「読書会ノート」 新渡戸稲造『武士道』

 新渡戸稲造 『武士道』

川上 範夫

 

本の内容にふれる前に、この本は誰が何のために書いたのかが重要だと私は思っている。著者はいうまでもなく新渡戸稲造である。新渡戸は札幌農学校で内村鑑三らと共にクラークに師事、明治期に於ける日本のキリスト教界の指導者であった。つまり『武士道』を書いたのは武士ではなくキリスト者なのである。

次に、何のために書いたのかであるが、これについては著者自身が本の冒頭で述べている。著者はベルギーの法学者ラブレーとの会話の中で「日本の学校では宗教教育がないというが、日本ではどのようにして子孫に道徳教育を授けるのか《という質問に新渡戸はがく然とし即答出来なかったことに端を発している。著者はその後この問題について分析、自分自身の体験もふまえ、日本人の道徳的規範は武士道にあると思いあたった。そしてこの事を欧米人に理解せしめようとして書いたのが本著『武士道』なのである。従って読者の対象は欧米人であり、この本ははじめから英語で書かれたのである(この本は1900年、アメリカで出版され、賞讃を博している)。

さて、武士道について著者は、義、仁、礼、誠、吊誉、切腹と、理路整然と論旨を展開している。併し、注意しなければならない事は、そもそも武士道について幕府や当時の学者によって成文化されたものがあったわけではない。つまりこの本の武士道は新渡戸の集約による武士道なのである。

さて、武士道は欧米の道徳的規範であるキリスト教と対比出来るものであろうか、それには無理があると思う。武士道はあくまで封建制のもとで武士という一握りの特権階級のための規範である。では、庶民をも含めた日本人の道徳的規範は何であろうか、それは論語ではないかと私は思っている。併し、武士道も論語も現代社会では忘れられてしまったようだ。「日本ではどのようにして子孫に道徳教育を授けるのか《を問うた100年前のラブレーの質問に、我々はどのように答えるべきか、もう一度考えてみる必要があると思う。

(2008年 5月号)