【 テキスト・音声版】2020年10月18日 説教「 真理を語る 」 浅野 直樹 牧師

聖霊降臨後第二十主日礼拝説教


聖書箇所:マタイによる福音書22章15~22節

今朝の福音書の日課は、良く知られた物語だと思います。いわゆる「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」です。

ここでファリサイ派とヘロデ派といった人々が登場してまいります。ファリサイ派については度々登場してきますので良くご存知だと思いますが、律法に忠実であろうとする人々のことです。つまり、国粋主義者とまでは言いませんが、ユダヤの伝統を非常に重んじる人々でした。

対してヘロデ派(ヘロデ党と言った方が良いのかもしれませんが)はヘロデ王朝を支持する非常に政治色の強いグループで、このヘロデ王朝はローマ帝国の後ろ盾を権力基盤にしていましたから、親ローマと言っても良いと思います。ですから、この両者は正反対の立場に立っていたと言っても良いでしょう。そんな普段は反目し合っていたであろうファリサイ派の人々とヘロデ派の人々がここでは結託をするのです。一致団結する。両者にとっての共通の敵といいますか、おもしろくない存在であるイエスさまを陥れるためです。

これまで数週間にわたって譬え話をみていきました。その時にもお話したように、これらの譬え話には共通点があった訳です。当時の宗教的指導者たちを非難するためでした。彼らは自分たちこそが神さまの御心を行っている者、救われるに相応しい者だと自負していた。しかし、イエスさまはそんな彼らに対して真っ向から挑戦していかれました。むしろ、救われるに相応しい人々とは、彼らが忌み嫌っていた罪人たちなのだと。神さまの呼びかけに答えて悔い改めていった者たちなのだと。たとえ罪人であったとしても、悔い改めるならば、神さまに立ち返るならば、それこそが神さまの御心に叶うことになるのだ、と。

なぜならば、神さまの御心とは、全ての人々が悔い改めて神さまから命を得ることだからです。人として、真に生きるようになることです。神さまを愛し、人を愛する者として…。もちろん、それでも私たちはその途上にいることになる。完成されている訳ではないからです。まだまだ不完全です。それでも、そこを目指して、泣き笑いしながら、失望しながら、悔い改めて、何度も立ち上がって、一歩づつでも、小さな歩みであっても、先へと進んでいく…。それが、神さまの、イエスさまの御心なのです。

ティツィアーノ:Titian – The Tribute Money –  作成: 1516年頃 ドレスデン: Staatliche Kunstsammlungen Dresden -Google Art Project (715452)-


確かに、そんな思いから遠くズレてしまっていた時の宗教的指導者たちを非難するためにこれらの譬え話が語られていった訳ですが、しかし、単に非難するためでなく、彼らにも自らの過ちに気付き、真実に立ち返って欲しいといった願いも込められていたのではないか、そう思います。しかし、残念というか、彼らにとってはそれも馬の耳に念仏だったようです。先ほど言いましたように、今度は反目しあっていた者同士が手を結び、言葉巧みにイエスさまを陥れようとしていった訳ですから…。

しかし、私たちはそんな彼らをただ非難するだけで良いのでしょうか。私たちにも見に覚えがあるのではないか。私たちもまた、本当に反省することに疎い者だからです。本当のことを言われれば言われるほど、真実を突かれれば突かれるほど、私たちはかえって意固地になって反抗的にさえなってしまう。そんな私達の姿も、彼らの中に見るような気がいたします。

彼らは言葉巧みに罠を張ります。どう答えたって非難できる材料を揃えて。皇帝に納めるべきだと答えれば、民衆の支持を一気に失うことになる。彼ら民衆から搾取する者たちの手先と映るからです。逆に、納めるべきではないと答えるならば反逆者として訴えられることにもなる。あるいは、「分からない」とお茶を濁すこともできない。

なぜなら、彼らは「あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを」、つまり、人の顔色など伺うことなく真実だけを語る存在だと評価しているからです。実に巧妙です。八方塞がりです。しかし、イエスさまはそんな彼らの魂胆を見抜いてこう答えられた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と。

あっぱれな回答です。完璧とも思える罠を張ったさすがの彼らもぐうの音も出なかった。しかし、イエスさまは彼らの企みを単に完膚なきまでに叩きのめすためにそのような答えをなされたのでしょうか。

皇帝の硬貨(1790)ドミンゴス・セルグエイラ:Domingos Sequeira画


確かに、「皇帝のもの」と言われている、いわゆるこの世的なもの、この社会、世界で生み出されたものも多くありますが、それらも含めて究極的には全てが神さまのもの、神さまから与えられたもののはずです。この世界も、私たちも、この命も…。そのことを、本当に私たち人類は忘れてしまっていると思う。

全てが皇帝のもの、つまり、この世で生み出されたものだと思い込んでいる。だから、自分勝手に、自分の欲するままに、他者を傷つけても、踏みにじっても構わないかのように、自分の目的だけのために存在しているかのように扱っている。しかし、本当は、そんな生き方は、あり方は、虚しいだけのものです。そんな皇帝のものを全て手に入れたと思っていても、最終的には、究極的には、虚しさだけが襲ってくる。

今日の旧約の日課にも、この虚しさということが記されていました。「わたしのほかは、むなしいものだ、と」。この「わたし」とは神さまご自身のことです。神さま以外のものは虚しいのです。そして、この虚しさと言えば、私たちはあのコヘレトの言葉を思い出すでしょう。「コヘレトは言う。なんという空しさ なんという空しさ、すべては空しい」。この世の全てを探求したコヘレトは、そう言う他なかった。

この世界に、人生に、人生の終わりに、意味がないとしたら、つまり、全てが偶然の産物でしかないとしたら、それは本当に虚しいことです。あるいは、今私たちが生きているこの現実世界にしか真実がないとしたら、誤った政治的指導者たちが生まれ、国民も惑わされ、戦争、争い、差別、貧困、そういったものをただ単に受容しなければならないとしたら、諦めなければならないとしたら、人生とはこんなものでしかないと投げ出すしかないとしたら、世界はこんなものでしかない、何ら希望などないと沈黙するしかないとしたら、それは何という虚しいことか。

この世界に意味はあるのか。希望はあるのか。聖書の答えは明快です。神がおられる。もちろん、信じる信じないは私たちにかかっているのかもしれませんが、この世界には、私達の生には、意味がある、希望があると言う。なぜならば、この世界は偶然や気まぐれで成り立っているのではなくて、明確な意志をもっておられる神さまによって成っているからです。人が真に生きることを、自由に、互いに愛し合いながら生きることを何よりも願っておられる神さまの意志が、この生み出された世界の中にある。もちろん、私達の目には、それらが明確に写らない現実が確かにあります。

祈ったって応えられない、不幸としか思えない現実が…。では、この歴史の中で人類はそんな不幸の中でしか生きられなかったといえば、そうではないでしょう。不幸としか思えない現実がそこにあっても、その只中で意味を、希望を見いだすことができた人々は決して少数ではないはずです。あの戦争という地獄のような中でも、明日をも知れないアウシュヴィッツの中でも、この世の終わりとも思える大災害の中にも、意味を、希望を持って、見失わないで生きた、そして眠りについた人々が確かにいた。

神さまがおられるからです。神さまのものを神さまにおかえしできたからです。この自分自身を、です。たとえ私たちは、それらを否定するような現実や人々の声の中にいるとしても、そういった名も知れぬ無数の証人たちにも囲まれていることをしっかりと覚えていきたいと思う。このように、ファリサイ派の人々が意図せず策謀の中で語っていった「真実」がイエスさまによって語られているのではないでしょうか。



祈り
・急に寒くなってきました。どうぞ、心も体もお守りくださいますようにお願いいたします。重い病気を抱えておられる方々、体調を崩しておられる方々、様々な心労に疲れを覚えておられる方々など、この新型コロナによるストレスもあいまってかいろんな方々が不調を覚えておられますが、どうぞお一人お一人を顧みてくださり、必要な助けをお与えくださいますようにお願いいたします。

・来主日の宗教改革主日は、例年神学校日礼拝として献金をお献げしていますが、今年は例年のようにはいかないでしょう。それでも、一人でも多くの方々が神学校を覚えて献げていけるようにお導きください。このコロナ禍、神学校もルーテル学院も大変ご苦労をされていると思いますので、どうぞ教職員の方々、学生一人ひとりをお支えくださいますようにお願いいたします。また、神学生になる方々が減少していますので、どうぞ多くの方々に志をお与えください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン