【 説教 ・音声版】2021年1月10日(日) 10:30 説教 「その時、天は裂けた」浅野直樹牧師

主の洗礼主日礼拝


聖書箇所:マルコによる福音書1章4~11節

本日は、主の洗礼を覚える主の日の礼拝です。ですので、ご一緒に、改めてイエスさまが洗礼を受けられた意味を、また私たちの洗礼の意味を考えていきたいと思っています。

その前に、本日与えられました第一の朗読、創世記1章1節以下の言葉にも思いを向けていきたいと思います。このみ言葉が、この新しい年のはじまりに与えられているということは幸いなことだと思っているからです。

ご承知のように、先週(7日に)一都三県に緊急事態宣言が出されました。東京においては、連日2000人を超える新規感染者数が出ています。予想をはるかに超えた急激な広がりです。個人的には、第一派のときに言われていた「ファクターX」などともう言え
なくなってきているほど、深刻な状況になっているようにも感じています。本来ならば、明るく希望に満ちているはずの年のはじめなのに、今年は、このような重苦しい雰囲気の中ではじめなければなりませんでした。



創世記の創造物語を、たわいもない神話のたぐいやおとぎ話のように受け止めておられる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、私は、この創造物語こそがキリスト教信仰の根幹をなしていると信じています。だからといって、必ずしも字義通りに受け取ることを要求しているのではありません。そうではなくて、この世界を造られた方がおられる、その方を信じる、ということです。それが、私たちの信仰の一丁目一番地ではないか、そう思っているからです。

この創造主なる神さまは、闇に光をもたらされる方です。何よりも、闇の中に、そのただ中に光を生み出す、創造される方なのです。「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あ
れ。』こうして、光があった」。神さまは初めに「光」を創造されました。しかも、言葉によって。「『光あれ。』こうして、光があった」。

キリスト教は「ことばの宗教」とも言われたりいたします。言葉を…、聖書のことば、またその解き明かしである説教を大切にしているからです。また、その言葉の力を信じている。
言葉には力があります。それは何も、聖書の理解だけではありません。古来から日本にも「言霊」といった理解がありました。言葉には力、霊力が宿っていると考えられてきた。発せられた言葉が、現実を動かす、影響を与えると信じられてきたのです。ですか
ら、むやみやたらなことは言えなかったわけです。特に呪いの言葉などは…。本当にそうなってしまうことを恐れたからです。現代では、そういう意味ではあまりに言葉の力が軽んじられているのかもしれません。しかし、果たしてそうでしょうか。不用意なSNS上の
誹謗中傷で、大切な一人のいのちが奪われてしまうことだってある。

新年早々、アメリカから驚くようなニュースが飛び込んできました。トランプ支持者たちが連邦議会を襲撃したというのです。よくよくそのニュースを聞くと、大統領自身ワシントンに集まっていた支持者たちを煽るような発言をしていたとか。トランプさんは、まさかそのようなことになるとは思いもしなかったかもしれませんが、この歴史的汚点とも言われる事件に対して、自分には責任がないかのような発言に呆れてしまいました。

言葉に力がなくなってしまったのではありません。その言葉に責任を取らなくなってしまったからこそ、言葉が軽んじられるようになったのです。それは、日本の政治家たちもそうでしょう。難しい舵取りだということは誰もが理解しているはずです。しかし、その言葉はあまりに他人事のように聞こえてしまう。言葉に責任を持つということは、自分の発した言葉にしがみつくことでも、無理強いすることではないはずです。立ち止まって考えてみること、吟味すること、反省すること、時にはきちんと謝罪すること。そうではないでしょうか。ともかく、神さまの言葉は責任を取られるからこそ力強いのです。語られた言葉は必ず成る。闇の中に光を生み出されたように。私たちはこの一年をはじめるにあたって、もう一度この神さまの言葉の力に信仰の目を向けていきたいと思います。

イエスさまはなぜ悔い改めを説いていた洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたのか。私たちのためです。私たちのために、罪のないイエスさまは罪の赦しを与える洗礼を受けられたのです。私たちと同じ、私たちの一員となるために。私たちの仲間となるために。私たちの友となるために。そして、この私たちをも神の子とするために。パウロもこう書いています。ガラテヤの信徒への手紙3章26節。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」。

