【 説教】2021年9月5日(日)10:30 聖霊降臨後第15主日礼拝  説教 「 この人が救われたのは・・ 」 浅野 直樹 牧師

聖霊降臨後第十五主日礼拝説教


聖書箇所:マルコによる福音書7章24~37節

今日の福音書の日課は、二つの奇跡物語…、癒しの奇跡の物語が取り上げられていました。この二つ、場所も奇跡の様子も全く違うものですが、よく見ていきますと共通点もあるように思います。それは、癒された当事者があまり見えてこない、ということです。聖書には様々な癒しの奇跡が記されていますが、その多くは当事者とイエスさまとのやりとりなどが、非常に大雑把ではありますが記されているのが普通だと思います。しかし、こ
こにはほとんどない。最初の奇跡物語に至っては、イエスさまと出会ってさえいない。

登場してくるのは、なんとか娘の危機を救って欲しいと訪ねてきた母親だけです。後の耳が聞こえず、明瞭に言葉を発することができなかった人も、イエスさまによって「はっきり話すことができるようになった」と記されているだけ。非常に印象が薄い。むしろ、周りの人々…、この人をイエスさまの元に連れてきた人々、また奇跡を目撃し、あるいはその様子を聞いて驚きをもって受け止めた人々の方が目に付く。本来主役であるはずの人々が脇役に周り、脇役だった人々が全面に出てきているようにも感じます。むしろ、ここでは、マルコはそのことを伝えたかったのではないか、とさえ思う。つまり、困難の中にあった二人を救ったのは、もちろんイエスさまに他ならないわけですが、周りの人々もその業に用いられている、ということです。そういった人々の存在は、決して小さくはなかった。

それは、私たちにも言えることなのではないでしょうか。私自身のことで言えば、教会に誘ってくれた人はいませんでした。自分の意思で教会に行った。しかし、間接的ではありますが、中学の社会科の授業の時にキリスト教について熱心に語ってくれなかったならば、母が近隣の教会を探し出して車で連れて行ってくれなかったならば、今の私はなかったかも知れない。もちろん、それだけではありませんが、多くの人のおかげで、ということは確かにあるのだと思うのです。

ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ (1571–1610) Basket of Fruit 静物画 1599年頃 アンブロシアーナ絵画館


実は、皆さんもよくご存知の姉妹が、8月27日に急にお亡くなりになり、昨日葬儀を行って参りました。姉妹は1997年2月号の「むさしのの輪ッ」のインタビュー記事でこのように答えておられました。「聖書の箇所ですか、あらたまってきかれるとこまるのね。何年か前に外出先で体調をくずしそのまま入院したことがあったのね。娘に持って来てもらった聖書をなにげなく開いた時の箇所がヨハネ第一の手紙1章5節から6節、ずきんと反省させられ、忘れられない箇所になりました。マルコ7章24節から30節、イエス様と、ギリシャ人で、スロ・フェニキアの女性のやりとり、あの女性のひたむきな心、感動してしまいます」。まさに、奇遇だと思いました。おそらく、好きな聖書の箇所はどこですか? といった質問だったのでしょう。皆さんにも好きな聖書の言葉、印象深い言葉などがおありだと思いますが、少なくとも牧師生活20年を過ごしてきた中で、この箇所を取り上げられた方は初めてだったと思います。ここに、なんだか姉妹の信仰観・人生観に触れさせていただけたように感じました。

この箇所は決してすんなりと読める箇所ではないと思います。ましてや好きな箇所とはなかなか言えないのではないでしょうか。悪霊に取り憑かれた幼い娘を抱えている母親が必死の思いでイエスさまに救いを求めたのに、「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」などと言われてしまったのですから…。今日、このことを詳しく取り上げる時間はありませんが、今はこの言葉を
語られたイエスさまに少し注目していきたいのです。

先ほども少し触れましたように、私は牧師の働きを20年ほどしていますが、言葉の難しさを常に感じてもきました。思うように伝わらなかったり、誤解されることも少なくなかったからです。言葉というものは、ある意味生き物でもあります。同じ言葉を語っても、その時の表情や声のトーン、その時の受けて側の状態、信頼関係等によって、受ける印象が全然変わってしまうことがままあるからです。先程のイエスさまの言葉を皆さんは
どのように受け止めたでしょうか。突き放すような冷たい印象でしょうか。確かに、翻訳上の問題もあるのかも知れませんが、一般的にそう受け止められても仕方がないと思います。

しかし、もしこの時、イエスさまが微笑みながら話されたとしたら…。たとえば、の話であって、ニコニコしながらこんなことは話されなかったでしょうが、つまり表情や声のトーンなどで印象がガラリと変わるということです。この物語の場合、大抵はこんなひ
どいことを言われたのに怯まなかったこの女性が賞賛されることが多いと思いますが、もちろんそういったことも軽視できないとは思いますが、ある意味イエスさまがこの女性がなおも食い下がることができるようなスキを与えられたのではないか、とも想像するのです。二人のやりとりの中では、取り付く島がなかったということでは必ずしもなかったのではないか、と。ともかく、この母親の頑張りで、人々の熱意で、今日の二人は癒しの奇
跡に与ることができたのです。

しかし、私たちはこう思うのかも知れません。確かに、人々をイエスさまの元に連れて行くことが大切だ、ということは分かっている。しかし、奇跡など起きないではないか。何も変わらないで、ただ恥を受けるだけではないか、と。それも、率直な私たちの現実感覚なのかも知れません。
そのことを思い巡らす中で、たびたびご紹介していますカトリックの雨宮神父の解説が非常に有効だと思いましたので、少しご紹介したいと思います。雨宮神父はまず聖書が示す奇跡とは「自然法則から逸脱した現象」ということではなくて、と語り、次のように言われます。「旧約聖書で『奇跡』といった意味合いを表すことのできる言葉は、まず〈モーフィート〉ですが、……(これは)『不思議な現象』といっても、神が与えた『しるし』
であることを強調しています。次に〈ニフラーオート〉ですが、……人間の理解を超えた神の業を強調します。最後の〈ノーラーオート〉は、……神への畏怖を引き起こす出来事を表します。このように旧約聖書では、そこに『しるし』や『偉大さ』を見て、『畏怖心』を持つべき出来事として奇跡が捉えられています」。少し飛び飛びになってしまいましたが、そのように記しておられました。どうしても私たちは、癒しの事実といった奇跡の現
象に心が奪われやすいものです。そう言ったことで、奇跡を判断する。

しかし、雨宮先生がおっしゃるように、奇跡とは本来、神さまが働いてくださっていることの「しるし」なのです。確かに神さまは生きて働いておられるのだ、ということの「証し」なのです。そういう意味でも、私は人生が変えられることが最大の奇跡だと思っています。今日の幼児も、耳も口も閉ざされていた人も、単に癒されただけではないはずです。人生が変えられたのだと思う。そして、それは、当事者である彼らだけでもなかったのです。彼らの周りの人たち、あの母親も障害を抱えた人を連れてきた人々も、この奇跡、しるしによって人生が変えられたのだと思う。

人生が変わる、変えられる、というと、何かよほど大きな出来事でもない限り起こらない、と思われるかも知れません。しかし、そうではないはずです。私たちも変わった、変えられた。人を赦すことなど考えもしなかった私たちが赦せるようにと願うようになった。祈れるようになった。これは、人生が変わった、変えられた、と言えるのではないでしょうか。

私自身、自分が変わったなどとはとても思えませんでしたが、何年かぶりに再会した宣教師の方に、「浅野さんは本当に変わったね~」と言っていただけたことを、もう20年以上も前のことですが、今でもはっきりと覚えています。それほど、自分自身では気づかないほど、気づけないほど小さな変化かも知れませんが、しかしそれでも、人生が変わった、変えられた証拠だと思うのです。そこに、奇跡を、神さまの働きの確かな「しるし」を見ることができるからです。

今日の箇所でもう一つ気になる言葉があります。それは、37節の「この方のなさったことはすべて、すばらしい」という言葉です。もちろん、これはイエスさまのことを言っているものです。しかし、正直に言いまして、求道者時代も含めますともう40年近くになりますが、このような言葉を教会の中で聞いたことは一度もありませんでした。これは、非常に残念なことです。なぜなら、奇跡を体験した者たちを取り巻く人々からごく自
然な形で「この方のなさったことはすべて、すばらしい」と言い合えるのが、信仰共同体の姿だとも思うからです。

では、なぜこの言葉がすんなりと出てこないのか。奇跡だと思っていないからです。神さまが働いておられる「しるし」だと受け止めていないからです。こんな小さな変化など、単なる偶然に過ぎない、本人の努力の賜物に過ぎない、と思い込んでいるからです。そうではない。奇跡はおきている。おそらく私たちの誰もが、それを体験している。だからこそ、今の私たちがあるはずです。それは、イエスさまの働きであり、「すばらしい」ことなのです。

今日のこの箇所を「感動する」と言えたのは、この姉妹の上にも神さまの奇跡が、確かなしるしがあったからでしょう。その姉妹は88年間の生涯を閉じるまで、信仰の道を歩み続けられました。これもまた「奇跡」。姉妹をこのように守り支えてくださった神さまを褒め称えていきたいと思います。