【 説教・音声版】2021年9月19日(日)10:30 聖霊降臨後第17主日礼拝  説教 「 一番になりたい者は・・ 」 浅野 直樹 牧師

聖霊降臨後第十七主日礼拝説教



聖書箇所:マルコによる福音書9章30~37節

前回は、曲がりなりにも「あなたは、メシアです」とのペトロの信仰告白があったからこそ、イエスさまは次の段階へと…、つまり受難・十字架と復活を、十字架と復活のメシアを教えることに進むことができたのではないか。そういったことをお話ししたと思います。あれから今日の日課までにはどれくらいの時間が経ったのか。9章2節を見ますと、「六日の後」とあります。いわゆる、「変貌の山」の出来事です。そして、一行(イエスさまと弟子のペトロ、ヤコブ、ヨハネだけが山に登ったわけですが)が山から降りると、麓で待っていた弟子たちにはできなかった「汚れた霊」に取り憑かれていた子どもを癒す出来事が起こりました。つまり、少なくとも一週間以上は経っていた、ということでしょう。

そこに、二度目の受難予告が起こります。前回も言いましたように、これは単なる予告ではないと思います。実は、今日の受難予告にも、新共同訳でははっきりとは訳されていませんが、「教える」という言葉が使われているからです。一番新しい聖書協会共同訳ではこのように訳されています。「しかし、イエスは人に気付かれるのを好まれなかった。それは、弟子たちに教えて、『人の子は人々の手に渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する』と言っておられたからである」。ここにも、「教える」という意図がはっきりと示されているからです。 先ほどは、今日の日課は「二度目の受難予告」だったと言いましたが、「教える」という目的からすれば、二度に限らなかったでしょう。おそらく、この一週間、何度も取り上げては弟子たちに語っていかれたのではないか、と思います。

しかし、その結果はどうだったか。後の弟子たちの様子、つまり、「誰が一番偉いか」などと議論していたことからすれば、あまり芳しくはなかったということではないでしょうか。なぜなら、「誰が一番偉いか」との議論の背後には、やはりイエスさまを政治的リーダーと考えていた節があるからです。つまり、近い将来、イエスさまがローマの支配から解放してくださり、新しい政府を樹立した暁には、弟子たちの中で重要ポストに着くのは一体誰か、と考えていたからです。つまり、受難予告を聞いて、ペトロが「そんなことはあってはならない」といさめた時と同様に、他の弟子たちもまた、受難と復活のメシアではなく、勝利者、解放者のイメージからいまだに離れることができていなかったことが窺われるからです。ここで誤解のないように言っておきたいのは、勝利者、解放者のイメージが間違っている、というのではありません。この勝利者であり解放者であるイエスさまが、同時に受難・十字架と復活のメシアだということです。

しかし、残念ながら、弟子たちにはなかなかこれらのことが浸透していかなかった。自分たちの思い(期待と言っても良いのかもしれませんが)、理解に固まってしまっていた。それが問題だ、ということです。一週間が、果たして長いのか、短いのか。もちろん、色々な思いがおありだと思いますが、この弟子たちの姿に慰めを見出すのは、私だけでしょうか。あのイエスさまがみっちりと教えてくださっているのです。一週間、何度も何度も繰り返し説いてくださったことでしょう。

しかし、弟子たちは変わらなかった。人の心の頑なさを覚えると同時に、この私自身の心が頑ななのも仕方がないのかもしれない、と思えてくる。だからといって、それで良いということではありません。仕方がない、と終わらせて良いということではないはずです。では、何が問題なのか。聖書はこのように語ります。「弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった」と。分からないのは、ある意味仕方がない。なぜなら、私たちの常識を超えたことだからです。神さまから遣わされたメシアがなぜ殺される必要があるのか。全く分からない。それが、私たちの素直な・素朴な感性でしょう。それは、仕方がない。では、なぜ尋ねないのか、ということです。分からないなら、理解できないなら、なぜ尋ねないのか。弟子たちは、怖かったから尋ねられなかったのだ、と言います。

確かに、自分たちが尊敬してやまない師が殺されてしまうなんて、それは恐ろしいことに違いない。そんな未来など想像もしたくない。しかし、ここの「恐れ」とは、単にそういうことを言っているだけなのだろうか。分かってしまうことの、理解してしまうことの恐れというものがあったのではないか。つまり、自分が持っていた、抱いていたメシア理解が変わる、変えられるということは、自分自身が丸ごと変えられることにもつながるからです。期待していたこと、手に入れられると思っていたこと、将来の展望、心の支え、それら全てが覆ってしまう。それを受け入れることが恐ろしい。もし、本当に自分たちが信じるメシアが、人々に見捨てられて十字架で死んでしまうようなメシアならば、お先真っ暗としか思えないからです。だから、そんな事実は見ないように素通りしてしまいたい。あえて、分かりたいとも思わない。だから尋ねない。そんな心理状態も、「恐れ」ということだったのではないか。そう思うのです。

最後の晩餐 メアリー・フェアチャイルド・ロー (1858–1946)


ともかく、少なくともここまでのイエスさまの弟子教育はあまりうまくいっていなかったように思われます。「誰が一番偉いか」などと論じ合っているくらいですから。「誰が一番偉いか」といっても、十二弟子皆が、俺だ、俺だ、と言っていたわけではないでしょう。先ほど、「変貌の山」の時にも触れましたように、イエスさまはこの時、弟子の中でもペトロとヤコブとヨハネだけしか連れて行かれませんでした。つまり、弟子たちの中にも、あの三人は特別だ、といった意識があったかもしれないのです。つまり、あの三人のうちで誰が一番偉いのか、です。一番の重要ポストにつくのは、三人のうちで誰か。つまり、他の弟子たちは、ひとりを押すわけです。俺はペトロが一番だと思う。俺はヤコブだと思う。俺はヨハネだと思う、と。つまり、たとえ自分が一番にはなれなくても、自分が押す人材が一番になれば、自分もまた引き上げてもらえるだろう、ということです。

今は自民党総裁選の真っ最中です。みな、自民党の一番になろうと躍起になっている。そこで行われているのは、力を持っている人をいかにして味方につけるか、です。それによって、今までの主義主張を変える人まで出ている。勝たなければ意味がありませんので、当然そうするのも分かります。しかし、それは、損得勘定です。権力を得るためには、結局は損得勘定になる。つまり、票に結びつきそうにない人たち、立場の弱い人たちが、いつも置いてきぼりになる。いくら口先では色々と言っても、権力闘争というのもは、そういったことに必ずなる。勝ち馬に乗ろうとする人たちも同じことです。結局は損得勘定です。もちろん、政治家たちだけのことではありません。私たちの話しです。

そんな弟子たちを前に、イエスさまは座られました。「座る」というのは、教師が正式に教えることを意味します。そして、十二弟子たちを呼び寄せ、小さな子どもを示されました。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」。子どもが可愛いから受け入れるのではありません。そうではなくて、何の役にも立たないような子どもを受け入れるのです。権力闘争、損得勘定とは、全く真逆のことです。しかも、イエスさまは、ご自分と小さな子どもとを、あたかも同列のように置かれる。子どもを受け入れる者は、わたしを受け入れるのだ、と。いかに、小さな存在に心を注がれているかが分かると思います。

イエスさまは弟子たちにこう言われました。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と。イエスさまは、一番になりたいという思いを否定なさいません。しかし、それは、偉くなるためのものではない、とおっしゃるのです。確かに、一番でなければできないこともあります。しかし、それは、権力闘争でも損得勘定でもないはずです。一番小さな人たちが、人々から、社会から受け入れられて生きるためです。そのために、一番を目指して欲しい、と願っておられる。私と同様に、この役に立たないような小さな子どもを受け入れる一番になって欲しいと望んでおられる。それは、私のように、仕える生き方なのだ、と示してくださっている。そうです。

この一番の歩みを送られたのは、イエスさまなのです。そして、この歩みのためには、十字架と復活が欠かせない。そうでないと、これを除いて一番を求めてしまうと、結局は権力闘争に、損得勘定にいってしまうからです。いくら、崇高な志を抱いて、勝利を、解放を目指しても、それだけでは、あの弟子たちのように、結局は「誰が一番偉いのか」ということになってしまうからです。だから、イエスさまは正されるのです。どれほど時間が掛かろうとも、十字架と復活の真実を分かって欲しいと教えて行かれるのです。

先ほど私は、心頑なな弟子たちに慰められると言いました。それは、自分の姿と重なるからです。しかし、本当に慰められるのは、この弟子たちをあくまで教え続けてくださっているイエスさまのお姿に、です。道々「誰が一番偉いか」と論じておきながら恥じ入っている弟子たちを身元に呼び寄せ、懇ろに語り聞かせ、子どもを抱き上げ、愛を示し続けてくださる、ご自身の道に引き寄せ続けてくださるイエスさまの姿。このお姿があるからこそ、私たちもまた反省しながらも歩き続けていけるのではないでしょうか。