ところで、このマルコ福音書では、イエスさまの洗礼の出来事についても御多分に洩れず非常に簡素に記されていますが、しかし、このマルコならではの特徴も見られます。それは、洗礼を受けられた後での出来事ですが、「天が裂けて」と記されているからです。
後で並行箇所と見比べていただければと思いますが、マタイもルカも「天が開け」といった表現がなされています。天が開かれる。あたかも一面黒い雲に覆われ閉じられていた空が開かれて、天からの光が差し込んでくるような、神秘的で、穏やかな、そして神々しい光景を想像いたします。それに引き換え、「天が裂け」るとは、なんと荒々しい表現か。
あたかも、無理矢理に、強引にこじ開けるような、そんな荒々しい激烈な印象を受けるのです。そして、それこそが重要なのではないか、と私は思っています。

先ほどは、なぜイエスさまは洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたのか、と言えば、それは私たちのためであった、と言いました。しかし、それは、決して、洗礼の出来事に限らないはずです。イエスさまの誕生からその生涯、また死と復活においても、すべてが私たちのためです。そして、この私たちのために、というのは、神さまにとっても、けっして楽な、安易なことではなかったはずなのです。私たちのために生まれ、私たちと同じ罪人の仲間となり、私たちを罪から救うために十字架に死に、私たちを神の子とされる。神さまにとっても、それらは決してスマートに、かっこよくできるものではなかった。

まさに、自分自身の身が引き裂かれるような思いで、自分の世界が引き裂かれ壊されるような思いで、それまでの私たちとの隔てられた関係を引き裂くような思いで、厳しく、辛く、苦しく、激烈で、本来ありえない、無理やりにとしか思えない強引な方法で、まさに神の子を、ご自分の愛するひとり子を十字架にかけるという方法でしか実現しえなかったことだったからではないか、そう思うからです。

キリストの洗礼:ピエロ・デラ・フランチェスカ (–1492) ロンドン ナショナルギャラリー


私たちが洗礼によって、神の子とされるということは、まさに「天が引き裂かれ」るような出来事を通してでなければ、決してやってこなかったことです。天が引き裂かれたからこそ、神さまが自ら天を引き裂いてくださったからこそ、私たちの上にも聖霊が下り、このような語りかけを聞くことができるようになった。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と。

先週は小山先生がルターの言葉をいろいろとご紹介くださいましたが、決して張り合うつもりはありませんが、せっかくの新年なので、わたしも一つご紹介したいと思います。

それは、ご存知の方もいらっしゃると思いますが、小教理問答の洗礼の項目で語られているものです。

「どのようにして水がそのように大きなことをすることができるのですか。

答え 水はもちろんそのようなことをしない。水と共に、水の許にある神のことばがそれをするのだ」。

そうです。最初に言いましたように神さまの言葉自体が、洗礼によって私たちを神の子としてくださるのです。天を引き裂くほどの激烈さをもって、まさに「光よあれ」を実現する力をもって、約束したことは必ず果たすとの責任をもって語ってくださっている神さまの言葉が、それをする。それを実現するのです。私たちは、ただそのことを信じるのです。

確かに暗い中でのスタートとなってしまいましたが、しかし、ここまでしてくださっている神さまが私たちを放っておかれることはないはずです。この神さまを、その言葉の力を信じて、この新しい一年も歩んでいきたいと願っています。



祈 り

・神さま。東京では連日2000人以上の新規感染者の方々が判明し、ついに一都三県に緊急事態宣言が出される事態となってしまいました。東京都のHPを見ますと、昨日の時点で5000人以上の方々が入院待機中だと思われます。このままでは病院で手当てもできずに悪化される方が多くでてしまうのではないか、と心配です。もちろん、医療の現場も大変な状況でしょう。一向に収まるどころか、ますます患者数が増えて、医療従事者の方々も心底疲れ切っておられるのではないか、と心配です。どうぞ憐れんでください。

経済的な面ももちろん必要でしょうが、とにかくもう一度、国民・市民一人ひとりの意識を変えて、感染を押さえ込まないことには、どうにもなりません。どうぞ、この緊急事態宣言を受けて、一人ひとりの意識を変えてくださり、感染を抑制していくことができますようにお導きください。

・また、教会においても、この緊急事態宣言と感染拡大、医療現場の逼迫を受けて本日より2月7日までは集会式の礼拝を中止いたしました。昨年9月より人数制限がありつつもせっかく再開されたのに本当に残念ですが、この間も教会に連なるお一人お一人をお守りくださり、それぞれの場所であなたとの豊かな出会いをしていくことがお出来になりますようにお導きください。また、新型コロナをはじめ、あらゆる危険からもお守りくださいますようにお願いいたします。

総会を間近に控えたこの時期ですので、私たちと同様、多くの教会で混乱をきたしておられるかもしれませんが、どうぞ、すべてを良きものへと変えてくださり、良き時を備えてくださいますようにもお願いを致します。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン