【 説教・音声版 】2022年1月16日(日)10:30  顕現後第2主日礼拝  説教 「 しるしとしての奇蹟 」 浅野 直樹牧師

顕現後第二主日礼拝説教(むさしの教会)
聖書箇所:ヨハネによる福音書2章1~11節

今日の福音書の箇所は、いわゆる「カナの婚礼」と言われています水をぶどう酒に変えたとされる良く知られた奇跡物語です。この物語は内容豊富でして、古来から好まれ、様々な視点で解釈されてきたと言われます。例えば、イエスの母マリアの姿勢とか、水をぶどう酒に変えた奇跡そのものだとか、このぶどう酒の出どころを唯一知っていた「召し使い」の視点とか…。あるいは、このヨハネ福音書の

特徴としてよく二重の意味があると言われますが、そのせいでもあるのか、この婚礼の祝いを来たるべき神の国の宴会と重ねたり、あるいはユダヤ教の清めのために用いられた水をぶどう酒に変えられたということは、ユダヤ教のあり方からキリスト教の恵みへとの変更を意図しているのではないか、といった大変興味深い解説もあります。

カナの婚宴 :バルトロメ・エステバン・ムリーリョ (1617–1682) バーミンガム大学付属バーバー美術館


しかし、今日は顕現節ですので、特にイエスさまの顕現といった視点で、つまり11節の「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。」との御言葉を中心にしばらく考えていきたいと思っています。また、それがこのテキスト全体の意図を理解する上でも大切なことだと思います。

先ほども言いましたように、この出来事で少なくともヨハネ福音書においては、イエスさまは公にお姿を表すことになります。それは単に、人々の前に姿を晒すということではありません。ご自分が何者であるかということを打ち出すことです。ですから、「栄光を現された」と記されている訳です。その栄光とは、ひとことで言ってしまえば、「神の子としての栄光」ということでしょう。では、それは何によって明らかになったのか。

「しるし」によってです。もっと具体的に言えば、水をぶどう酒に変えるという奇跡によってです。それが、イエスさまが神の子であることの「しるし」となった。しかし、ここで妙なことが起こります。この栄光は公というよりも、ごく限られた人たち、つまり弟子たちだけにしか示されなかったからです。「それで、弟子たちはイエスを信じた」と。
このことについて、ある方が興味深いことを記しておられました。もうお亡くなりになりましたが、カトリックの司祭であり聖書学者でもあられた石川康輔という方の文章を引用してでのことです。その言葉通りではありませんが、こういった内容です。聖書には弟子たちはイエスを信じたとあるが、イエスを信じた者がみな弟子になるということではないか。そのために、つまり人々を弟子とするためにイエスは栄光を現されたのだ。だから、あなたも私もイエスの弟子になれるのだ。そのように聖書は記し、また招いているのではないか、と。これも非常に興味深い解釈だと思います。確かにこの物語では、婚礼の宴会に多くの人々がいたにも関わらず、奇跡というしるしを通して神の栄光を見たのは弟子たちだ
けであったのかもしれません。そういう意味では、閉じられた「しるし」、隠された「しるし」と言えるのかもしれない。

しかし、この物語に触れた者にとっては、これは明らかに開かれた「しるし」なのです。この物語を読む者は、この宴席に連なる一般人にも、イエスの母マリアにも、イエスさまに従って水を汲み世話役に届けた、唯一そのぶどう酒の出どころを知っていた召し使いにも、イエスさまが生み出された素晴らしいぶどう酒を味わいながらも、それが一体どこから来たのか、どんな意味を持っているのかに全く関心が向かなかった世話役にも、その一部始終をじっと見ていて栄光に触れた弟子たちにも、私たちはなれるからです。そして、この物語はイエスさまの栄光に気づいて、他の誰でもなく、信じる者に、あのイエスさまの弟子たちのようになって欲しいと私たちを招いている。

確かに、そうです。イエスさまが神の子であることを明らかにした栄光のしるしとしての奇跡の存在は非常に大切だと思います。そのことによって弟子たちは信じる者になったからです。石川康輔先生風に言えば、信じたからこそ、信じられたからこそ弟子にもなれたからです。しかし、果たしてそのような働きを演じた「しるし」とは、単に水をぶどう酒に変えたという奇跡だけのことなのだろうか、とも思う。むしろ、奇跡も含めて、この物語に登場してくるイエスさまのお姿全てが、やはり神の子としての栄光を現す「しるし」だったのではないか、と思えてくるからです。

その第一が、婚礼の招きに応えられるイエスさまのお姿です。もちろん、現代でも婚礼というのは大変めでたいものです。しかし、当時のイスラエルでの婚礼というものは、その比ではなかったようです。婚礼の宴席は普通でも2~3日、場合によっては7日間も続いたと言われます。もっとも現在よりもはるかに娯楽、喜びの少ない日常ということもあったのでしょう。普段の食生活も非常に質素でした。庶民は肉もぶどう酒も滅多に口にできなかった。ですから、こういっためでたい時に、一気に喜びが爆発したのかもしれません。新郎新婦にとってもそれは非日常でした。この時ばかりは、新郎は王のように、新婦は女王のように扱われたとも言われます。この時とばかりに、というのが、まさに婚礼でした。
 ある方はこんなことも言っています。洗礼者ヨハネなら行っただろうか、と。洗礼者ヨハネといえば、禁欲主義の代表者のような人です。そんな人が、食っては飲んでと、羽目を外したような浮かれた場所には行かなかったのではないか、と。しかし、イエスさまは招かれるままに行かれました。母であるマリアが手伝っていたことから、親戚あるいは近しい人の結婚式ではなかったかとも言われます。ともかく、そこでイエスさまもみんなと一緒になって食べたり飲んだり、笑ったり、祝辞を語ったりされたのだと思うのです。庶民の数少ない喜びの場で。

イエスさまは笑われなかったのではないか、といった議論があります。聖書には明確に記されていないからです。しかし私は、聖書にいちいち書く必要もないくらいに、イエスさまの周りには笑いが溢れていたと思うのです。このカナの婚礼の場がそうでしょう。婚
礼の席で仏頂面して笑わないはずがない。ともかく、この庶民的なところにも、イエスさまの栄光のしるしがあるように思うのです。

そんな祝宴の最中、ぶどう酒が足りなくなったと母マリアから告げられました。これは一大事です。この二人の門出に傷をつけることにもなる。あるいは、これは単なる恥をかいたでは済まないとも言われます。十分にもてなすことをしなかったということで訴訟問題にもなりかねないといった意見もあるからです。ともかく、現代人の私たちの感覚以上に危機的な状況だったのでしょう。それに対してイエスさまはこう答えられました。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」。一番新しい聖書協会共同訳では、この「婦人よ」を「女よ」と訳しています。より強い印象を与えます。これについても色々と言われていますが、しかし普通に考えて母親に向かっての言葉とは思えないことは明らかでしょう。

それは、この時、イエスさまはすでに公生涯をはじめておられたからです。つまり、もはや親子という情では動かれない、ということです。あくまでも神さまのご意志にのみ従うといった姿勢の表明でもあるのです。これは、神さま以外には何ものにも束縛されないといった強い自己理解でもある。ですから、ここでは母としての願いを明確に拒否されたわけです。しかし…。お分かりのように、イエスさまは母マリアの願いを叶えられました。何ものにも左右されない、妥協しない強い自己理解がありながらも、唯我独尊とはならず、自らの自由な意志で、弱き私たち庶民の願いを叶え、庶民のささやかな喜び・幸いを守って下さっている。それも、「しるし」ではないか、と思います。

そんなイエスさまが水をぶどう酒に変えるという奇跡を行われました。これは、最初に言いましたように、ユダヤ教からキリスト教へ、といった意味合いが強いのかもしれません。ここで用いられたのは、「ユダヤ人が清めに用いる石の水がめ」です。ここに当時のユダヤ教が象徴されていると思います。つまり、汚れから逃れること、「清め」られることにばかりに固執していたということです。日常生活から信仰的な歩み、生まれてから死ぬまで、全てが「清め」に集中していた。それが、いわゆる「律法主義」・「形式主義」ということにもなり、人々を雁字搦めにしていったと言っても良いのではないでしょうか。

私たち日本人にも似たところがありますので、分からないわけではない。特に、このコロナ禍、そういった思いが差別的な発想も含めて強くなっているのかもしれません。それをイエスさまは祝福と恵みに変えられたのです。ぶどう酒には、そういったイメージもあるからです。しかも、イエスさまはそれを最高のものとしてくださいました。ここにも、大きな「しるし」がある。

奇跡だけじゃない。私たちは色々な「しるし」を見て、イエスさまという方を知り、このイエスさまに現された栄光を見ていく必要があると思います。それが、私たちの信仰・「信じる」ということに繋がり、また弟子として招かれているということにもなると思うからです。