【説教・音声版】2021年4月25日(日) 10:30 説教 「 私たちを思いやる神 」 浅野 直樹 牧師

復活節第四主日礼拝

聖書箇所:ヨハネによる福音書10章11~18節

今日の福音書の日課に、「わたしは良い羊飼いである」という言葉が出てまいりました。よく知られた御言葉だと思います。このところを、ある方はこのように訳した方が良い、と言います。「わたしが良い羊飼いである」と。「は」と「が」の違い。たったそれだけの違いかもしれませんが、意味合いが全く違っている、と言います。つまり、「わたし(こそ)が良い羊飼いなのだ」とここで名乗りを上げておられるからだ、というのです。なぜか。まがいものが多いからです。本物のように見えて、実は違っているものが多い。つまり、偽物です。偽物があまりに多いからだ、と言います。なるほど、と思いました。

この他にも、このヨハネ福音書では、「わたしは~である」といった表現が多いことでも知られています。ギリシア語の「エゴー・エイミ(英語のI am に相当しますが)」で、あの出エジプト記の「わたしはある。わたしはあるという者だ(あの燃える柴の箇所で神さまがモーセに告げられたご自身の名前のところですね。英語では「I am who I am」となっています)」と関連づけられる特別な意味合いをもった表現法です。ともかく、イエスさまは先ほどの「わたしは良い羊飼いである」の他にも、「わたしは門である」「わたしは世の光である」「わたしは復活であり命である」「わたしは道であり、真理であり、命である」とも告げておられます。これらもやはり、「わたしが世の光である」「わたしが復活であり命である」「わたしが道であり、真理であり、命である」と訳しても良いのではないか、と先ほどの方はおっしゃる。なぜならば、羊飼いだけではない、まがいものの、本物のように見えるけれども偽物の「門」が、「世の光」が、「復活」が、「道」「真理」「命」があるからです。間違っても、そっちには行ってはいけない、とイエスさまはご自身を示される。それが、「わたしは、ある」(エゴー・エイミ)でもある。

今日は、そんな中で「良き羊飼い」を考えていくわけですが、では何が「良い羊飼い」の条件か、といえば、「羊のために命を捨てる」ことこそがそれだ、とイエスさまは語られます。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」。それとは対照的な存在として「雇い人」が出てきます。「雇い人」は所詮は他人の羊なので、そこまで、命を懸けるまでは羊に尽くそうとはしない、という。

イエスさまが生きられた時代は、そのほとんどが雇い人の羊飼いだった、とも言われています。ですので、そういった光景も日常茶飯事だったのでしょう。実際に、あちらこちらでそういった事件・事故が起きていたのかもしれません。ですから、こんな取り決めもされていたようです。「有給の番人あるいは雇人は、家畜が片端になるとかさらわれるとか死んだりしたら、誓いを立てねばならないが、行方不明にしてしまったり盗難に会ったりした時は、償わなければならない」。ひとことで言えば、信用がなかったんだな、ということでしょう。事故は仕方がないとしても、いなくなった場合、雇人が売り払ってしまう可能性もあったわけです。ですから、償いが求められていた。あるいは、こうも定められていたようです。「一匹の狼が群れを襲っても、それは避けることができない事故だとは見なされない。二匹以上の狼が襲った時だけ、避け難い事故だと見なされる」。雇い人たちは羊たちをほっぽって早々に逃げてしまっていたんでしょう。それでは、雇い主も困ってしまう。

だから、狼が一匹の時は逃げちゃダメ。それは、違反だ。羊たちをちゃんと守れ。しかし、二匹以上になると流石に手に余るだろうから、仕方がない、許そう、ということでしょう。それくらいに、きちんと取り決めを決め、見張っていないと、すぐにでもサボってしまう雇い人が多かったのかもしれません。これは、紛れもなく「まがいもの・偽物」と言っても良いでしょう。しかし、中には、ちゃんとした雇い人もいたのではないでしょうか。持ち主さながら羊の面倒をしっかりと見て、羊たちを可愛がり、大切に扱っていた雇い人が。事実、雇い人であっても、羊たちを守るために狼などと戦って命を落とす人も少なくなかったようです。そういう意味では、危険な仕事です。そういった雇い人の羊飼いたちも、一律に「まがいもの・偽物」と言い切ってしまって、果たして良いのでしょうか。

現代に生きる私たちの周りにも、明らかに雇い人といえる羊飼いのような存在がいます。親であろうが、教師であろうが、職場の上司、先輩であろうが、羊のことを考えないで、むしろ自分の利益のために羊を利用しようとする人々が。自分の身の危険、不利益になりそうになるとすぐにでも見捨ててしまうような、切り捨ててしまうような人々が、確かにいる。残念ながら、そうです。私自身、他人事ではない。では、イエスさま以外は、みんな偽物に過ぎないのか、といえば、そうでもないようにも思える。なぜならば、本当に羊・私たち・人のことを愛し、養い、気遣い、導き、世話をし、危険から守ってくれる人々も確かにいるからです。親、教師、上司、先輩、友人、仲間、ただの近所の人だってそうかもしれない。心優しい人々が確かにいる。もちろん、そういった人々に恵まれることは、本当に幸いなことです。頼りになる。しかし、では、それらの人々がイエスさまに取って代わることができるのか、と言えば、それは違うでしょう。良い人はいる。素晴らしい人もいる。本当にそれらの人々に助けられてきた。しかし、それでも、誰もイエスさまの代わりにはなれないのです。

羊のために命を落とした人はいたでしょう。大切な羊を守るために、必死に戦って、残念ながら力及ばす命を落としてしまった人々が…。無念だったでしょう。しかし、イエスさまは「羊のために命を捨てる」とおっしゃる。力及ばす殉教の死を遂げるのではない。はじめっから、羊のために、羊を救うために、その羊の命の身代わりとなって、自らその命を捨てる、とおっしゃるのです。十字架の上で、あなたがた羊のために命を捨てる、と。

それは、誰も真似のできないことです。いいえ、たとえ真似ることができたとしても、それでは意味がない。なぜならば、神の子の命だからこそ意味がある。そして、命を捨てたその神の子が復活されるからこそ、そこに力と真実がある。「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である」。ここにあるのは、単なる優しさではありません。神さまの力です。しかも、イエスさまは目的を持っておられた。羊のために命を捨てる目的を。それは、私たち羊に命を与えるためでした。「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」。これは、まさしく誰も代わることができない、イエスさまだけが成し得る業。命の働き。そして、イエスさまが与えてくださるこの命は「永遠の命」と言っても良いでしょう。そして、このヨハネ福音書は、永遠の命についてこのように記しています。17章3節「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」。今日の日課の中にも、この「知る」という言葉が出てきました。

「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである」。聖書の「知る」という表現は、「愛する」の意味だと言われますので、まさにイエスさまが与えてくださる命、永遠の命とは、神さまとイエスさまとの愛の交わりの中に、一匹の迷える羊に過ぎない私たちをも招き入れてくださっている、ということです。私たちは、神さまに、そしてイエスさまに、途方もなく愛されている。それが出来るのは、イエスさまだけ。誰も、イエスさまに取って代わることはできない。だからこそ、イエスさまは「わたしが良い羊飼いである」と自己主張をなさるのです。間違えないで欲しい。優しい優れた羊飼いは他にもいるかもしれない。しかし、羊のために自ら命を捨て、命を与えることのできる羊飼いは私一人だ。他にはいない。そのことを忘れないでほしい。そして、この私のところに来なさい。なぜなら、「わたしこそが良い羊飼い」なのだから。そのように、今日も私たちを招いてくださっているのではないでしょうか。

 

祈り
三度目の緊急事態宣言が発令され、またしばらくの間、集会式の礼拝を中止することになりました。なかなか新型コロナの収束が見えませんが、どうぞ、私たちの信仰も心も体もお守りくださり、自分たちにできる最善をしていくことができますようにお助けください。

大阪では、連日新規感染者数が1000人を超え、重症患者用ベッドの使用率も100パーセントを超えるという、まさに危機的な状況にあります。東京もより感染力が強く、重症化しやすいと言われている変異株に置き換わりつつあり、予断を許さない状況にあるとも言われます。感染を抑え込むためには、ワクチンが行き渡っていない今、一人一人が感染のリスクを減らす行動をするしかありません。経済的なこと等、色々な難しさはあるでしょうが、患者さんのためにも、医療従事者の方々のためにも、自制を働かせていくことができますようにお導きください。

先日、また一人姉妹があなたの元に帰られました。寂しい限りです。生前、姉妹をお守りくださいましたことを心より感謝いたします。姉妹は今、あなたの御約束の通り、天のあなたの御元で安らいでおられることでしょう。ご遺族、教え子さんたち、あなたの元で豊かな交わりをもってこられた教会の仲間たちお一人お一人の上に、天来の豊かな慰めをお与えくださいますようにお願いいたします。また、明日のご葬儀もお導きくださり、ご遺族にとっても豊かな慰めの時となりますようにお導きください。

今月はじめから行ってきました大規模修繕工事も中盤を迎えました。どうぞ、働かれるお一人お一人をなおもお守りくださり、事故など起きませんようにお支えください。また、十分な修繕工事となり、これからも会堂が守られていきますように、必要な設備も整えられていきますように、どうぞお導きください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン