【 説教・音声版 】2021年7月18日(日)10:30 聖霊降臨後第8主日礼拝  説教 「 イエスの動機 」 浅野 直樹 牧師

聖霊降臨後第八主日礼拝説教



聖書箇所:マルコによる福音書6章30~34、53~56節

今日の福音書の箇所を読みまして、改めて当時の人々の窮状を思い知らされたような気がいたしました。まずは、病気です。「こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いて舟をつないだ。一行が舟から上がると、すぐに人々はイエスと知って、その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた。村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、病人を広場に置き、せめて
その服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた」。ある方は、この箇所はこれまでのイエスさまの働きをまとめたものだ、と記しておられましたが、確かにそうかもしれませんが、つまりはどこに行っても病人たちが多くいた、ということでしょう。

今日でも、残念ながら医療の発達していない国々・地域では、私たちには想像もできないような病で命を落とすことがあります。なおさら2000年も前なら、そういったことは想像に難くありません。医療技術も薬も圧倒的に足りない。衛生面、栄養面でも乏しい。ちょっとしたことでも病気になり、重篤化し、命の危険に晒されていく…。コロナ禍にある私たちよりも、はるかに「死」が身近にあった世界です。そんな世界の中で人々は生きていた。それが、彼らの唯一の現実だった。ですから、治る、癒される可能性があると聞けば、人々が殺到するのも無理からぬことです。

あるいは、イエスさま一行が休息をとるために、湖の向こう・「人里離れた所」に向かおうとされた時に、先回りしていた群衆はどうだったか。少なくとも彼らは、イエスさまたちよりも早く移動できたくらいですから、病人、あるいは体に不具合があった人々ではなかったでしょう。いわゆる、健康な人々です。しかし、イエスさまは、そんな彼らの様子を見て、「飼い主のいない羊」のように思われたのです。

では、「飼い主のいない羊」のような人々とは、一体どのようなことなのでしょうか。一つは、どこに行けば良いのか分からない。どうすれば良いのか分からない。そんな導き手がいないがために途方に暮れている人々と言えるのではないでしょうか。今一つは、羊飼いとは羊たちを外敵から守る存在でもありますから、そういった保護を受けられない人々、常に不安を、心配事を抱えていた人々と言えるのかも知れません。そんな人々が、イエスさまを求めて駆けつけてき
たのです。

ご存知のように、当時のユダヤはローマ帝国に実質的に支配されていました。だからといって、「ローマの平和(パックス・ロマーナ)」と言われますように、必ずしも悪政を敷いていたのではないと思います。しかし、それでも、占領されている側としては、当然面白くはなかったでしょう。駐留しているローマ軍による犯罪も起こっていたかもしれません。あるいは、武力による無言の圧力を常に感じていたかもしれませんし、多額の税を
取られるのも不満に感じていたのかもしれません。そんな中で、当時、大きく二つの流れが起こっていたようです。

一つは、そんなローマとうまくやっていこうという現実主義的なグループです。宗教的には、主に祭司階級、つまりサドカイ派と言われるような人々がそうでした。もう一つは、律法を重視する、ある意味理想主義的と言えるのかもしれませんが、いわゆるファリサイ派と言われる人々です。方や、保身のためにローマにへつらっているように見える人々、方や厳格な律法主義・理想主義を押し付けようとする人々。そんな中で、このどちらにもついていけない民衆も多くいたのではないか、と思うのです。つまり、心理的・精神的・霊的に飢え渇いていたのではないか、と想像するのです。

身体的にしろ、精神的・霊的にしろ、当時の多くの人々は飢え渇いていた。何かを必死に求めていた。それが、イエスさまとの出会いとなった。

エルサレム滅亡を嘆く預言者エレミヤ 1630年、レンブラント・ファン・レイン (1606–1669) アムステルダム国立美術館


以前、むさしの教会の方ではありませんが、ある方のご葬儀をしたとき、こんな話を伺いました。その方は、とても辛いことがあって、娘さんと一緒に死のうと線路に向かわれたそうです。そんな思いで彷徨っていると、ある教会の前に来ていた。そして、その中に入ってみると、暖かい光に包まれて、なんだかホッとされたそうです。私たちにも、大なり小なり、そういった経験があるのではないでしょうか。なんだか飢え渇いていて、何か
で満たしたくて、求めて、イエスさまにたどり着く。そういった経験が…。

この当時の人々も、必ずしもイエスさまを求めていたのではなかったのかもしれません。もっと言えば、神さまのことさえも求めていなかったのかもしれない。自分の病気が治れば、それでいい。愛する者の病気が治れば、それでいい。動機は至って不純だったかもしれない。しかし、そんな当てもなく彷徨うわたしたちを、イエスさまは「飼い主のいない羊」のようだ、と「深く憐れ」んでくださったのです。弟子たちと一緒に、休息に向かわれたのです。お疲れのことだったでしょう。それなのに、オロオロあたふたしている私たちを、まことに自分勝手な願いしか持っていないような私たちを、つまり、罪深い私たちを、深く憐んで下さった。深く憐れみ、時間を惜しまず、教えて下さった。神さまのことを、この世のことを、私たち自身のことを。どこに向かえば良いのか、何をすれば良いのか、懇切丁寧に教えて下さった。

今日の旧約聖書の日課、」と言われる箇所です。つまり、良い羊飼いであるイエスさまの到来を予告、預言しているということです。その前に、当時の悪い羊飼い、これは具体的には当時の王を指すわけですが、その王たちを断罪する言葉が記されていました。「あなたたちは、わたしの羊の群れを散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかった。わたしはあなたたちの悪い行いを罰
する」。当時の羊飼い・王たちは、極端な圧政を敷いて国民を苦しめていた、ということでは必ずしもないと思います。当時の南ユダ王国は、大国バビロンとの間で非常に難しい舵取りを迫られていました。そこで、方針の違いなどもあったのでしょう、主導権争い、権力争いなどが起こってくる。そうなると、民衆のことはそっちのけです。自分たちの保身のことに、みんなが躍起になっていく。

だから、「顧みることをしなかった」と叱責されます。常に、自分を優先させてしまう。これが人間の性でしょう。それは、王たちに限らないことですが、こと羊たちを養い、保護し、導いていく羊飼いならば、その責任を問われる訳です。そして、ここで預言されている「良き羊飼い」は、それら人間的弱さをもった羊飼いたちとは全く異なるのだ、という。そして、イエスさまこそが、そんな「良き羊飼い」なのです。なぜならば、この羊飼いは何時如何なる時も、何よりも羊たちのことを優先される方だからです。この羊飼いのあらゆる動機は、自分を頼ってくる羊たちに対する深い憐れみにあるからです。

この羊飼いは、まことの良き羊飼いイエス・キリストは、たとえどんな動機であったとしても、不純な動機、罪にまみれた身勝手な動機であったとしても、飢え渇いて訪ねて来るものたちを決して拒まれることはないからです。その人たちに、必ず羊飼いの使命を果たされる。彼らが迷うことなく、一筋に光に向かえるように、教え諭していかれる。そういう方だからです。

ここで、もう一つ注意したいのは、この羊飼いの周りの人々の事です。まず弟子たちがいます。6章7節以下に、弟子たちを二人ずつ組にして宣教に送り出されたことが記されていますが、今日の箇所は、そんな弟子たちの宣教報告からはじまっているからです。つまり、ここに集まってきた人々の中には、この弟子たちの宣教の結果だった人もいたかもしれないからです。あるいは、一行がゲネサレトに向かった時には、そのことを知った名も無き人たちが、必死にそのことを周辺一帯に知らせに行ったことが記されています。また、その知らせを聞いた人々が病人たちを連れてきました。つまり、それら救いを必要としている人々が癒やされたのは、多くの人々がいたからだ、とも言えるわけです。

私たちは、決してイエスさまに取って代わることなどできません。まことの良き羊飼いは、イエスさまだけです。しかし、私たちもまた、飢え渇きを覚えている人々のために、口に、手に、足になれるのかもしれない。私たちもまた用いられて、イエスさまと出会って救われる人々が起こされていくのかもしれない。そうも思う。

願わくは、イエスさまがお持ちの「深い憐れみの心」を、ほんの少しでも私たちにも分けていただきたい。そのように願わされます。