【 説教・音声版 】2022年1月2日(日)10:30  主の顕現主日聖餐礼拝  説教 「 不思議な星の導き 」 浅野 直樹牧師

主の顕現主日礼拝説教
聖書箇所:マタイによる福音書2章1~12節



 

2022年。新しい年になりました。しかし、教会の暦としては「顕現主日」ですので、よく知られた「東方の博士たち」の物語から、今朝はご一緒に考えていきたいと思います。ちなみに、「顕現」とは公に姿を現したことを意味します。

ところで、皆さんは初日の出をご覧になられたでしょうか。私にはそういった習慣がありませんので、わざわざ見ることをしませんが、しかし、初日の出を見て、心が改まる気持ちはなんだか分かるような気が致します。厳かな気分にもなる。そういう意味では、太陽・太陽の光というのは、日本人の私たちにとっては大きな意味を持っているのかもしれません。しかし、太陽は私たちを導いてはくれないのです。星が私たちを導く。少なくとも、今朝の聖書箇所は、そう告げるのです。そして、そこになんだか深い意味があるように私には思えてきます。

皆さん、空を見上げてみてください。もちろん、今も、この瞬間も、昼間でも、星空は広がっているはずです。確かに、知識ではその事実を知っています。しかし、知識としては地動説という常識がありながらも、普段はあたかも自分を中心に世界が回っているかのように錯覚しているのと同じように、私たちはその事実を見落としているのかもしれないのです。つまり、もちろん太陽の光は大きな恵みに違いないのですが、時に、大きすぎる光は̶̶都会では街の人工的な光のせいですっかり星が見えなくなっているのも同じ理由でしょうが̶̶、あるべきものの姿を、見るべきもの姿を隠してしまうことにはならないでしょうか。あの、太陽の光が、燦然と輝く星空をかき消してしまっているように。
星が輝くためには、闇夜が必要なのです。星の光は、闇の中でこそ輝く。そして、その星が、あの三人の博士たちを、そして私たちを、イエス・キリストのところへと導いてくれるのです。

今日の物語は、確かにクリスマスの物語に違いないのですが、ある方が指摘されているように、ルカによる福音書とは違って、随分と暗い物語なのかもしれません。現に、今日の箇所ではありませんが、この後、ヘロデ王によってベツレヘム周辺の二歳以下の男の子が一人残らず殺されてしまったという出来事も起こっているからです。幼児イエス・キリストを抹殺するためです。自分の権力・権勢を保持するために…。そういう意味でも、その時代はまさに「闇」の中にあったと言っても良いでしょう。

ここで、先ほどから言っていますように、三人の博士たちが登場してきます。と言っても、実は人数は分かっていません。後に、幼子イエスさまに捧げた宝物が、黄金・乳香・没薬だったことから、三人ではなかったか、と言われているだけです。この博士たち、新共同訳では、「占星術の学者たち」と訳されています。元々は、「マゴイ」という言葉で表現されているものです。英語のマジックの語源とも言われています。「魔術師」と訳してもよい言葉です。彼らがやって来た東方とは、具体的にどの国を指しているのかは分かりませんが、一般的には現在のイラク、イランあたりを指しているのではないか、と考えられています。

その地方では、古来から天文学に基づく占星術が発達していたと考えられています。また、この博士たちの言動から、先ほど言いましたように、本来「魔術師」とも訳せる言葉なのでしょうが、「占星術の学者」と訳されるようになったのでしょう。しかし、当然今日の科学的な知見に立った天文学者とは違う訳です。いくら星の観察をしていようと占い師には変わりがない。あるいは、占いだけでなく、御祈祷や厄払い的なこともしていたのかもしれません。やっていることは「魔術師」と大差ないから「マゴイ」と呼ばれていたのかもしれない。

「東方三博士の礼拝」サンドロ・ボッティチェッリ(1478-482)ウフィツィ美術館


つまり、彼らは旧約聖書の言うところの禁じられていたことを職業としていた訳です。そして、もちろんユダヤ人からすれば異邦人。ユダヤ人の感覚からすれば「救いの外」にいる人たち、ということです。この人たちが、少なくともマタイによる福音書によると最初の訪問者だった訳です。ここに、マタイ福音書の意図があると言われます。

一般的に、マタイによる福音書はユダヤ的だと考えられています。律法を重視しているところがあるし、行いを尊んでいるところがある。確かに、そうです。しかし、そのマタイ福音書が、イエスさまへの最初の訪問者が、最初の礼拝者が異邦人たちだったと告げる。逆に、ユダヤ人たちはメシア・救い主の誕生の知らせをこの異邦人によってもたらされたはずなのに、誰一人として行こうとはしなかった事実を告げるのです。ユダヤ人からは排斥され、本来救いの外にいると考えられていた異邦人にこそ迎えられるのだ、と。それが、イエス・キリストの生涯なのだ、と。この福音書は、誕生の物語からそう告げている、というのです。

いったい、縁もゆかりもない遠い異国の地に住む彼ら博士たちが、何故にユダヤ人の王の誕生にこれほどまでに興味・関心を抱いたのだろうか。それは、良く分かりません。ただ、全くの無知ではなかったようです。恐らく、彼らが生きてきたであろう東方の地、現在のイラク・イランあたりは、ご存知のように新バビロニア帝国によって南ユダ王国が滅ぼされて、人々が連れて行かれた地、「バビロン捕囚」と言われる地です。その後、60年ほど経ってペルシャのキュロス王によって囚われのユダヤ人たちの帰還が許された訳ですが、その地に残ったユダヤ人たちも決して少なくはなかったと言われています。

また、ある解説書によりますと、紀元50年頃にバビロンの諸侯の一人がユダヤ教に転向したとも記されていました。つまり、彼らはユダヤの伝承、ひょっとしてメシア待望論にも触れる機会があったのかもしれない、ということです。ともかく彼らは、ただ星の導きを頼りに遥か遠方ユダヤの地にまで来たのでした。

そして、彼らが捧げた宝物についても、非常に興味深い説があるようです。一般的には、これら黄金・乳香・没薬というのは、王に献上するのに相応しい品々といった理解のようですが、ある方はこれらは彼ら東方の博士たちの商売道具ではなかったか、というのです。つまり、商売…、占いや御祈祷・厄払いなどに使っていた道具、しかも高価な道具の一切合切をイエスさまに捧げた、ということです。つまり、金輪際、もうこの仕事はしない、ということです。自分たちの方向性を、人生そのものを変えた、といっても良いでしょう。

なぜ、そうしたのか。理由は分かりません。先ほども言いましたように、遠方に住んではいても彼らにはユダヤ教に触れる機会があった訳ですから、ひょっとして旧約聖書で禁じられていることを知りながらも、「仕方がない」と言い訳しつつ来たのかもしれません。日が当たっている内はそんなことも忘れて快適に過ごしていたかもしれませんが、日が沈むと、ぽっかりと穴が開いたように何もない自分自身に気づていったのかもしれません。

ともかく、彼らにも闇があったのでしょう。何らかの暗闇に覆われていた。だから、光が灯ったことに、星が輝いたことに気づけたのだ、と思うのです。そして、その星の、光の導きのままにイエスさまのところへ辿り着くことができた。それは、彼らにとっては喜びでしかなかったのです。今までしがみついていたものを手放しても構わないほどに、満ち足りた瞬間だった。まさに、人生をひっくり返すような救いの時だった。

もうお気づきだと思いますが、今日からほぼ通常の礼拝の様子に戻りました。12月の役員会で、現在の感染状況の落ち着きを受けて、月の第一主日の聖餐式も含めて通常に近づけることを決めたからです。しかし、ご存知のように、少しずつ感染者数が増えてきています。海外の例を見ますと、今後のオミクロン株の大流行も大変気がかりです。明るい一年とは、簡単には言えない状況でしょう。確かに、太陽の輝きはある。お日様のもとで穏やかに過ごせたら、それは幸いなことに違いないでしょう。しかし、世の中とは、あるいは人生とは、いつもそうとは限らないものです。

時に、どっぷりと闇の中に落ちてしまうことだってあり得る。しかし、いいえ、だからこそ気付く、気付かされる光、星の輝きもあるのだと思うのです。むしろ、私たちをイエスさまのところへと導いてくれたのは、そんな穏やかな太陽の光よりも、この小さな星の輝きではなかったか、とさえ思うのです。そして、そこにこそ、本当の意味での、人生の重荷を下ろす、下ろすことのできる瞬間もあるのではないでしょうか。あの東の国の博士たちのように。

今日はこの新しい年の最初の主の日ですが、そんな彼らの姿を思い起こしながらスタートできることは、幸いなことではないでしょうか。必ず星が私たちを導いてくれる。イエスさまのところへ。本当の喜びの場所へ。そのことを覚えていきたいと思います。