【 説教・音声版】2021年8月22日(日)10:30 聖霊降臨後第13主日礼拝  説教 「 イエスと共に歩む 」 浅野 直樹 牧師

聖霊降臨後第十三主日礼拝説教



聖書箇所:ヨハネによる福音書6章56~69節

今週も前回の続きです。しかし、今日の日課には、キリスト者である私たちにとっては、大変厳しいことが記されていました。「わたしは天から降ってきた命のパンである。
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲まなければ永遠の命は得られない」といった一連の話を聞いた多くの弟子達がイエスさまの元を去っていったからです。先達て「五千人の供食」の出来事の時には、人々はイエスさまを自分たちの王として迎えようとしたほどでした。いわゆる「ガリラヤの春」と言われる時期、ということでしょう。ご承知のように、ガリラヤ地方における初期の伝道活動は大いに成功していました。

いく先々で熱狂的に迎え入れられ、多くの病人が連れて来られ、熱心に話を聞く群衆が多く起こったのです。その中から、弟子集団に加わった人々も少なくはなかったでしょう。ともかく、イエスさまの周りにはいつも多くの人々がいた、といった印象です。まさに、一大イエス・ブームが起こっていた、と言えるのかもしれません。我が国においても、プロテスタントが入ってきた明治期以降においても、何度かキリスト教ブームなるものが起こりました。

しかし、その結果がどうなったのかと言えば、皆さんもお分かりだと思います。残念ながら、熱は冷めていくものです。もちろん、マイナス面ばかりではないと思います。物事には功罪の両面があるからです。しかし、それが一過性のブームであるならば、終わりを迎えるのも必然だと言えるのかもしれません。

今日の弟子達の離反は、そんなブームの終焉よりも深刻だと言えるでしょう。なぜならば、彼らの離反の理由がこうだからです。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」。こう語ったのは「弟子」と言われる人々です。イエスさまに敵対する勢力の人々でも、単にブームに乗っかって話を聞きにきていた人々でもない。弟子集団に入るからには、それなりにイエスさまへのリスペクト・敬意、思いがあったはずです。つまり、この話を聞くまでは、尊敬してやまなかった、ということです。この人のためならば、戦って死んでも本望だ、と思っていたかもしれません。

しかし、この話…、「わたしは天から降ってきた命のパンである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲まなければ永遠の命は得られない」といった話を聞くや否や、「こんな話など聞いていられるか」と踵を返す…。私は、これこそ私たち人の姿だと思えてならないのです。「こんなはずではなかった」と冷淡にも見限る私たちの姿です。

以前も何度かお話ししたかと思いますが、私はあの出エジプトの出来事から約束の地カナンに入植するまでの出来事は、私たち信仰者の歩みそのものを表しているように思えてなりません。エジプトで奴隷状態であったイスラエルの民たちは、そこから解放されて意気揚々と旅立つのです。まさに、キリスト者の旅立ちです。そこから、信仰の旅がはじまる。しかし、すぐにも危機がやってきます。エジプト兵たちが連れ戻そうと追いかけてくる。まさに危機的な状況ですが、神さまは紅海渡渉という大きな奇跡で救い出してくださいました。その後も、決して順風満帆ではありませんでした。むしろ、試練が多かった。食料や水が乏しくなると、不平を言っては、かつての奴隷状態を懐かしむ有様です。

救われても、すぐには理想的な新天新地は現れなかったのです。ようやく、やっとの思いで約束の地を目の前にしても、怯んでしまって入ることを拒んでしまった。まさに、当初思い描いていたことからすれば、「こんなはずではなかった」の連続だったと思います。しかし、それが、約束の地へと向かう「旅」というものです。

「こんなはずではなかった」ということが付き纏うのが、信仰者の歩みだと思うのです。だからこそ、この歩みには、旅路には「信仰」が欠かせないのです。自分の思いではなく、神さまに信頼する心です。それが求められる。

先ほどの、イエスさまの言葉に躓いた弟子達にも同情の余地があるのかもしれません。なぜなら、彼らはユダヤ人として育ってきたからです。つまり、ユダヤの律法を叩き込まれてきたのです。そして、ユダヤの律法では、血を口にすることは厳に禁じられていたからです。悔やまれるのは、なぜもっと食らいつかなかったのか、ということです。なぜ先生は律法に反することを言われるのですか。私はあなたを信頼していましたのに納得がいきません、と「ひどい話だ」と切り捨てるのではなくて、もっと食らいついて欲しかったと思う。いずれにしても、価値観・意識の変更が求められていたように思います。そして、それが一番難しいのです。それが、躓きになる。私たちにとっても同様です。

では、なぜ「こんなはずではなかった」が起こるのか。自分で勝手に自分の信仰心・信心を、期待を押し付け、祭り上げるからです。だから、自分の願い、思いが叶わないと失望感も大きくなる。つまり、「独りよがり」なのです。逆に言えば、「こんなはずではなかった」という思いを乗り越えるためには、関係性が必要なのです。私たちはどうしても自己中心的になりやすいので「こんなはずでは」といった思いを抱いてしまい易いですが、関係性が豊かにあるのとないのとでは大いに違ってきてしまうからです。例えば、おそらく誰もが抱くであろう結婚後の「こんなはずではなかった」です。しかし、それで切れてしまえばそれまでの関係でしょうが、それを乗り越えることができるのは、互いにそれ以上の関係性を深めることができたからだと言えるからです。

イエスさまはこうおっしゃいました。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」と。私たちキリスト者に与えられる恵みとして「永遠の命」ということがよくいわれますが、では「永遠の命」とは一体何なのでしょうか。同じヨハネ福音書17章3節には、このように記されています。「永遠の命とは、唯一まことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」。ここで言われている「知る」ということは、単に知識として知る以上のことを指していることはお分かりでしょう。より深い関係性のことです。ですから、今日の日課にもこのように記されていました。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」と。

いつもイエスさまと共にある深い関係性、それがイエスさまの肉を食べることによって、その血を飲むことによって、つまり聖餐式によって、イエスさまの十字架によって与えられるのです。この恵み、この命こそが、私たちにとって最も幸いなことなのです。奴隷から解放されても、救われても、この世の旅はまだ続くものです。決して、一挙に新天新地・楽園に行ける訳ではない。信仰者だって色々な問題にぶつかります。家族の問題、職場での問題、学校での問題…。人間関係だって、決して楽ではない。経済的にも厳しい状況に追い込まれるかもしれない。病気にだってなる。介護も必要になる。新型コロナだって無縁ではいられない。

残念ながら家族が召されることだってあるでしょう。祈っているのに、ちっとも改善されない、解決されない、といった思いだって浮かんでくる。「こんなはずではなかった」のオンパレードです。しかし、イエスさまが、神さまがいてくださるのです。いいえ、それにさえ気づけない。気づけなくて、文句、不平ばかりになってしまう。でも、イエスさまに、神さまに支えられてきた、守られてきたのです。そのことに気付ける時が必ずくる。私も、それなりの人生を歩んできました。正直、信仰を捨てたいと思ったこともなかったわけじゃない。でも、本当に感謝しています。イエスさまが、神さまがいてくださったからです。祈ることができたからです。たとい迷い出たとしても、帰って来られるところがある。この心強さが何よりも祝福だと思うのです。

そんな命に、神さまとイエスさまと共に生きることができる命に永遠に生きることができる、死の間際にあっても、死の先にあっても、この命に生き続けることができる。これほどの幸いがあるだろうか、と思うのです。

ヤコポ・バッサーノ (1510–)最後の晩餐 ボルゲーゼ美術館


残念ながら去ってしまう人がいることも、私たちの知るところでしょう。ですから、イエスさまもこう仰った。「そして、言われた。『こういうわけで、わたしはあなたがたに、「父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない」と言ったのだ』」と。しかし、これは杓子定規に救われる人とそうでない人とがすでに定められている、ということではないと思うのです。なぜなら、イエスさまはこうもおっしゃっておられるからです。「あなたがたも離れて行きたいか」。

12弟子に言われた言葉です。ここに、イエスさまの不安と、そして残ってくれたことでホッとされた姿を想像するのは、私だけでしょうか。確かに、救いは神さまからの一方的な恵みです。しかし、それは、単に機械仕掛けの選別機ではないはずです。イエスさまは去っていった者たちに心を痛められ、残った者たちを喜んでおられるからです。

幸にして、残ることが許された私たちは、ペトロ達と共々にこう告白していきたいと思うのです。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています」。そして、去っていった者たちも悔い改めて、再び戻って来れるようにと祈っていきたいと思います。