【 説教・音声版】2022年2月13日(日)10:30  顕現後第6主日礼拝  説教 「 貧しい人々は幸い 」 三浦慎里子 神学生

顕現後第6主日礼拝

エレ17:5-10  Ⅰコリ15:12-20  ルカ6:17-26

「基本に立ち返ることが大切だ」とよく聞きます。道を極めた人ほど、基本を大切にしているという印象があります。今、中国でオリンピックが開催されていますが、出場する一流の選手たちが素晴らしいパフォーマンスを披露していますね。先日テレビを観ていましたら、この一流選手たちも、ジャンプやスピンの基本的な形をもう一度追求して試合に臨んでいるのだというエピソードが放送されていました。基本がしっかりしている人は、簡単にぶれないし、そこから更に大きく発展することができるんですね。本日与えられたみことばも、私たちクリスチャンを基本に立ち返らせるものではないかと思います。

私たちクリスチャンが信仰するキリスト教。その中心とは一体何でしょうか。先週の使徒書の中で、パウロはこう言っています。「最も大切なこととしてわたしがあなた方に伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。」パウロはこのように前置きした上で、本日の使徒書に書かれている内容に入っていきます。


どうやら、この時コリントの教会の中には、死者の復活を疑う人々がいたようです。死体の甦りに懐疑的な人々の多くは、文化的な水準が高く、哲学的な知識が豊富で賢い人々でした。彼らは肉体を墓として軽視し、死は魂を肉体の墓から解放するものと捉えていました。キリストの復活は霊的な甦りのことを言うのだ。死体が生き返るはずがない。そう考えていたのでしょう。でもこのような考え方は、現代の私たちにも思い当たるところがあるのではないでしょうか。

私たちは実際にイエス様が復活された様子を見たことはありませんし、死者が生き返るところも見たことがありません。世間の常識では、死者が生き返るなんてことを言ったら変な人だと思われるでしょう。復活というのは、霊的なものなのであって、肉体が生き返るってことじゃない。私たちもそう思いがちではないでしょうか。その方が理性的だし、この世界で批判も受けず生きていきやすいです。
しかしパウロは、死者の復活はあるのだと言っています。死者の復活が無いとすれば、イエス様は復活しなかったことになる。イエス様が復活しなかったのなら、自分が宣教していることも私たちが信じている信仰もすべて無駄なものになってしまうではないかと。「この世の生活の中で、わたしたちがキリストに望みをかけているだけなら、わたしたちはすべての人の中でもっともみじめな者です。」
パウロはユダヤ人で、最初はキリスト教を迫害していましたが、回心して、キリストを信じるようになった人です。当然、仲間だったユダヤ人たちからは妬まれ、嘲笑され、受け入れられず、何度も殺されそうになりました。もし、キリストが死者の中から復活しなかったのなら、こんなに危なく辛い思いをしてまで、キリストを宣べ伝える必要はないではないか。

キリストを信じて、自分を律し、世間からの批判と無理解にさらされながら生きるクリスチャンも同じです。もし私たちが、苦しみや痛みに耐えながら、キリストというただの立派な人物に望みをかけているだけだとしたら、私たちには一体何の救いがあるのか。それなら、いっそ多くの人がしているように、欲望に身を任せ、今を楽しみ暮らして生きる方がいいに決まっている。しかし、パウロは言います。「実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられた」と。神の子であるイエス様は、地上に人として生まれ、人として私たちと同じように歩まれ、私たちの罪を背負って死人となられ、神によって復活させられた。そして今も私たちの中で生きておられるのです。

罪人として無残に死なれた方が甦り、死に打ち勝たれたこと。その方と結ばれた者であるという救いの約束として、洗礼を受け取っていること。このことに、私たちは新しい命の望みをかけるのです。「眠りについた人たちの初穂」という言葉があります。旧約では、収穫した果実の最初のもの、最上のものを神様に捧げていました。この世の全ての実りを所有する神様を讃えると同時に、神様に創造された全てのものが神様の祝福のもとに置かれることを意味しています。だから、キリストが「眠りについた人たちの初穂」と呼ばれる時、キリストを信じる私たちキリスト者もそこにつながっています。

たとえ、世間からは理解を得られないものだとしても、私たちは死人の内から復活されたイエス・キリストを通して、すべてを支配される全能の神様を信じている信仰共同体なのです。パウロの言葉は、私たちを、私たちの教会が信仰の先人たちから脈々と受け継ぎ、今も信じているものの中心へと立ち帰らせてくれる言葉ではないでしょうか。

さて、ここからは本日の福音書のみことばに聞いていきたいと思います。「貧しい人々は幸いである」というフレーズは皆さんも何度も聴いて馴染みのあるものですね。マタイ福音書にも並行箇所があって、山上の説教と呼ばれています。これに対し、ルカのこの箇所は、イエス様が話された場所が山上ではなく平らなところであることから、「平地の説教」と呼ばれています。

