【 テキスト・音声版】2020年11月8日 説教「 本当の賢さ 」 浅野 直樹 牧師

聖霊降臨後第23主日礼拝説教



聖書箇所:マタイによる福音書25章1~13節

今年も早いもので、残すところ2ヶ月を切りました。しかし、個人的にはなんだか不思議な感覚の中にいるのも事実です。ご承知のように、今年は新型コロナの影響でこれまでとは全く異なる一年となりました。礼拝も、また様々な行事も出来ずにきました。だからなのか、なんだか例年とは違って時間の流れや季節感が掴めないできているのかもしれません。

そうは言っても、やはり「時」は正確に流れていきます。季節も移り変わり、あの災害級に暑かった夏が嘘だったかのように寒く感じるようになってきました。紅葉の便りも続々と飛び込んできます。暦も日一日と年末年始に近づいています。特に教会の暦においては、一年の始まりは待降節からですので、今年も残すところ2週間となりました(ちなみに、今年の待降節は11月29日から始まります)。

そういった中で、これは例年のことですが、聖書のテキストも「終末(世界の終わり)」に関するものが取り上げられるようになってきました。今日の福音書の箇所もまさにそうです。キリスト教の歴史観は直線的とも言えます。はじめがあり、終わりがある。私たちがどう思おうと、どう受け止めようと、歴史は、あるいは私たち一人一人の営みは終わりへと向かっていく…、そういった理解です。

この「終末」ということを考える時、大きく分けて二つの面があることを覚えます。その二つの面を今朝の旧約の日課と使徒書の日課は適切に物語っているように思いますが、一つは「裁き」という面、もう一つは「救いの完成」という面です。このどちらかではなく、両面が「終末」にはある訳です。そして、そんな終わり・「終末」ということを考えていく上で非常に重要になってくるのが「備え」だということを、今朝の福音書の日課は、私たちに語ってくれているように思います。

先ほどから言っていますように、キリスト教の歴史観では、世界は「終末(世界の終わり)」に向かって進んでいっていると考えているわけですが、その時必ず起こるのがキリストの再臨ということです。つまり、イエス・キリストと終わりの時とが深く結び付けられている、ということです。もっと言えば、その終わりの時には必ずイエス・キリストと対面することになる、ということでしょう。

ですから、まさに「その時」、どんなキリストと対面するかが非常に重要になってくる。つまり、裁き主としてのイエス・キリストか、それとも救い主としてのイエス・キリストか、ということです。そこで、先ほど言いました終末のイメージ、メッセージが、では自分にとってはどうなのか、ということが全く違ってくるわけです。

「裁き」という恐ろしいものになるのか、それとも「救いの完成」という喜ばしいものとなるのか…。今日の譬え話の中にもそのことが記されています。ここで記されています「花婿」とはイエス・キリストのことを指します。そのイエス・キリストの到着を待つ世界、人々がいる。ですから、終末をイメージさせられる訳ですが、そこで重要になってくるのがイエス・キリストがどんな姿でどこに来られるのか、ということです。

先ほど言いましたように、「花婿」として、婚宴の席に来られる、ということがまず重要になってくる。このイメージこそが終末の基本だというのです。終末とは、はじめに裁きがあるのではない。そうではなくて、婚宴という非常に喜ばしい姿、イメージがまずあるのです。しかし、残念ながら、といいますか、後半を見ていきますと、その婚宴の席につくことのできない人々が出てくる。ぴしゃっと扉が閉じられて、締め出されてしまう人々ができてしまう。まことに、大変厳しい話ですが、だからこそ警告の言葉となっている訳です。

十人の処女たちのたとえ:ウィリアムブレイク The Parable of the Wise and Foolish Virgins c.1826 William Blake 1757-1827, Tate Gallery Collections


ここに10人のおとめたちが登場してまいります。もちろん、彼女らは私たちの代表です。その10人は賢いおとめたちと愚かなおとめたちと半数に分かれている。そして、婚宴に与ったのは5人の賢いおとめたちであり、締め出されてしまったのは愚かなおとめたちであったとあります。私たちはどうしても、この結論とも言える言葉に注意が向いてしまうのではないか、と思います。「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」。

確かに、聖書は何度も「目を覚まして」いる必要性を訴えています。そういったこともあってか、ここでもこの賢いおとめと愚かなおとめを分けたものは、目を覚ましていたかどうかだと考えてしまいやすい。しかし、この物語を読めば明らかなように、両者ともに眠り込んでしまっていたのです。この10人のうち、誰一人目を覚ましている者はいなかった。では、何が両者を分けてしまったのか。もうお分かりのように、余分の油を用意していたかどうか。ただその一点のみです。準備を怠らなかったかどうかで結果が決定的に違ったものとなってしまったのです。



