【説教・音声阪】2021年4月4日(日) 10:30 説教 「そして涙は拭われる 」 浅野 直樹 牧師 」

復活祭聖餐礼拝説教

聖書箇所:ヨハネによる福音書20章1~18節

私たちは、愛する者の死の痛みを知っています。私は牧師ですので、これまでも多くの葬儀を行ってきましたが、時には棺にしがみつき、泣きじゃくる方もおられました。心が痛みました。そうではな くても…、たとえご葬儀の時に涙を流されなくても、死・死別の辛さ、悲しみはあるものです。それが、「死」というものです。

近頃、「曖昧な喪失」といった言葉がよく聞かれるようになりました。あの東日本大震災に代表されるような災害の時によく現れる現象だと言われます。突然の死別、ご遺体も見つからない、そんな、ちゃんとした別れの作業ができなかった心の穴が、長期間それらの方々を苛むからです。それは、最近の新型コロナにおいてもいえる、と言われます。ご存知のように、新型コロナに感染された方には、基本的に面会ができません。看取ることもできない。今でも通常のご葬儀が行えないことが多いようです。そういった「通常」とは違った死別が「曖昧な喪失」を生むと言われるからです。

今日の福音書の箇所に、マグダラのマリアが登場して参ります。マルコ福音書やルカ福音書によりますと、このマリアは「七つの悪霊」を追い出して頂いた女性だと言います。イエスさまによって救って頂いた女性。人生を変えて頂いた女性。生きる意味を取り戻すことができた女性。ですから、このマリアにとってイエスさまは大恩人な訳です。ですから、彼女はイエスさま一行と行動を共にし、彼らの身の回りの世話をした。自分にできることでイエスさまに仕えてきました。ほんの少しでも、イエスさまに恩返しがしたかったのかもしれません。そのマグダラのマリアは、「週の初めの日、朝早く」に、つまり日曜日の早朝、まだ日が上りきる前にイエスさまの墓を訪れていました。

ジョット 1303-06年ごろパドヴァ スクロヴェー二礼拝堂『 キリストの復活とノリ・メ・タブゲレ(我に触れるな)』


このマグダラのマリアをはじめとした女性たちにとっては、イエスさまの死は弟子たち以上にショッキングな出来事だったのかもしれません。なぜなら、弟子たちほどには、事細かにこれから起こるであろう出来事についての説明がなされていなかったでしょうから。つい数日前、皆がこぞってまるで王を歓待するかのようにイエスさまを迎えたのです。おそらく、その場にいたであろうこの女性たちも、誇らしかったのではないでしょうか。皆が私たちの主を喜んでいる、と。それなのに、あれから数日しか経っていないのに、捕らえられ、裁判にかけられ、死刑の判決がくだされ、あれよあれよのうちに十字架に磔にされて死んでしまわれた。誰が想像できたでしょうか。まさに、理解する間もなく怒涛のように過ぎ去った一日だったのではないか、と思います。

しかし、この女性たちは、イエスさまの死を受け止めざるを得なかったのではないでしょうか。なぜなら、見ていたからです。目撃していたからです。血を流し、磔にされたイエスさまを。苦痛に歪むその顔を。命を削るかのような粗い息遣いを。そして、とうとう動かなくなった。全身から力が抜け落ち、首を垂らしてピクリとも動かない。終いには、その死を確認するかのように、槍で脇腹を一突きされ、血と水が流れ落ちた。誰の目にも明らかでした。イエスさまの死が。それは、この女性たちにも否定できなかったことです。もう受け止めるしかなかった。しかし、それでも、このマグダラのマリアをはじめとした女性たちにとっては、

「曖昧な喪失」だったのかもしれません。受け止め切れない、事実だけれども真実になり切れていない死として…。だから、マリアは安息日が終わるとすぐに墓に行ったのかもしれません。イエスさまの亡骸に触れて、そのイエスさまに語りかけて、別れをするために。真実の死とするために。しかし、墓にはイエスさまの遺体はなかった。

ロヒール・ファン・デル・ウェイデン Rogier van der Weyden 「十字架降架」(1435-1438)プラド美術館(マドリード)


