【説教・音声版】2021年7月4日(日) 10:30 説教 「 イエスの驚き 」 浅野 直樹 牧師

聖霊降臨後第六主日礼拝説教



聖書箇所:マルコによる福音書6章1~13節

今日の福音書の日課には、こんな言葉が記されていました。「そして、人々の不信仰に驚かれた」。何とも印象深い、と言いますか、心に迫る言葉だと思います。
これまで、度々イエスさまに対する人々の「驚き」については記されていました。直近の例では、先週のヤイロの娘を復活させた時もそうでしたし、今日の日課においても、礼拝の場で語られたイエスさまの教えを聞いて、人々が驚いた様子が記されていました。しかし、ここではイエスさまが「驚かれた」と言います。

これは、大変珍しいことです。しかも、ここでイエスさまが驚かれたのは、郷里の人々の不信仰ぶりだったという。イエスさまに敵対する勢力の、時の指導的立場の人々の不信仰ぶりではないのです。イエスさまと共に生きてきた、ある意味イエスさまのことを一番良く知っているはずの、さっきまで驚きをもって喜んで話を聞いていたはずの人々の「不信仰」…。だからこそ、なのでしょう。私たちは、ここに心が吸い寄せられるような思いがするのではないか。そう思うのです。

先週は、今日の日課の直近の出来事として、二つの奇跡物語を見ていきました。長く婦人病を患っていた人の癒しの物語り。そして、死んでしまったヤイロの娘の復活物語り、です。もちろん、そうなのですが、この二つの物語りは「信仰の物語り」と言っても良いと思うのです。なぜなら、イエスさまはこう語っておられるからです。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」と。もちろん、色々と議論はあるでしょう。この女性の信仰は、自分勝手でひとりよがりな信仰だ、とか。

確かに、そうかもしれません。しかし、この女性はイエスさまの衣に触れさえすれば癒される、と信じたのです。そして、事実、その通りになった。イエスさまもご自身から力が出ていったことを感じられた、という。弟子たちが言っているように、この時、イエスさまの衣に触れた人は、この女性に限らないわけです。多くの人々がひしめき合って、イエスさまと触れていた。

しかし、力が出ていったのは、この人の時だけです。だからこそ、イエスさまはこの女性を探されたのです。ある意味、この女性の信仰を認められた、と言っても良いのかもしれません。もちろん、イエスさまはこの女性としっかりと向き合われて、その信仰を正していかれたことも忘れてはいけないと思いますが…。ともかく、奇跡の前に信仰があったことを、この物語りは語っているのです。

一方のヤイロも、イエスさまならば娘の病を癒してくださるに違いない、とわざわざ出迎えにいった訳です。その願い叶わず、結局娘は死んでしまいますが、それでもイエスさまはこのヤイロに信じることを求められました。「恐れることはない。ただ信じなさい」と。この時点では、ヤイロもまさか娘が復活するなどとは思ってもいなかったでしょうが、それでも、絶望の中にありながらも、このイエスさまの言葉に促されながら、支えられながら、イエスさまを家へと、娘の元へと案内していきました。

これも、やはり信仰の姿だと私は思います。このように、信仰の物語りがあって、次の場面では、不信仰の物語りが展開されていくことになる。ある方は、マルコはこのコントラストを描くことを目的にしていたのではないか、と指摘されていますが、そうかもしれません。明らかに、対照的です。

では、なぜ、郷里の人々は、イエスさまが驚かれるほどに「不信仰」に陥ってしまっていたのか。それは、あまりにイエスさまのことを知っていると思いすぎていたからです。イエスさまのことを完全に見誤っていた。そのことは、この言葉からも推察されます。

ヘンリク・シェミラツキ 「最後の晩餐」(1876)


「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか」。この言葉を見る限り、イエスさまの家族は特別ではなかったようです。その町のどこにでもいる普通の家族だった。そういう意味では、イエスさまも特別ではなかったのでしょう。生まれてすぐに歩き出した、とか、言葉を話し出した、とか、そういった伝説級ではなかった。

普通におしめを替えられ、町の子どもたちと一緒になって、鼻水を垂らして遊びまわっていたのかもしれない。そうです。あまりに、普通すぎたのです。それも、意味あることです。神の子が普通に、私たちと全く同じように生まれ、生きてくださった。しかし、彼ら地元民にとっては、これが躓きになってしまった。むしろ、特別ならば、良かったのかもしれません。もともと自分達とは住む世界が違う王族だとか、代々有名な学者を生み出すような特別な家柄だとか、自分達とは違う、敵わない、と思えたならば変わったのかもしれない。

しかし…。奴は大工のせがれだろ。俺たちと同じように、ついこの間まで汗水垂らして働いていたじゃないか。奴の子どもの頃のことだって、俺たちは良く知っている。なのに、なぜだ。俺たちと同じはずなのに、俺たちと何も変わらなかったはずなのに、なぜそんなことが出来るのだ。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か」。

「嫉妬」もあったのかもしれません。あまりに自分達と同じだと思いすぎていたために面白くなかった、素直になれなかったのかもしれません。そして、それは、自分達が劣っているということを、この人に助けてもらう必要があるということを、つまり、自分達の弱さを認めることができなかったことにもつながっていくのかもしれません。

今朝の使徒書では、あのパウロですら自分の弱さを自覚する必要性があったと訴えます。そして、その弱さを知った者こそが体験することができる強さがあることを告げるのです。「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。…それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」。

ここでパウロが言う「強さ」とは、自分の強さ、自分の内から出る強さでないことは明らかです。そうではなくて、神さまの力が、その強さが体験させられる場が本当の意味での「強さ」なのだ、という。これが、信仰なのです。

12年間病に苦しんだ女性も、ヤイロも、自分の弱さをとことん知らされた人たちです。だからこそ、イエスさまに救いを求めた。それが、信仰と認められた。方や、同郷の者たちは、あまりにイエスさまが身近すぎたからこそ、謙ることができずに、救いのチャンスを逃してしまった。形はどうであれ、罪人と揶揄された人々と宗教的指導者との間にも見られるものです。イエスさまを前に、救いを必要としている弱さを認めることができなかった。

神の子が私たちと同じようになってくださったのです。これが、イエスさまを見誤らない秘訣でしょう。「神の子」と「私たちと同じように」です。この両者です。ただの近しさでもない。ただの超越性でもない。この両者が、イエスさまの中に受肉されている。だからこそ、私たちは弱くなれる。世の中の道理に合わせて、必死に自分を立たせる強さを探し求めるのではなくて、素直に、ありのままに弱さを認めることができる。理解し、強めてくださる方がいてくださるから…。そうではないでしょうか。