【説教・音声版】2021年5月30日(日) 10:30 説教 「 聖霊を感じる 」 浅野 直樹 牧師

三位一体主日礼拝説教



聖書箇所:ヨハネによる福音書3章1~17節

先週は聖霊降臨祭でしたので、聖霊についてのお話しをいたしました。ご存知のように、聖書の言葉であるヘブライ語でもギリシア語でも、「霊」を表す言葉は、風を意味する言葉です。あるいは、息。ある方は、「空気の流れ」とも言っています。この空気の流れは、実感ではなかなか掴みきれないものです。しかし、その力、働きは感じることができる。その一例として、私の思い出の場所である静岡市に立つ風力発電用の風車、「風電君」のお話しもしました。本当に大きい…、全長65メートル、羽の長さ35メートルと巨大なものですが、それほど強い風を感じていなくても、その巨大な風車は大きな円を描いてゆっくりと回ります。風、空気の流れの力をまざまざと感じさせられたものです。

そのように、その力を、その働きを感じとることのできる霊、聖霊は、では、一体どんな働きをしているのか。先週の日課では、このように記されていました。「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする」。先週は時間もありませんでしたので、罪の誤りについてだけを取り上げさせていただきましたが、予告の通り今日は後の二つについても短くお話ししたいと思います。

「義」の誤りについては、こう記されています。「義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること」。「義」とは、正しさのことです。聖書からでなくとも、正しさについて教えるものは、この世界・社会の中にも多くあることを私たちは知っています。しかし、それらは誤りだと言うのです。神さまの前での本当の正しさとは、イエスさまの十字架と復活とからしか生まれないからです。「もはやわたしを見なくなる」とは、十字架と復活、そして昇天…、つまり現在は神さまの右に座しておられることを意味するからです。そこから、裁きについても誤りが正されていくことになる。裁きとは、この天に昇られたイエスさまから来るからです。私たちは礼拝の度に、使徒信条によってこのように告白しているはずです。「そして全能の父である神の右に座し、そこから来て、生きている人と死んだ人とをさばかれます」と。

「この世の支配者」たちは、自分たちこそが法律を作り、世を裁けると思っているところがある。もちろん、その全てが間違っているとは言いませんが、しかし、私たちは、どこかでその限界を知って憂いでいるのではないでしょうか。特に、専制的な指導者たちに対しては。彼らは神さまの御心を知らないからです。ですから、どこの国においても、大なり小なり弱者は、役位に立たない者は、反対する者たちは、弾かれ、切り捨てられていくことになる。ともかく、聖霊の働きとは、そういった世の誤りを明らかにすることだ、と言うのです。そして、そこに聖霊の働きを、その力を感じていくことにもなる。

いつまでも前回の箇所にとどまっていることはできませんので、これで最後にしたいと思いますが、私たちキリスト者たち、教会には、この聖霊の働きによって明らかにされたことを伝える、証していくことが求められているわけですが、それが先週の聖霊降臨の出来事だと思います。そこに、面白いことが記されていました。使徒言行録2章13節に「しかし、『ある人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ』と言って、あざける者もいた」とあります。つまり、聖霊に満たされた人たちを、酔っ払いだと間違えた人もいた、と言うことでしょう。素面では言えないようなことも、酒の力を借りれば言えることもある。好きな人に告白するのもそうかも知れない。つまり、酒の力ではなく、聖霊の力があれば素面の時には言えないようなことでも勇気が出て言えるようになる、ということでもあるのではないか、と思うのです。ここに、私はなんだか慰めを感じるのです。証しすることも、私たちの力だけに任されているのではない。素面だと臆してしまうこともある。しかし、聖霊の力は、そんな私たちをあたかも酔っ払いが大胆になるかのように、大胆に証する者にしてくださる。そういったことも、あの聖霊降臨の出来事には含まれていたのではないか。そう思うからです。

予定に反して、前回のところで随分と時間をとってしまいましたが、早速今日の箇所に移っていきたいと思います。今日の箇所の大半は、ニコデモの物語だと言えるのだと思います。今日は三位一体主日ですので、16節で神さまと御子(独り子)、そしてニコデモの物語で聖霊が登場してきますので、そういう意味では三位一体にふさわしいと言えるのかも知れませんが、それでもやはり、ニコデモの物語が中心になると思いますので、前回の箇所からも「聖霊」の話をしてきた訳です。では、このニコデモの物語、一体何を言いたいのか。一言でいえば「聖霊による新生」と言うことです。聖霊によって新しく生まれる、新しい存在になる、と言うことです。

私は正直に言いまして、このヨハネ福音書が苦手です。確かに、教えられる、記憶にとどめておきたい素晴らしい言葉も多くあります。今日の3章16節なんかもその代表でしょうが、他の福音書に比べても、赤線を引いてある箇所はダントツに多いのかも知れません。単独なら良いのです。しかし、物語の流れ、こと会話・対話の箇所になると、途端に訳がわからなくなる。今日のニコデモの箇所もそうですし、この後の4章に出てくるサマリアの女性の物語などもそうでしょう。旅の途中、サマリアの町に立ち寄られた時に、イエスさまはお疲れになられて井戸のそばに座っておられました。そこに、たまたま水を汲みにきた女性に声をかけられた。

「水を飲ませて」欲しいと。これは、当時の社会的、文化的背景を知らないと、なかなか分かりづらいものですが、この時代のユダヤ人とサマリア人とは仲が良くなかった。しかも、男性から女性に声をかけることは好ましくなかったものですから、女性はびっくりして、なぜ私に水を飲ませて欲しいなどと頼むのか、と尋ねる訳です。当然の問いでしょう。普通なら、「いいや、私はあらゆる差別をしないのだ。あなたを一人の人として見ている。だから、頼んでいるのだ」などの答えを期待するかも知れませんが、突然、「私が何者かを知っているなら、あなたの方から生きた水を求めるはずだ」などと言いだす。困惑したでしょうが、女性も何とかついていって水を与えるというからには、水を汲む道具が必要なのではないか、とこれまた真っ当な質問をするのですが、「私が与える水はあなたが知っているような水ではない。永遠の命を与える水なのだ」とまた訳のわからないことを言い出すわけです。全く会話になっていない。もし、私が皆さんとこんなやりとりをしたなら、きっと皆さんは私に話しかけて来なくなるでしょう。ニコデモの時もそうです。全く話が噛み合わない。

しかし、今では「流石」と思っています。なぜなら、私たちの土俵に上がっては、決して天の事柄には至らないからです。私たちの関心事はいつも地上のこと。世間話や社会に対しての愚痴が関の山です。だから、半ば強引に、全く話が噛み合わないほどに、イエスさまはご自身の土俵に私たちを上げようとなさる。天の事柄へと向かわせようとなさる。このニコデモについては、あまり良くない評価の方が多いようですが、私は流石だと思っています。よくこんな噛み合わない、しかも批判的な会話をされて、席を立たずについていっているな、と感心する。私なら、「もう結構」と言いかねない。しかし、それでも、やはり限界がある。結局は、「どうして、そんなことがありえましょうか」と結論づける
のがオチだからです。私たち自身の手によっては、どうしても天の事柄は分かり得ないのです。だからこその聖霊。だからこその「聖霊による新生」。

私たちには分からない。天の事柄は分からない。神さまの独り子を与えるほどの愛も、滅びを防ごうと望まれている思いも、永遠の命のことも、私たちには分からない。何一つ分からない。ピンと来ない。噛み合わない。それが、私たちの土俵に生きるということです。そうであるなら、あり続けるなら、私たちには分かりっこない。では、なぜ私たちはこの言葉に心惹かれるのでしょうか。素晴らしいみ言葉だと心に刻むのでしょうか。慰めの、希望の言葉とするのでしょうか。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。聖霊があなたに働いているからです。気づかずとも、自覚がなくとも、「聖霊による新生」に与っているからです。この御言葉の法則に照らし合わせるとするならば、そうとしか説明がつかない。そうでは、ないでしょうか。