【説教・音声版】 2021年2月21日 「 備えの時 」浅野 直樹 牧師

四旬節第一主日礼拝説教



聖書箇所:マルコによる福音書1章9~15節

「備えあれば患なし」。人生において、あるいは世界では何が起こるか分かりませんので、「備えがある」ということは、非常に重要なことだと思います。
もうすぐ、あの大震災から10年になります。先日も、福島県沖を震源とする非常に大きな地震がありました。あの10年前の地震の余震だと言います。先日の地震の時には私はリビングにいましたが、その異様な揺れの長さにすぐに10年前の惨劇が脳裏に浮かびました。これは、また大変なことが起きているのではないか。津波が襲ってこないと良いが、と。今回は津波の心配はないということでホッと致しました。もちろん、被害にあわれた方々もいらっしゃいますので、単純には喜べませんが…。あの3.11の時も、「備え」があるかどうかで大きく明暗が分かれてしまったように思います。

今はコロナ禍の真っ最中ですが、感染症対策についての「備え」ということでは大失敗だったと言えるでしょう。ある方は、このような感染症の問題は「安全保障」上の問題だ、と指摘されていましたが、私も同感です。安全保障といえば、すぐに軍備ばかりに目が行きますが、人類はそんな軍備に力と知恵と財力を使う前に、こういった感染症の問題、気候変動の問題、食糧危機の問題などに力と知恵と財力を注ぎ込み、「備え」て行くべきではなかったか、と今更ながらに思っています。そうすれば、これほどの感染の拡大もなかったかもしれませんし、被害も、経済的な落ち込みも回避できたかもしれない。ともかく、私たちは、これらのことからも「備え」の大切さを学び直さなければならないのかもしれません。人生に、世界に何が起こるのか、本当に分からないのですから。


今日から四旬節の礼拝がはじまって参ります。例年ですと、先週の水曜日は「灰の水曜日」として、棕櫚の十字架を灰にしたものを用いた礼拝を行なってきましたが、今年はそれも叶いませんでした。少なくとも、今年は聖金曜日の礼拝と復活祭の礼拝は共に過ごしたいものです。

この四旬節第一主日に与えられました福音書の日課は、マルコ1章9~15節と短い箇所でしたが、その短い中に、三つの事柄が記されていました。一つは、イエスさまの洗礼の出来事。そして、いわゆる「荒野の誘惑」の出来事。そして、福音宣教開始の出来事。イエスさまの誕生物語を記していないマルコ福音書にとっては、ようやくと言っても良いと思いますが、14節になってはじめてイエスさまの言葉が記されていきます。「イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」。ここから、いよいよ福音宣教がはじまっていく訳ですが、この福音宣教こそがご自身の何よりの使命だったことが1章38節を読むと分かります。「イエスは言われた。『近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出てきたのである』」。

では、イエスさまにとって福音宣教とは何だったのか。もちろん、先ほども言いましたように、第一にそれは神さまから託された使命です。どうしてもやり遂げなければならないもの。そして、その結果、多くの人々がイエスさまを信じるようになりました。いわゆる「ガリラヤの春」と言われる時期です。行く先々で好意的に迎え入れられ、人々は熱心にイエスさまの話を聞き、イエスさまに付き従う者も多くいた。まさに、絶好調と言える時期です。全てがうまく行くかのように思われた。時の宗教的指導者たちも、当初はど田舎の片隅で起こっていることとして、気にも止めていなかったでしょう。

しかし、その評判は首都エルサレムにまで届くようになった。もはや黙って見過ごすこともできなくり、調査隊を派遣するようになります。調べてみると、どうやらこれまでの宗教的慣習を否定するような言動をしているように見られる。このまま放っておいて良いだろうか。警戒されるようになる。そして、敵意は強まり、溝は深まり、ついには十字架の死へと追いやられていく。つまり、イエスさまにとって宣教とは、使命であると同時に、苦難の道でもあった訳です。

十字架へと行き着く道。もちろん、それらも含めてご承知の上でのことだったでしょうが、流石のイエスさまでも険しい道のりには違いなかったでしょう。あのゲッセマネでの祈りの時に、「この杯をわたしから取りのけてください」と祈らざるを得なかったほどに、あの十字架の上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫ばざるを得なかったほどに、その道は大変厳しかった。それが…、その人生がこれからはじまろうとしている。福音宣教の開始とは、そういった意味もあったのではないか、と思うのです。

アンドレア・デル・ヴェロッキオ&レオナルド・ダ・ヴィンチ 「キリストの洗礼」 (1475年頃):ウフィツィ美術館 https://www.musey.net/1745


その福音宣教の前に起こった出来事が、今日の箇所の二つの出来事でした。一つは洗礼の出来事。そして、もう一つは、「荒野の誘惑」の出来事。私にはこれら二つの出来事は、これから始まる福音宣教という大変重要な、しかも大変厳しい歩みをはじめるに当たっての準備・備えだったのではないか、と思えてならないのです。そして、この両者の出来事を一つの言葉で言い表すならば、「神さま体験」ではないか、と思う。イエスさまは洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになられた時に、天から発せられた「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声を聞かれました。

また、40日間にも及ぶ荒野での生活では̶̶このマルコにはマタイやルカにあるような悪魔とのやりとりといった具体的な内容も全て省かれて非常にシンプルに記されている訳ですが、そのシンプルさの中にも、悪魔との熾烈な争い、その葛藤などが感じ取れるように思います。この悪魔との熾烈な争いは、これから始まるイエスさまの宣教活動における戦いをも表しているのでしょう̶̶

神さまから遣わされた天使たちが自分に仕え、支えていてくれたことが記されていました。神さまが自分のことを愛する我が子と言ってくださり、苦難・試練…、その厳しさの中にあっても、神さまは決して見捨てておられるのではなく、常に守り支えてくださっていることを体験したからこそ、体験できたからこそ、あのイエスさまであっても、厳しい人生に漕ぎ出せていけたのではないか、と思うのです。私たちの先頭に立って。そう、イエスさまは私たちに先立って、その人生の極意をご自身で体験しながら示していってくださったのではないか。そう思う。

先週、教会員のある兄のご葬儀を行いました。教会の内外で大変に活躍された兄ですので、その報に触れられて様々な思いを抱かれた方も多いと思います。私も何だか信じられないでいる。元気そうな兄のお姿しか思い浮かびません。ご遺体のお顔も、本当に眠っているようでした。兄は生前から事細かにご自身の死後のことなどもご家族に書き留められていかれました。本当にあまりにも詳細だったのでご家族もびっくりしたそうです。そんな兄の死への備えが、また、そんな備えがお出来になった信仰の生涯が、兄の不意の死においても、ご家族を大いに慰めたのだと思います。

人生は、世界は、何が起こるか分からない。そして、私たちの誰もが、死という瞬間を必ず迎えることになる。だからこそ、備えが必要なのだと思うのです。いいえ、私たちの人生そのものが、備えのための人生なのではないか、とさえ思うのです。不意な困難、試練、苦しみに対処するために。また、必ずやってくる死という現実に対処するために。だから、私たちもまたイエスさまを見習っていきたいと思うのです。私たちも常に、神さまが私たちの味方であることを知っていきたいと思うのです。洗礼の事実を通して。そして、神さまの守りの真実を通して。

 

祈り
・先日、2月10日に敬愛する兄がまた一人天に帰られました。私たちにとっては寂しい限りですが、御約束の通りに、今兄はあなたの懐で永遠の安息に与っていることと信じます。私たちもまた、兄との再会の希望をしっかりと胸に抱いて、信仰の生涯を全うすることができますようにお助けください。悲しみの中にあるご家族の上に、天来の豊かな慰めをお与えくださいますようにお願いいたします。

・随分と新規感染者数が減ってきているようですが、まだまだ医療現場は大変な状況です。また、気持ちが緩むと、一気に感染が拡大することにもなりかねません。感染の問題、精神的な問題、経済的な問題など、この新型コロナでは難しい舵取りが求められますが、どうぞ一人一人が良い道を探り求めながら歩むことができますように、お導きくださいますようお願いいたします。

また、新型コロナに関する差別発言も絶えないようです。どうしてそのような発言をするのか理解に苦しみますが、発言する人々にも色々な負荷がかかっているのでしょう。どうぞ、このような時だからこそ、人の痛みを思いやる気持ちを皆で持っていくことができますように、そのような社会となっていくことができますようにお導きください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン