【 説教・音声版 】2022年2月6日(日)10:30  顕現後第5主日礼拝  説教 「 人間をとる漁師にしよう 」 浅野 直樹牧師

聖書箇所:ルカによる福音書5章1~11節



今日の福音書の日課は、皆さんもよくご存知の「弟子の召命物語」です。

先ほどは、「良く知っている」と言いましたが、しかし、案外、この「良く知っている」というものは、「思い込み」も多いものです。「良く知っている」と「思い込ん」で、大切なことを見落としてしまうことにもなりかねません。そういう意味でも、今朝の御言葉を少し丁寧に見ていきたいと思っています。

今日の箇所には、「漁師を弟子にする」との小見出しが出ていますが、その下に並行箇所が記されています。

マタイによる福音書4章18節以下と、マルコによる福音書1章1
6節以下です。これらは、並行箇所と言われますように、ガリラヤ湖で漁師たち…、ペトロと、その兄弟アンデレ(このアンデレの名前はルカには出てきません)、そしてゼベダイの子たちであるヤコブとヨハネ、この4人の漁師たちがイエスさまの弟子となることは共通しています。しかし、このルカ福音書と他の二つの福音書とでは、随分と印象が違うように感じます。マタイ、マルコでは、先ほどの4人の漁師たちに、直接招きの言葉がかけられました。

「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と。唐突のようにも思えるこの呼びかけに、四人は即座に反応し、従っていきました。おそらく、私たち は、弟子の召命物語といえば、その印象が強いように思います。しかし、このルカ福音書には、そういった招きの言葉は出てきません。そうではなく、ある出来事を通して、弟子への道が開かれていきました。ここに、このルカ福音書の一つの特徴があるように思います。

そして、もう一つ。マタイもマルコも、弟子の召命は、イエスさまの宣教活動のわりと初期に、むしろ宣教活動をはじめられてからすぐに、といった印象を受けます。しかし、ルカは違います。ルカでは、この時点ではある程度すでに成功を収めていた印象を受けます。先々週から、イエスさまの郷里であるナザレでの宣教活動の様子を見ていきました が、そこでもすでにカファルナウムという町で宣教活動が行われていたことが分かりますし、31節からは、再びカファルナウムに戻られた後の宣教活動が報告されています。また、今朝の箇所では、イエスさまの元に群衆が押し寄せて来た、と記されていますが、これは安息日ごとに行われていたであろう会堂(シナゴーグ)でのお話(説教)だけでは飽き足りず、平日にも関わらずイエスさまの話を聴きたいと多くの群衆たちが集まっていたことを物語ってもいるのでしょう。

あるいは、今日の弟子・シモンの召命物語の前に、次の物語が挿入されていることも非常に興味深いと思います。これもルカだけです。4章38節以下です。ここでは、イエスさまはシモンの家を訪ね、その姑の病を癒やされた出来事が記されていました。つまり、イエスさまと少なくともシモンとの出会いは、この召命物語が最初ではなかった、ということです。しかも、挨拶を交わした程度、でもなかったでしょう。シモンの家を訪ねるくらいですから、ある程度の親しさはあったのかもしれません。

以上、見てきましたように、同じ弟子の召命物語を取り扱っているにも関わらず、随分と印象が違うものです。少なくとも、このルカの召命物語からは、あまり唐突感は感じません。むしろ、じっくりと…、ある意味弟子となるための準備期間といいますか、イエスさまとの関係の熟成のために時間をとり、そして、ある出来事をきっかけにそれが大きく動き出した、と言えるのかもしれない。これは、どちらかといえば、マタイやマルコの記述よりも、私たちにもよく分かる変化だと思います。ともかく、これらの大きな違い、特徴について、ある方はこのようにいいます。

ルカの召命物語では、イエスさまの宣教の業が進展して、人手不足解消のためといった印象が強い、と。これは、案外的を得ているようにも思います。そして、それは今日の私たちにも言えることなのかもしれません。

彼ら弟子たちが大きく動き出したのは、大漁の奇跡を経験したからです。それについては、いちいち細かく説明する必要もないかもしれません。群衆に向けての話を終えられた後、シモン・ペトロに沖に漕ぎ出して網を下ろし、漁をするようにと言われます。まさに数時間前まで、一晩中漁をしましたが、その日に限っては一匹もとれなかったのです。不漁ということは度々あったとしても、一匹も、というのは、彼らにとっても珍しかったに違いありません。