少し前、テレビでレスキュー隊の訓練風景を見ていました。訓練といっても本番さながら、非常に緊張感が伝わってくる内容でした。本当に大声を出して、救助者役の人形に対しても大声で呼びかけたり、安否確認などをしていました。私は正直、その様子を見ていて照れ臭くなりました。人形相手に、そんなことまでするのか、と思ったのです。しかし、おそらくそれが大事なのでしょう。訓練の時からそういった本番さながらのことをしなければ、いざというときに力が発揮できないからです。訓練とは、いざというときに動じないために行われるものです。その訓練の是非があの東日本の時にも大きく明暗を分けました。

この譬え話を読んで多くの人が思うことがあります。それは、なぜ賢いおとめたちは自分の持っている油を分けてあげなかったのか、ということです。これは譬え話です。譬え話とはある目的をもって語られるものですので、細部のことに踏み入ることはあまりしない方が良いと言えるでしょう。

しかし、ここでは分けられないものがある、ということは考えても良いのかもしれません。今まで終末は世界の終わりということで考えてきましたが、何も終わりとはそれだけではないからです。私たちの人生の終末、終わりもあるからです。それは、決して人任せにできないものです。自分自身で取り組むしかない課題。もちろん、周りの多くの人々が様々な助けの手を差し伸べてくれるでしょうが、最後の最後は自分一人で向き合うしかない。

それが「死」という問題です。油の貸し借りなどの融通の効かない世界もある。これもまた、私たちの現実。ならばこそ、自分自身で「その時」の備えをどうしていくのか、どう考えていくのか、は重要な問いになるはずです。世界の終わりだけではない。私たちの人生の終わりに際してもまた、イエスさまと向き合う時だからです。裁き主としてのイエスさまと向き合うのか、それとも救い主としてのイエスさまと向き合うのか。

この備えの解釈については、いろいろなことが言われています。良い行いだとか、聖霊の働きだとか、祈りだとか。もちろん、そうだと思う。しかし、私自身最も大切なことは、イエスさまを迎えるという思い、姿勢ではないか、と思うのです。なぜ、賢いおとめたちは余分の油を用意していたのか。賢いから機転が効いたというよりも、是が非でも花婿であるイエスさまを迎えたいと思ったからでしょう。それに対して、愚かなおとめたちはそれほどの思いはなかった。

もちろん、喜んではいたでしょうが、親類に頼まれたからといった熱意に欠けるところがあったのかもしれない。ともかく、どちらも眠り込んでしまう瞬間がある訳です。いつも信仰的に熱心でいられる訳ではないのかもしれない。しかし、それでも、イエスさまをしっかりと迎えたい、イエスさまとお会いしたい、イエスさまと相対したい、そういった熱い想いが、知らず識らずのうちにも、「その時」の備えを、準備を、また訓練をしていくことになるのではないか、そう思うのです。

祈り
・アメリカの大統領選挙が混迷を深めています。両陣営が一触即発の状態にあり、暴動や武力衝突が起きる可能性も否定できないとさえ言われています。世界にも大きく影響を及ぼすアメリカですので、国内での混乱が世界中にどれほどの混乱を与えるか分かりません。どうぞ、いずれの陣営の勝利であっても、冷静な判断のもと、混乱を回避していくことができますように。また、この分断はなかなか根が深く、一朝一夕での解決は難しいとも言われていますが、アメリカ社会が理想として掲げていた多様性を認め合っていくことができていきますように、どうぞお守りくださりお導きくださいますようお願いいたします。

・ヨーロッパでもアメリカでも、今まで以上の勢いで新型コロナが蔓延していると伝えられています。また、ウイルスが変異したとも伝えられています。冬になっていく中で心配されていたことが現実となってきていますが、どうぞ憐れんでくださいますように。

日本国内においても、徐々に感染者数が増えていっていると報じられています。特に、いち早く冬場を迎える北海道では、連日過去最多の患者数が報告されています。そういった傾向が、これからどんどんと国内の各地においても起こってくるのではないか、と懸念されています。

経済活動もしながら、感染症予防をしていかなければならないといった大変難しい舵取りが続いていますが、医療関係者も疲弊していると思いますので、少しでも有効な手立てが国や自治体においても、また市民一人ひとりの自覚においてもなされていきますように、どうぞお導きください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン