説教「喜びは言葉を超えた」 関野和寛神学生

ルカによる福音書 1:67-79

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

アドベント第四主日

今 日はアドベント第四主日です。例年はこのアドベント第四の主日をクリスマス主日として祝うことが多いのですが、今年は25日が日曜日なので次週にクリスマ ス礼拝を持ちます。ですから今年は、今日の18日をアドベント第四主日として守り、今年は主イエス・キリストを待ち望むアドベントの期間をきちんと四週間 守るということになります。

このアドベントの期間、礼拝で一本づつこのアドベントクランツのロウソクに火を灯してきました。もうすでに一本 目がかなり短くなってきているのに気がつきます。このように短くなったロウソクを見ていると、いかにわたしたちが長い間クリスマスを待ち望み続けてきたか を表している気がします。

わたしたちが待ち望むクリスマス、皆さんは何を願いこのアドベントを過してきたでしょうか。やはりクリスマスの時 期はプレゼントを貰ったり、交換したりする習慣があるせいか、何か願い事をしてみたくなる気持ちになります。歳の瀬でもありますから、今年一年を振り返っ て、色々なことを反省し、来年はいい年にしたいと思われるでしょう。皆さんもそれぞれに、願い事があることと思います。

今日はアドベントの最後の週です。皆さんで共にクリスマスの願い事をする気持ちで、聖書の言葉を聞いていきたいと思うのです。

聖霊に満たされて

今 日読んだ福音書は、洗礼者ヨハネの父であるザカリヤの預言です。このザカリヤも、神の前にひとつの願いを持って生きてきた人でした(ルカ1:13)。それ は「子供が欲しい」という願いでした。ザカリヤとその妻エリサベトには子供ができず、二人ともすでに歳をとっていたのです。ですが神はザカリヤの願いを聞 き入れ、天使ガブリエルを通して、「洗礼者ヨハネ」が生れることを告げるのです。

そしてお告げの通りにヨハネが生まれます。ずっと願い続けていたことを叶えられたわけですから、ザカリヤとエリサベトの喜びはまことに大きいものであったことでしょう。ザカリヤは神を賛美し、そして預言を語りだすのです。

も う一度聖書を読んでみますと、最初に「父ザカリヤは聖霊に満たされて、こう預言をした」と書かれています。「聖霊に満たされて」なのです。聖霊とは神の働 きを意味します。そしてまさにこの時ザカリヤは聖霊、つまり神の働きの力に押し出されて、これから始まろうとするクリスマスの出来事、主イエスが来られる ことと、その意味を預言し始めるのです。

預言

普通に考えるならば、ザカリヤは回りの人々に、子供が生まれたという喜びを大声で伝えることでしょう。ですが、ザカリヤの預言の言葉はそうではなかったのです。ザカリヤは神を賛美しながら、自分たちの先祖イスラエルの民に神が起こした救いを思い起こさせるのです。

「ほ めたたえよイスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、我らの為に救いの角を、僕ダビデの家から起こされた。昔から聖なる預言者たちの口を通し て語られたとおりに。それは、我らの敵、すべて我らを憎む者の手からの救い。主は我らの先祖を憐れみ、その聖なる契約を覚えていてくださる。」 (68-72節)

これらの言葉にはイスラエルの民の苦しみの歴史と、そこに働いた神の救済の歴史が凝縮されています。「主はその民を解放 し・・・」という言葉から、神が400年間もの間エジプトで奴隷状態にされたイスラエルの民を、モーセを通して救い出したことを思い起こさせます。また、 紀元前6世紀に王国が滅ぼされてバビロニアへと捕囚として連れて行かれた時に、そこから解放してくれたという「救いの出来事」を思い起こさせるのです。

また、「主は我らの先祖を憐れみ、その聖なる契約を覚えていてくださる。」という言葉は神が創世記17章でアブラハムと交わした契約、すなわち、神が「アブラハムの子孫を増やし、カナンの地を与える」ということ、そして神が彼らの神であるということを思い出させます。

このように過去を思い起こし、想起することによって、「我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた」と救い主メシアのお生まれが神の救済の歴史の中のクライマックスであることをわたしたちは知るのです。

三つの喜び

ザ カリヤの預言、聖霊に満たされて語った預言は三つの喜びを語っています。一つ目は、過去において神が自分たちの祖先と交わした契約を守り、ずっと守ってい てくれたことへの喜び。そして二つ目は、旧約の時代から待望されたメシアがとうとうお生まれになるという喜び。そして三つ目はその過去の契約と来るべきメ シアの救いを橋渡しし、人々を神に立ち返らせるのが我が子ヨハネであるという喜び。ザカリヤの語った預言には、この三つの喜びがあったのです。

人間的に考えるならばザカリヤの願いは、ただ「ひとつ子供が欲しい」ということだったでしょう。ですが、主はザカリヤに預言を通して、さらにさらに大きなことを示されたのでした。いよいよ救い主メシアがやって来る、それを示すのはザカリヤの子ヨハネであるということを。

わたしたちの願い

このザカリヤの預言は今日アドベントの最後の主日を迎えるわたしたちに、今日を生きるわたしたちに何を語ろうとしているのでしょうか。クリスマスを目の前にしたわたしたちに、どのようなメッセージを伝えようとしているのでしょうか。

今 日読んでいただいた使徒書の日課にその答えがあります。フィリピの信徒への手紙4:6-7。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝 を込めて祈りと願いをささげて、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・ イエスによって守るでしょう。」

パウロは「何事でも、感謝を込めて祈りと願いをささげて、求めているものを神に打ち明けなさい」と語ります。

最 初に今日わたしが尋ねたように、このアドベント、わたしたちの願い事は何でしょうか。「クリスマスが楽しいのは、家族や親しい人とパーティーをできる人 や、プレゼントを貰える子供だけで、わたしには何の楽しいこともない・・・」と願い事をする気力さえなくしてしまう方もいるかも知れません。

また教会のメンバーでも、病気のために病院でこのクリスマスを過ごさなくてはいけない方もいますし、家族を亡くされたばかりの方もいらっしゃいます。それ以外にも様々な理由で、悲しみのうちにこのアドベントを過ごされている方が大勢いるでしょう。

だがしかし、パウロはこの「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげて、求めているものを神に打ち明けなさい。」という言葉を牢屋の中から喜びながら語ったのです。普通であれば牢屋に入れられているのに、感謝を持って何かを願うことなんてできないはずです。

けれどもパウロはきっと、神に対する揺るぎない信頼と希望を持っていたのでしょう。だからこそわたしたちも、たとえどんな悲しみの中にいても、たとえ叶わぬ願いを持っていても、神の前に願っていることを大胆に打ち明けてよいのです。

喜びは言葉を超えた

ザカリヤは「子供が欲しい」という願いを神に叶えていただきました。ですが大事なことはザカリヤが願いを叶えられたということだけではありません。預言の内容が示すように、ザカリヤにはそれ以上の大きな喜びが与えられたのです。

ま ず過去の出来事。神が自分たちの祖先イスラエルの民との契約を忘れず、人々がエジプトにそしてバビロ二アに捕われていた時に解放したこと。この預言を聞い た人々は、神が自分たちの歴史の中で一番辛かった時にも、神は約束を覚えていて、救いの御手を確かに差し伸べていたことを思い出したはずです。

この言葉はわたしたち個人、ひとりひとりの過去についても同じことを告げているのではないでしょうか。辛かった時、「神も仏もいないんじゃないか」と思う時が人にはあります。赦されないような過ちを犯してしまい、誰にも言えずそれを背負うこともあるでしょう。

わたしたちの過去はどんな努力をしても変えられません。そのような時、神はわたしたちから離れてしまっていたのでしょうか。神はわたしたちが一番苦しかった時に、わたしたちを見捨てられたのでしょうか。

そうではありません。そのような時は、わたしたちが苦しさのあまりに神さまのことが見えなかったのであり、神がわたしたちを見捨てたのではないのです。

エジプトから脱出して40年荒野をさまよった時にも、国を滅ぼされ、バビロ二アに連れて行かれた時にも、他の神を拝み、真なる主に背中を向けてしまったのは、イスラエルの民のほうでした。

その間も神はずっと人々に、戻ってくるようにと語りつづけていたのです。神は約束の通り、わたしたちを離れることなく守っていたのでした。40年間、400年間ずっとイスラエルの民を救いへと導いていたのです。

その神の愛の極みがあの十字架なのです。どこまでもわたしたちを追い求め、捕えて離さない愛、御子を十字架にまで架けるほどの愛、それが十字架の出来事なのです。アドベント、わたしたちが待ち続けた救い主とは、このようなお方なのです。

この神の救いの出来事の集大成を、わたしたちはこの預言を通して、歴史を遡りながら、今日聞くのです。わたしの過去においても確かに神が共にいて働いておられたのだと。

また、どうでしょうか。過去において辛かった出来事があるのと同様に、わたしたちは先が見えない将来に対する不安がいつもあります。だがしかし、ザカリヤの預言は力強く語るのです。

「高 い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く」と。来られるメシア、イエス・キリストは、わ たしたちの将来をも守られるのであると。ただ守られるのではなく、「暗闇と死の陰に座しているものを照らす」ということは、たとえわたしたちにどんな困難 がやってこようとも、そこから救い出すという約束でありましょう。

そしてわたしたちの、暗闇と死を照らすことができるのは、あの十字架でのイエスさまの死と復活なのです。わたしたちが待つ救い主のお生まれは、このようなお方のお生まれなのです。

わたしたちは今日、この神に願い事をすることを諦めてはいないでしょうか。ひとことの願いをすることさえできないほど、現実的な忙しさに追われているかも知れません。言葉に出して何かを願っても、空しく響くだけ。そう打ちひしがれてしまう時があります。

ですが、わたしたちが待ち望む主はわたしたちが思うよりはるかに大きな恵みをくださる方です。ザカリヤにとってそうだったように、わたしたちの願う言葉よりもはるかに大きな喜びをもたらすお方なのです。

わたしたちが待つメシアとは、ザカリヤにとってそうだったように、わたしたちの今の願いを聞き、わたしたちの過去の罪や柵、そして将来の不安や悩み、それらの一切を照らすあけぼのの光なるお方なのです。

アドベント第四主日、クリスマスまであと一週間。わたしたちを照らすあけぼのの光がすぐそこまで来ようとしています。

皆さまひとりひとりの願いが、神に聞かれますように。そしてその願いをはるかに超えた神の恵みが皆さんの上にありますよう祈ります。アーメン。

おわりの祝福

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。 アーメン。

(2005年12月18日 待降節第四主日礼拝)