格差が広がり、弱き者たちが虐げられていく。世界はかつてないほどに食料・物質に恵まれているのに、なぜこんなにも悲しみがなくならないのだろうか。

荒野のキリスト
荒野のキリスト:イワン・クラムスコイ (1837–1887) トレチャコフ美術館


イエスさまは決してパンを否定されませんでした。人にとってパンは必要なものです。必要不可欠です。しかし、こう語られるのです。「人はパンだけで生きるものではない」と。なぜかこのルカ福音書には、私たちがよく知っている続きの言葉、「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」といった言葉が記されていませんが、同様の思いだと思いま す。パンは必要不可欠なものに違いないが、しかし、それ以上に、人は神さまの言葉に よって生きるものだ、と言われる。そして、それは、人々が求めて、期待してやまない物質世界によって世界を救うという救い主の誘惑からの決別にほかならないのです。

二つ目の誘惑も同様です。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる」。この世の権力と繁栄は私のものだ、私が好きにできる、と悪魔は嘯いています。そして、この誘惑にのって知らず知らずのうちに、まことの神ではなく悪魔を拝んでいる国の指導者がなんと多いことか。また、そうすることによって国を、人々を守り、豊かにすることが、繁栄をもたらすことができると本当に考えているのかもしれない。他国の人々の命を、人生を、生活を犠牲にして。本当に恐ろしいことです。イエスさまもメシア・救い主として、そのような誘惑を受けられた、という。この世界を救いたいと思うならば、この方が手っ取り早いのではないか、と。しかし、イエスさまはこの誘惑をも退けられました。「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」 と。

今週の献花もう一つ、イエスさまは誘惑を受けられました。この誘惑については、あの十字架の場面を連想させます。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」。十字架に磔にされておられるイエスさまを前に、人々はそう語った。悪魔の誘惑はこうです。「もしお前が本当に神の子ならば、奇跡によって自分が神の子であることを示してみろ」。もっと言え ば、「神の力で自分自身を救ってみろ」ということです。自分自身させも救えない者が、一体誰を救えるというのか。力なき者が、一体何の役に立つというのか。私たちも、同じように叫ぶのかもしれません。

しかし、イエスさまは十字架からは降りられませんでした。降りる力がおありなのに、降りられませんでした。それが、十字架の上で命を捨てることが、私たち罪人のために贖いの業を成し遂げることが、神さまの御心に他ならなかったからです。

兵士たちを前線へと送り出し、血みどろの命の奪い合いをさせながら、自分は安全な宮殿のようなところで指示を出しているような指導者たちと、自ら罪との戦いの前線に赴 き、ご自分の命を投げ出すような方と、私たちはどちらの姿に心動かされるでしょうか。少なくともイエスさまは、私たちが望むような、期待するような、もっとも効率よく私 たちを満足させるような救い主にはなられなかったのです。むしろ、ご自分の命を捨てることによって、その命に人々が触れることによって、世界が変わることを望まれた。たといそれが、まどろこしいものだとしても…。

大変難しい問題です。綺麗事では済まない問題です。人の命がかかっています。確かに、そうです。しかし、繰り返しますが、イエスさまは決してパンの必要性を否定されたのではないのです。それだけではない世界を説かれたのです。もちろん、私たちとイエスさまとでは違います。私たちが救い主になるなどあり得ない。しかし、同様の誘惑を受けているのも事実だと思うのです。一見正しそうに思える、合理的に見える悪魔の誘惑を。私たちには理解できないことだらけ。だからこそ、やはり私たちもイエスさまを見上げ て、イエスさまと同じように御言葉によって、この誘惑にも立ち向かっていきたいと願わされます。