【 テキスト・音声 】2020年9月20日 説教「 救いたいという思い」 浅野 直樹 牧師

2020年9月20日 聖霊降臨後第十六主日礼拝説教


聖書箇所:マタイによる福音書20章1~16節

今朝の福音書の日課も、良く知られた譬え話です。この譬え話自体も、それほど難しいものではないでしょう。しかし、読み手によって、これほど印象の違う譬え話も珍しいのではないか、と思います。そして、大方の人にとっては、なんだかすっきりしないと言いますか、もやもや感が残るものではないでしょうか。



この譬え話、「『ぶどう園の労働者』のたとえ」と小見出しにはありますが、この物語の主人公は「ぶどう園の労働者」ではなく、非常識なほど気前の良いこのぶどう園の主人だと思います。そして、この主人の立ち居振る舞いが、先ほど言ったような印象をそれぞれに与える訳です。では、なぜもやもやするのか。不公平だからです。いいえ、賃金自体は公平です。どの人も1デナリオンの賃金を貰っている。しかし、それは、不公平に思える。なぜなら、労働時間がそれぞれ違っているからです。

サロモン・コニンク ぶどう園の労働者のたとえ Salomon Koninck:The Parable of the Laborers in the Vineyard. 1647


12時間働いた人、9時間働いた人、6時間働いた人、1時間しか働かなかった人。そのどれもが同じ賃金、1デナリオンを貰っている。それが、私たちの目には不公平に映る。当然です。労働に見合った代価ではないからです。先ほど、このぶどう園の主人を「非常識なほど気前の良い」人だと言いましたが、気前の良さは良いのです。ちゃんと自分の労働に見合った賃金ならば、つまりちゃんと「差」をつけてさえくれたならば、その気前の良さはむしろ大歓迎なのです。

1時間しか働かなかった人が1デナリオン貰えたとしても納得ができる。むしろ、この主人のそんな気前の良さを評価できたかもしれない。すごく良い人だと。しかし、働いた時間が違うのに同じ賃金だというのが許せない。腹が立ってくる。しかも、この主人の「自分のものを自分のしたいようにしては、いけないのか」との言葉に、なんだかカチンとくる。言っていることは当然だと思いつつも、この不公平な扱いにイラっとしてしまう。そうではないでしょうか。

この物語を理解する上で大切なことは、この譬え話が「天の国」を示すための譬え話だ、ということです。つまり、この地上での事柄、常識とは違う、ということです。こんな非常識なことを、この地上世界で、私たちのこの社会・現実世界で、日常で行ったのなら、とたんに大混乱を起こすでしょう。そして、その不満は大暴動に発展するかもしれません。または、こんなおいしい目に合うならばと、労働に無気力な人も多く生まれてしまうかもしれない。ですから、私たちの現実とは、ちょっと切り離して考えなければならないのかもしれません。しかし、それでも、神さまがそんな不公平なことをしても良いのか、との問いは残ります。

いくら天の国のことだとしても、むしろ、天の国がそんな不公平なところか、と思うと、がっかりされる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、ここで立ち止まって、よくよく考えてみていただきたいのです。先ほどから、不満を持つ側から話してきましたが、では、なぜこの物語を読んで不満を持つのか、といえば、「自分は出来る人間だ」と思っているからです。今日の譬え話で言えば、自分は最初に雇われた人間、少なくとも最後の人、たった1時間しか働かなかった人とは違う、と思っているからです。では、なぜそう思えるのか。誰が「出来る人間」だと、最初っから雇われていた人だと評価するのでしょうか。自分でしょうか。周りの人でしょうか。社会でしょうか。

それとも、神さまでしょうか。誰が、確信をもって一番働いた者、最初っから雇われた者、と言えるでしょうか。自分では「俺は(私は)出来る人間」と思っていても、結局最後まで雇われなかった人だったかもしれない。それでも、世間は俺を見る目がない、誰も私を正当に評価してくれない、といきり立っていただけかも知れないのです。

レンブラントぶどう園の労働者のたとえ  Rembrandt:The Parable of the Laborers in the Vineyard,1637


先週は王に莫大な借金をして赦してもらった家来の譬え話が取り上げられていましたが、果たして彼は決済まで自分の負債に気づけていたのでしょうか。彼は1万タラントンの借金があったといいます。それは、約6000万日分の賃金ということになる訳ですが、とても返せる額ではありません。しかし、彼からはそんな危機感は微塵も感じられないからです。

ひょっとして、「俺は出来る人間だ」、王から借りた金で行った事業もうまくいっているし、何の問題もない、と思っていたのかもしれない。しかし、蓋を開けてみれば、ずさんな経営でうまくいっていると思っていたのは本人だけで、途方も無い借金に膨れ上がっていたのかもしれません。しかし、彼は決済の時まで、つまり最後の最後まで、審判の時までそれに気づかないのです。「俺は出来る人間だ」と。これは、私たちだって他人事ではないはずです。

誰が私の評価を決めるのでしょうか。自分でしょうか。周りの人でしょうか。社会でしょうか。それとも、神さまでしょうか。私たちは、もっともらってもおかしくない働きをしてきた、もっと評価されてもおかしくない人生を歩んできた、と本当に、本気で堂々と言えるのでしょうか。それは不公平だと。私の働きに見合っていないと。私の人生には低すぎる評価だと。


確かに私たちは、朝一で雇われて、夜明けとともに働けた者かもしれません。1時間しか働かなかったものと同じ賃金なんて納得できない、と正当な文句を言えた人間だったかもしれません。では、明日はどうでしょうか。明日も同じように、朝一で雇ってもらえる保証は一体どこにあるのでしょうか。明日はその人選から漏れてしまうかもしれない。いいえ、来年の今頃は、10年後の今頃は、同じように朝一で雇ってもらえるのか。あんな1時間しか働かない者と同じ扱いにしないでほしい、と言える者であり続けられるのか。

人間、だんだんと年を取っていくと、かつて出来ていたことも出来なくなってしまうこともある。それでも、そう言い続けられるのだろうか。いつも健康でいられるわけでもない。誰からも評価されるとも限らない。だんだんと9時からの者、昼からの者、午後3時からの者となっていくのかもしれない。そして、誰からも雇ってはもらえない、と嘆かざるを得ない日も来るのかもしれない。

この主人の非常識なほどの気前の良さは、何も最後の賃金の支払いだけではないのです。この主人にとっては、最初の人たちとの契約だけで十分だったのかもしれないからです。にも関わらず、この主人は探しにいかれた。誰にも雇ってはもらえない人をも救いたいと動かれた。仕事として雇うには、あまりにも遅すぎた人たちさえも何とかしたいと出かけられた。どんな人の人生も、必ず報われる人生なのだと惜しみなく恵みを注がれた。

誰一人滅びることなく、皆が救われるようにと、生かされるようにと願われた。それが、この非常識な主人、私たちの信じる神さまなのではないか。そう思う。そして、この方のもとだからこそ言えるはずです。私たちは救われている、と。誰でも、躊躇することなく言うことができる。この方によって救っていただけるのだ、と。この変わり者の神さまによって。そうではないでしょうか。

教会花壇 日々草


《 祈り》
・本日の礼拝は敬老主日の礼拝ですが、残念ながら例年通り80歳以上の先輩方を礼拝にお招きしての敬老主日となることはできませんでした。しかし、今日それぞれの場におられるむさしの教会につらなるご高齢の先輩方を、この一年の間も日々豊かにお守りくださり、豊かな祝福をお与えくださいますようにお願いいたします。特に、体調面をお支えください。この新型コロナは特に高齢者を重篤化させやすいと言われていますので、このコロナからもお守りくださいますようにお願いいたします。

先輩方の中には入院治療をされておられたり、体調を崩しておられたり、思うように身動きが取れなくなられたり、と様々な辛さを抱えておられる方も多くおられますので、どうぞ必要な助けをお与えくださり、健やかなる日々をお過ごしになることができますようにもお導きください。健康が守られ、来年の敬老主日には多くの先輩方と共々に祝いの時を持つことができますようにお導きください。

・8月18日に小林憲弥さん・佳奈さんご夫妻にご長男準弥(じゅんや)くんが与えられたという嬉しい知らせが入ってまいりました。本当に感謝をいたします。どうぞ、あなたの守りと祝福の中で準弥くんがすくすくと成長していかれますように、またそのご家庭を豊かに祝福してくださいますようにお願いいたします。また、どうぞご夫妻に子育てに必要な力を豊かにお与えくださり、必要な助け手も備えてくださいますようにお願いいたしす。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン

2020年むさしの教会敬老カード (Design:Kan Yasuma、Church Photo:Reiko Noguchi)