彼らは、その徒労感に肉体的にも精神的にも疲れ切っていました。しかも、今は昼間です。セオリーじゃない。魚からは丸見えだからです。とれっこない。プロであるシモンにはよく分かっていた。しかし、シモン・ペトロはこう答えます。「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と。これも、なかなかに考えさせられる言葉です。おそらく、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでし た。」と「しかし」の間にはしばらくの「間」があったのではないか、と思います。苦笑いというか、深くため息をついていたのかもしれません。「無理だとは思いますが、せっかくあなたがおっしゃるのですから、一応網だけは降ろしてみましょう」といった心の声と一緒に…。すると、予想もしなかった出来事が起こります。良くても数匹どころか、あまりの大漁に自分達だけでは引き上げることができません。

仲間の舟、ヤコブとヨハネにも手助けを求めて、ようやく引き上げることができた。今までに経験したことのない大漁です。しかも、数時間前までの徒労感も相まって、彼らは無我夢中で魚を引き上げていたことでしょう。しかし、しばらくして、目の前に広がっている光景、舟が沈まんばかりに山積みされた魚の量を見て、ペトロは我にかえり、恐ろしくなりました。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」。

今日の旧約聖書の日課も、良く知られた預言者イザヤの召命物語でした。この両者にはいくつか共通するところがありますが、特に、両者ともに「恐れた」ということです。自分の罪深さに気付かされ、恐れた。
雄大な大自然の風景、あるいは荘厳な建築物…、神社仏閣などもそうですが、そういったものに触れるとき、私たちはどことなく襟を正されるといいますか、厳かな気持ちにさせられるものです。しかし、それだけでは罪の自覚は生まれません。そうではなくて、より天的なものに触れる時、あるいは圧倒的な力の前では、人は己の罪深さを自覚せざるを得なくなるのだと思います。あのイザヤやシモン・ペトロのように。彼らは、ことさら罪深い人ではなかったでしょう。ペトロに関して言えば、やや直情的で喧嘩っ早いところはあったかもしれませんが、むしろ好人物だったと思います。ですから、ここでいう罪の自覚とは、ああいった罪、こういった罪ということではないのです。もっと根源的な、聖なるものに触れた時の圧倒的な自己理解。それが、「恐れ」という形で現れてくる。

ともかく、神さまの臨在に触れたイザヤも、イエスさまの圧倒的な力の前に立たされたペトロも、共にそのような恐れを抱いた訳です。しかし、それだけではなかった。赦し が、清めが与えられたからです。「見よ、これがあなたの唇に触れたので あなたの咎は取り去られ、罪は赦された」。ペトロにはあのイザヤのように、直接的には赦しの言葉、清めの言葉は語られていませんが、しかし、この言葉の中に、それら全てが含まれていたと思います。「恐れることはない」。イエスさまはペトロに、もう恐れることはない、と言ってくださいました。だからこそ、弟子としての歩みをはじめることができるのです。弟子として、イエスさまの宣教の業に加わっていくことができるのです。

ラファエロ・サンティ「奇跡の漁り」(1515年) ※ヴァチカンのシスティーナ礼拝堂に飾るためのタペストリー用下絵


イエスさまはペトロに、「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」とおっしゃってくださいました。まさに、ここからペトロの人生は変えられたのです。しかし、これは、ただペトロだけへの呼びかけでもないと思うのです。なぜなら、この言葉を傍で聞いていた、直接的には語られていなかったヤコブもヨハネもペトロと共にイエスさまに従って いったからです。つまり、ペトロに連なる私たちにも̶̶ペトロは教会の礎と言われているのですから̶̶呼びかけられていると言っても良いのではないでしょうか。

では、私たちは何をもって人々を漁っていくのか。今朝の使徒書の日課は、第一コリント15章1節以下でしたが、これは一つの立派な説教だと思います。じっくりと味わって読んでいただきたいと思いますが、ここで使徒パウロは、この十字架と復活の福音を、「わたしも受けた」と伝えていることにも注意したいのです。パウロ自身、福音を伝えられた一人です。そのパウロが、今度はその福音を人々に伝えていくようになった。この福音が自分を、そして人々を救う力があることを知ったからです。

先ほどの「人間をとる漁師」とは、直訳的にいいますと「人間を捕らえて生かす者」という意味になると言われます。つまり、人を真に生かす働きということです。しかし、私たちは、この福音に人を生かす力など本当にあるのか、といった心をどこかで持ってし まっているのかもしれません。

先日、ある本を読んでいますと、こんな言葉が目に飛び込んできました。ある医師の言葉だということですが、「宗教心のない人間が末期医療の段階を迎えるとパニックになる人が少なくない。宗教心が無いということは死生観が無いということで、自分を制御する魂の基軸が無い。医療現場に臨床宗教師が必要な時代になった」。

今の時代、ますます働き手は少なくなっています。マタイ、マルコのような呼びかけでは躊躇してしまうかもしれませんが、ルカが描くやり方なら、私たちも応えていけるのかもしれない。どうぞ、みなさんお一人お一人にも語りかけられている御言葉として、今朝の呼びかけを聞いていただければと願っています。