【 説教・音声阪 】2021年7月25日(日)10:30 聖霊降臨後第8主日礼拝  説教 「 弟子を試すイエス 」 浅野 直樹 牧師

聖霊降臨後第九主日礼拝説教


聖書箇所:ヨハネによる福音書6章1~21節

今日からしばらくの間(約一ヶ月間)は、ヨハネ福音書からの学びとなります。以前お話ししましたように、これも日課が変わったことによるものです。
今日はその中から、「五千人の供食」と言われる出来事、そして「湖上歩行」と言われる出来事、つまり二つの奇跡物語が日課として取り上げられていました。
ご存知のように、聖書には四つの福音書がおさめられています。もちろん、関連する記事も多いわけですが、しかし、意外にも四つとも共通して載せられているものはそれほど多くはないのです。しかも、奇跡物語としては、この「五千人の供食」の出来事だけです。

イエスさまの復活を「奇跡物語」だとするならば、別ですが…。つまり、いずれの聖書記者たちも、是非ともこの出来事は載せたい、と思ったのでしょう。それほどのインパクトをもった出来事だったということです。

近年は、なかなかこういった奇跡物語を素直に読むことができなくなってきました。いわゆる「合理的」な解釈をする人たちが多くなった。例えば、今日の日課にはこんなことが記されていました。「弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。『ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。』」。ここで「少年」と訳されている言葉は、「少年奴隷」と訳した方が良いのではないか、という方もいらっしゃいますが、ともかく、ある少年が、しかも奴隷だったかもしれない、大麦のパンということは貧しさの象徴でもあった、そんな彼が五つのパンと魚二匹を持っていた訳です。数からしても、それほど大人数で食べるようなものではありませんので、自分用だったのか、あるいは仲間数人分だったのか、とにかく自分たちが食べられるようにと用意しておいた食料だったでしょう。年端も行かないような貧しい少年が、そんな自分たちが食べる分を差し出したのです。

それを見ていた大人たちも、流石に自分の分だけをとっておくことはできなくなった。次々と本当は密かに自分の分、自分の家族の分、仲間の分と隠し持っていた食料を出し合ったところ、あら不思議、五千人以上の人々が満腹して有り余るほどになったという。そう解釈した。確かに合理的で分かりやすい解釈だと思います。助け合いの精神、分かち合いの精神などもよく伝わってくる。しかし、ある方が指摘されているように、そんなことをわざわざ四人の福音書記者たちがどうしても載せたいものとして記しただろうか。そうも思うのです。イエス・キリストを信じるということは、命懸けなのです。福音書を最初に受け取った初期の教会はまさにそうだった。命を懸けてでも信じるには、合理的な助け合いの精神、分かち合いの精神だけでは、やはり弱いと思う。

それでは、命は懸けられない。もっと命を懸けてでも良いと思えるような驚きがなければ、福音書記者たちも、わざわざ書き残したりはしなかったでしょう。ですから、やはりここは奇跡が起こったのだと思うのです。ただし、奇跡といっても単に摩訶不思議なことが起こった、ということではありません。神さまの力が、神の子の力が示された、ということです。神さまの力がイエスさまによって明らかにされた、ということです。そのことを、その驚きを、福音書記者たちは伝えたかったのだ、と思う。そして、同時に福音書記者たちが伝えていることは、それを人々はなかなか受け入れることができなかった、という現実です。

残念ながら、一番身近にいたあの弟子たちでさえも、そうだった…。「五千人の供食」の出来事を、まさに体験したあの弟子たちが、その直後の湖上歩行のイエスさまを見て「恐れた」のも、その証拠です。他の福音書では、「幽霊」だと思ったとも記されています。

私は時々、「無力感」に襲われることがあります。今も、そうです。もっと自分に財力があれば、もっと教会に財力があれば、多くの人たちを助けられるのに。そう思う。そんな無力感に苛まれながら悶々と祈っていると、いつも自分の不信仰に気付かされるのです。私は神さまの、イエスさまの力を信じていないのではないか、と。ちなみに、私が「不信仰」という言葉を使う時は、これは私自身が勝手にそう思って使っていることですが、「不良信仰」…、あまりよろしくない信仰ということで、「無信仰」(これも私が勝手に使っているものですが)、つまり信仰自体がからっきし無い、あるいは自らの意志で否定することとは分けて考えています。ともかく、私の中では正直、そんなせめぎ合いが起こっています。

今日の日課の中で、弟子の一人であったフィリポがイエスさまによって「試された」ことが記されていました。「イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、『この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか』と言われたが、こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである」。試み・試すという言葉は、色々な意味で捉えることができると思います。

しかし、ここではフィリポを教え導くために、訓練するために、つまり、しっかりとイエスさまのことを、その力を理解させるために、あえてそうされたのではないか、と思います。フィリポはそこで瞬時に計算しました。「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」。

相手は男性だけで五千人です。そこには家族連れで来ていた人もいたのかもしれません。女性や子どもたちも含めたら、もっと数は多かったでしょう。ご存知の方も多いと思いますが、一デナリオンは一日分の労賃と言われます。単純に一デナリオンを一万円とすると、二百デナリオンは二百万円になる。これも単純にですが、それを五千人で割ると一人当たり四百円になります。女性や子どもたちを合わせて単純に二倍の人数にすると、一人当たり二百円になる。確かに、これでは満腹にはなりませんが、「めいめいが少しずつ食べる」には妥当な数字です。そういう意味では、このフィリポは随分と有能な人だったのかもしれません。瞬時に状況を把握し、必要量を計算したのですから。しかし、これはもちろん不可能な数字です。手元に二百万円なんて大金はありません。万が一あったとしても、そんな大量のパン

を購入できるような店もありません。つまりは、結局何もできないのです。確かに、五つのパンと二匹の魚はありました。しかし、それは弟子たちのものですらなかった。少年のものだった。たとえそれをかき集めたとしても、焼石に水どころか無いに等しかった。無力です。分かっているのに…。こうすればこの人たちは助かるに違いない、少なくとも一時凌ぎにはなるかもしれない。分かっている。そのための必要な手段も計算も出来ている。それなのに、自分たちには何もできない。それが、フィリポが試された、あるいは気付かされた現実だったのかもしれません。

しかし、むしろ、だからこそ、彼らは体験したのです。不可能を可能とする神さまの力を。神の子の力を。そして、これこそを彼らは学ぶべきだった。イエスさまには出来ないことは何一つないのだ、ということを。ただし、ここには注意が必要でしょう。私たちが知るべきは神の子の力です。ただの力、奇跡をなす力ではない。その力をいつ、どのような時に、どのような所で使うかを決められるのは、神の子お一人だ、ということです。だから、こう記してある。

「御自分では何をしようとしているか知っておられたのである」。初めから、ここで五千人に供食することをイエスさまは決められていたのです。少年がパンと魚を持ってこようと持ってこなかろうと、最初っからすることを決めておられた。そのことは、忘れてはならないのだと思うのです。にもかかわらず、イエスさまが少年のパンと魚を用いられたことも事実でしょう。僅かな、しかも貧しい、全く役に立たないような、あってないようなものでさえも、しかも、本来自分のものでもなかったものさえもイエスさまは用いられてご自分の栄光を表してくださった。人を助ける、救うという神の子の力という栄光を。そのことも、しっかりと心に刻んでいきたいと思うのです。

最初に、この奇跡物語に対する合理的な解釈を少し否定的にお話ししましたが、実は、私はそれでも良いと思っています。一人の少年の善意に触発された助け合い、分かち合いの精神も。ただし、ここにも神の子イエスさまの存在を忘れてはいけないのだと思うのです。人の心が動かされたのも、不可能を可能とする神の子の力があったからこそだと思うからです。その力が働かなければ、何も起きなかったでしょう。私は、そう信じる。だからこそ、私たちもまたあの弟子たちのように、常にイエスさまから神の子の力を学び、不良な信仰ではなくて、正されていく必要があるのではないか。そう思わされています。