弟子たちの他にも、周辺の様々な地方から、イエス様の話を聴くため、また病を癒してもらうため、そして悪霊を追い出してもらうために大勢の人が集まっていました。イエス様から力が出ていたということは、神様の力がイエス様の中で働いていたということです。多くの群衆が周りにいる状況なので、イエス様がこの群衆に語ったと勘違いしやすいですが、イエス様は「弟子たちを見て」語られたと書かれています。この箇所は、弟子たちに向かって、イエス様の弟子としての生き方、覚悟について語っている箇所なのです。四つの幸いのことばがあります。

聖書の原文を読みますと、マタイではこの箇所は三人称ですが、ルカでは二人称で書かれています。直訳すると、「幸いだ、貧しい人たち。神の国はあなたがたのものなのだから。」といったところでしょうか。なんだかイエス様の言葉に血が通った人間味のある温かさが感じられますね。イエス様と弟子たちの絆も感じられます。大切な弟子たちを慈しまれるように、イエス様は語りかけておられます。でもその内容は、なかなかに厳しく驚きに満ちたものです。貧しいことが、飢えていることが、泣いていることが、ののしられることが幸せだとは普通は思えません。

The Sermon on the Mount
Carl Bloch, 1890


しかし数千人の人々に食べさせ、満腹させられたイエス様ですから、これは、貧しさ自体を、そして飢えること自体を良しとしておられるのではありません。イエス様は「人の子のために」と言われます。イエス様のために、弟子たちが貧しくなり、飢え、泣き、ののしられるとき、それは幸いなことだと言われるのです。神の国は既にあなたがたのものだと。この箇所のすぐ前の場面で、イエス様は弟子たちを集め、その中から12人を選び、使徒と名付けられています。

これから神の国を宣べ伝えるために旅に出る弟子たちを、どんなに困難な道が待ち受けているか、イエス様は既にご存知だったに違いありません。だからこそ、イエス様は弟子たちにこの言葉をかけられたのだと思います。忌まわしい処刑の道具である十字架が救いのシンボルであるように、イエス様のこの世での敗北が本当の勝利であるように、神の国ではすべてが逆転するのです。マタイ福音書の山上の説教には書かれていないのが、後半の不幸のことばです。

前半の幸いの言葉と対比させた書き方になっています。富んでいる人、今満腹している人、今笑っている人、人から褒められている人。これらの人々は不幸であると書かれています。なぜなら、この世で欲しいものを既に手に入れ、満足し、慰められているからです。そのような人たちは、この世の基準や自分が持っているものに頼って生きるので、神様の助けを必要としません。神様を信頼しない人たちは、神の国が来る時飢え乾きます。本日の旧約聖書の表現を用いるなら、炎暑の荒野を住まいとする裸の木のようになるのです。

私はクリスチャンではない家庭で育ちました。周囲にキリスト教についての理解はほとんどありませんでした。そんな環境の中で、私が神学校に行くと決めたとき、喜んでくれた人も多くいましたが、理解を得られないこともありました。「そっち(宗教)の方にいっちゃうんだ」と変人扱いされたこともあるし、「牧師になるのは別に今じゃなくてもいいでしょ」と召命を軽視されたこともあります。神様からいただいた召命は私にとって一番大切なもので、人から何と言われようと神様に従いたいという思いがあります。それでも、周囲の人から異質なものとして自分が扱われた時、やはり心が痛みました。普通の人でいたいし、良く思われたいという気持ちがあるからです。何の保証もない自己責任の世の中で、無防備でいるのは不安ですね。

私たちはいつも不測の事態に備えておきたいし、身を守る何かを持ちたいと思うものです。自分の力で何とかしたいと思ってしまいます。しかし、神の国では、この世の基準や価値観や人間の力は意味をなさないことを、私たちは理解しなければなりません。私たちは、信仰を与えられた時、新しい命を約束されたのと同時に、理性では捕らえられない神様の業を受け入れる決断をしました。それは、自分の分別には頼らず、神様にすべてをお委ねするということです。

神様の前に何も持たない貧しい自分を認めることです。イエス様の弟子であるということは、この世と神の国の狭間で痛みと葛藤を感じながら生きることであると言えるでしょう。死者の復活を信じることもそうです。イエス様が十字架の上で経験された痛みの上に立っている私たちも、その痛みを共有します。私たちは、この葛藤や痛みを一人で抱えていかねばならないのでしょうか?それは違います。本日の旧約聖書にもあるように、神様はご自分がお創りになった人間のことを誰よりも良くご存知です。私たちが弱いことも、心の中の不安も、醜さも全部。だからこそ私たちにはイエス様が与えられているのです。

そして、信仰を同じくする仲間たちと共に、教会に集い、毎週の礼拝の中で神様の憐みと恵みを受け取り、私たちを死から引き上げ、新しくしてくださるイエス様が共におられることを思い起こすことができます。そのイエス様は、高いところではなく、平なところに降りてこられ、私たちと同じ目線に立ち、私たちに温かく語りかけてくださっています。「幸いだ、貧しい人たち。神の国はあなたがたのものなのだから。」イエス様の隣にしっかりと根を張り、実を結び続ける木として、生かされるものでありたいと思います。アーメン。