「マリアは墓の外に立って泣いていた」と言います。愛する者の死で悲しむのは当然ですが、しかし、ここでマリアが「泣いて」いたのは、遺体が見当たらなかったからです。彼女が求めていたのは、イエスさまの復活ではありません。イエスさまの遺体です。真実の死です。そして、その死にすがって、思い出に生きようとする自分自身のケジメです。それは、私たちにもよくわかることです。そうでないと、私たちもまた立ち上がることができなくなるからです。

実は、ここに大きな課題があるようにも思うのです。私たちは、「死」に対抗する手段は「死」でしかない、と思っている節がある。言葉を変えるなら、「諦め」です。なるべく良い死の捉え方をして、納得させようとする。そのためには、真実の死にするしかありません。もう彼は、彼女は死んだのだから、二度と戻っては来ないのだ、と。しかし、私たちには、そんな彼らとの暖かな思い出があるのだ、と。だから、大丈夫、立ち上がっていけるのだ、と。しかし、そんな私たちの死との向き合い方にイエスさまはチャレンジをされる。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります」。「マリア」…。

いくら立派なお葬式をしても、立派なお墓を立てても、いっぱい思い出を持っていても、踏ん切りをつけたつもりでも、勝てないものがある。その人自身です。その人自身の声、呼びかけです。「マリア」…。彼女はどんな思いで答えたでしょうか。「ラボニ(先生)」と。遺体が見つかるよりも遥かに嬉しかったに違いない。そして、それは、私たちも夢見てきたことです。愛する者が復活して、私の名前を呼んでくれることを…。

使徒パウロは、今朝読まれた使徒書の日課の後で、このように語っています。12節以下。「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」。イエスさまが真に復活して下さったこそ、マグダラのマリアの前に現れ、「マリア」と呼びかけてくださったからこそ、私たちもまた、愛する者の復活を、この私たち自身の復活を信じることができる。死を死でなんとか手懐け、心許ない慰めに生きるのではなくて、真の希望と喜びに
生きることができる。いいえ、たとえ死・死別の悲しみにのたうち回ることになっても、深いところから響き渡る安心・平安の調べに心委ねることができるようになる。復活のイエスさまがいてくださるから。そうではないでしょうか。

イエスさまは復活なさいました。私たちもまたこの復活の命と希望とに生きることができるようにと復活してくださったのです。本当に感謝です。
復活祭(イースター)、おめでとうございます。



祈り
本日は、コロナ禍ではありますが、復活祭を共々に祝うことができましたことを心より感謝いたします。また、礼拝前には、普段とは違った形になりましたが、子どもイースターの集まりをすることができましたことも感謝いたします。私たちの救い主、主イエス・キリストは、私たちのために十字架に死に復活してくださった。これが私たちキリスト教会にとって最も大切な出来事です。ここに、使徒の時代から今日まで、救いと希望と愛をキリスト者たちは見出してきました。どうぞ私たちもまた、そんな先人たちと共々に、この信仰に堅く立ち、希望と喜びと愛に生きることができるように、これからも豊かにお導きください。

また、この福音を宣べ伝えることも私たちには託されていますので、コロナ禍ではありますが、あらゆる機会を用いて証ししていくことができますように、私たちを聖めお用いください。

今日から神学生が当教会で実習をされます。どうぞ、神学生の学びを祝し、この教会での実習もこれからの働きに生かしていくためも良い経験となって行けるように、お導きくださいますようお願いいたします。

4月1日から5月末までの予定で大規模修繕工事が始まりました。すでに、足場の設置が完了していますが、どうぞ、これからの工事を導き、お守りくださいますようにお願いいたします。特に作業される方々をお守りくださり、事故などが起こりませんように、また、近隣の方々の迷惑などにもなりませんように、お導きくださいますようお願いいたします。

4月から就職、進学、進級など新しい環境になられた方々をどうぞお守りくださり、1日も早く慣れて、良い歩みをすることができますようにお助けください。悩みのうちにある者、絶望に追い込まれている者をかえりみ、助け導いてください。病床にある者、死に直面している者にいやしと慰めをお与えください。正義のために苦しむ者、自由を奪われた者に勇気と希望を与えてください。闇の中を歩む者に、あなたの光を
注ぎ、計り知れない恵みのみ旨を示してください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン