【 テキスト・音声 】2020年8月2日 説教「平和の道具としてください」浅野 直樹牧師

平和の主日礼拝説教



聖書箇所:ヨハネによる福音書15章9~12節

今年も8月の第一主日を、「平和の主日」を迎えました。しかし、正直、例年とは違う印象を私自身は持っています。このコロナ騒動下で、また長梅雨といったこともあるのか、どうも8月が来たというのがいまいちピンとこない感じがしているからです。あるいは、このコロナ禍でそれどころではない、といった思いもあるのかもしれません。しかし、今日、あえて「平和の主日」としてこの日を迎え、たとえひとときであっても平和について思いを巡らすことは、このコロナ一色で見えにくくなっているもう一つの現実に私たちを引き戻してくれるのではないか。そうも思っています。

ミッドウェー沖3,000人。ガダルカナル20,000人。サイパン56,000人。テニアン・グアム26,000人。フィリピン430,000人。硫黄島18,000人。東京大空襲110,000人。沖縄190,000人。広島140,000人。長崎70,000人。もうお分かりのように、太平洋戦争での主な死者数です。もちろん、これだけではありません。第二次世界大戦では世界全体で軍民合わせて6千万人以上とも8千万人以上とも言われています。
今、日本でも徐々に深刻化していますが、新型コロナの世界での感染者数は1760万人、死者数は68万人弱ということですが、連日報道され更新されていく中で、どこか私たちはこのような数字に麻痺してしまっているのかもしれません。

しかし、考えるまでもなく、その一つ一つの数字には掛け替えのない一人の人としての存在・尊厳があり、そのたった一人の人生があるわけです。そして、その人を取り巻く幾多の人々がいる。両親、兄弟、親族がおり、妻、夫、子ども、家族がおり、友人たちがおり、恩師、同僚など様々なつながりを持つ人々がいる。また、それらの人々の人生もある。私自身、自戒を込めてそのことを見失ってはいけない、と思います。ともかく、これほど世界中の人々の心胆を寒からしめる未曾有のウイルス被害よりも圧倒的に人命を奪っていったこの災厄は、まさに人類の愚行としか思えません。

では、なぜ人類はこのような愚かなことをしてしまうのか。繰り返してしまうのか。あるいは、止められないのか。もちろん、私のような素人が明確な答えを導けるものではないでしょう。しかし、たとえ素人であったとしても、明確な答えにたどり着けないとしても、一人一人が問うことは、問い続けることは大切なことではないか、と思います。

教会に咲いたカンナの花、棕櫚の葉、バラとゼルフィニウムなどー平和を祈ってー


教会の庭に咲いたカンナ


今年も戦争に関わるいくつかの本を読ませていただきましたが、その一つに興味深いことが記されていました。なぜ日本はアメリカとの開戦に踏み切ったのか。当時、国民の誰もがアメリカとの国力の差を理解していた、と言います。まともに戦えば負けることは明らかだった。なのに、なぜ。もちろん、いろいろな理由が考えられるのですが、その一つとして、当時の中堅将校たちの心情ということが取り上げられていたのです。

当時40歳代の軍の中枢にいた将校たちが、みな少年期にあの日露戦争の勝利を経験していた。その幼心に強烈に焼き付けられた成功体験といって良いと思いますが、その体験、経験が対米戦という大きな舵取りを左右したのではないか、と言います。そのことをこのように記しています。「こうして少年時代に刻みつけられた華々しい勝利の記憶が、長じて軍人を志す大きな動機となり、軍人になってからは模範的な戦いとして常に反芻し続ける対象となったことは、疑いありません。

そして、記憶はいつしか信念になる。一対一〇もの国力差のある大国ロシアに勝ったではないか、それを思えば、どこが相手であろうときっと勝てる、という信念。日本海海戦のような大胆な短期決戦を挑めば、きっと勝てる、という信念。戦えば勝つ、という信念」。彼らばかりではない。恐らく当時の日本中を覆っていたこの成功体験。これが、振り返ってみれば禍となったことが分かる。現代でも良くこの「成功体験」といったことが言われますが、案外考えものなのかもしれません。

少なくとも、ことこの戦争ということにおいては、猛烈な失敗体験があったからこそ70年以上平和を保てていると言えるのかもしれないからです。どんな記憶を持ち、またそれをどのように伝えていけるのか。どんな記憶を信念とすべきなのか。戦後70年が過ぎ、急速に戦争の記憶が薄れているといわれる現代において、このことはもう一度問われなければならないのかもしれません。

あるいは、現代はかつてのような帝国主義的な、つまり、ある国を武力で襲い植民地化してしまうような戦争は起こらないだろう、とも言われています。コストが割に合わないからです。確かに、私自身もそう思います。では、戦争の危険は去ったのか、といえば、もちろんそうではないでしょう。「安全保障上」というのがキーになるからです。我が国の首相も度々「国民の生命と財産を守る責任がある」と言ったりしますが、それが国の責務だと考えられるからです。

かつて日本は、朝鮮半島や中国東北部(満州)に進出していきましたが、もちろん、前述の帝国主義的傾向は否めませんが、もう一つの大切な要因は当時の仮想敵国であったロシア・ソ連から日本を守るための安全保障上の必要性からでした。また、先ほどは、アメリカとの無謀な戦いに及んだ一つの要因についてお話しましたが、このアメリカとの戦争も安全保障上必要だと考えられたからです。

現代においてもそうでしょう。私たち近隣諸国からすれば大変迷惑な話ですが、北朝鮮がなぜ核開発、ミサイル開発に邁進するのか、といえば、そうでもしなければ国は守れないとの安全保障上の必要性からです。中国が南沙諸島に進出したり、また東シナ海でも勢力を拡大しようとするのも、安全保障上の問題です。あるいは、ますます米中関係が悪化していく中、大統領選を前に、一発逆転のためにトランプ大統領が戦争をしかけるのではないか、といった噂も飛び込んで来ますが、もしそうだとしても、それは安全保障上の問題ということになるでしょう。

この日本でも、安全保障上の問題から敵基地攻撃論(先制攻撃論)が再燃しているとも言われています。

このように、それぞれの国に安全保障の理屈がある。どの国も、「自国民の生命と財産を守るため」とうたいつつ武力行使に出る危険性がある訳です。なぜか。恐れがあるからです。恐れが不安を掻き立てる。そして、不信感を募らせていくことになる。それが、限界点にくると、やられる前にやってしまえ。自分の身を守るためだ、となる。それは何も、国対国の安全保障といったことに限らないでしょう。人種差別もそうかもしれない。

どこかで恐れている。自分たちの優位性が、権利が、権益が脅かされていると感じる。だから、暴力に訴えてでも守ろう、となる。その恐れ、不安、不信があらゆる差別、対立の火種となって、私たちの心を覆い尽くしていってしまうのかもしれません。

以前学んだところですが、聖書にはこんな言葉があります。「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。……体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐るな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。

だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」(マタイ10:26~31)。人を恐れるのではなく、神さまを恐れなさい、とイエスさまはおっしゃいます。それも、闇雲に恐れるのではありません。神さまを畏れ敬うのです。神さまに出来ないことはない。神さまは必ず私たちを救ってくださるはずだ。

たとえ、それが現実の世界では手に取ることができないとしても、神さまの愛は私たちから決して離れることなく、永遠の命、世界へと導いてくださるはずだ、と信じ、畏れ敬うことです。この神さまを恐れることこそが、私たちの様々な恐れ、不安、不信から解き放ってくれるはずです。愛は恐れに打ち勝つからです。そういう意味でも、私たちの信仰生活とは、何よりもこの恐れから救われていく、ということなのでしょう。

ですから、私たちキリスト者としての平和への貢献は、第一に宣教だと思うのです。神さまから来る平和を証ししていくこと。恐れに打ち勝つ道を指し示していくこと。そうではないでしょうか。

「小鳥への説教」(画:ジョット、1305年頃)


また、今朝の旧約聖書の言葉にも思いを向けていきたいと思います。こうあります。「主は多くの民の争いを裁きはるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない」。ここで言われていることは、単に武器を捨てるということではありません。武力を放棄するのではなくて、鋤や鎌に変える、ということです。つまり、生活の糧に変えていく、と言っても良いのではないでしょうか。

世界中を襲った新型コロナの猛威の前に、想像以上に世界経済は脆弱だったかもしれない、との指摘があります。なぜなら、感染症の拡大防止として最も有効なロックダウン(都市封鎖)が経済的に数ヶ月ももたなかったからです。

世界最大の軍事大国であるアメリカの国防費はダントツの約70兆円。中国は約20兆円。ロシアは約7兆円。日本は約5兆円。世界全体では約200兆円が年間予算として立てられています。これらの剣や槍が鋤や鎌に変えられたとしたら。それでも、焼け石に水だといった意見もあります。非現実的な理想主義だと言われるかもしれません。もちろん、分かっています。

それでも、私たちは今、コロナ後の世界の扉の前に立たされている。このコロナによって、今までと同じではいられない、と言われます。では、新しい世界をどう作っていくのか。少なくとも、民主主義に生きる私たちにとっては、国民一人一人がその新しい世界の創造に立ち会っていけるはずです。いいえ、しっかりと意志を持って立ち会っていかなければならないでしょう。

聖痕を受けるアッシジの聖フランチェスコ(ジョット) Giotto – Sankt Franciskus stigmatisering*注1


恐れと不安と不信の中で、今まで通りの剣と槍を大量に造り続けていく世界を維持、あるいは発展させていくのか。そうではなくて、少しでもそれらを鋤や鎌に変えていって、格差、貧困、様々な不条理に生きる人々と生活の糧を分かち合っていく、そんな世界を志向していくのか。私たち一人一人にかかっている。また、そういった思いが反映される世界であって欲しいと思う。

私たちはキリスト者です。キリスト者として平和にどう貢献していけるのか。まずは祈ること。神さまの御名が正しくあがめられ、御国がくるように、御心が地上でも行われるように、世界中の人々に必要な糧が与えられ、互いに赦しあえるように祈ること。そして、恐れ、不安に打ち勝つ平和の主の福音を一人でも多くの人々に届けていくこと。そして、キリスト者である一市民として、この世の業、民主主義にもしっかりと参画していくこと。かつての経験を忘れずに、引き継いで、新たな世代にバトンを渡しながら。そうではないでしょうか。



祈 り

・本日は「平和の主日」の礼拝を持つことができましたことを心より感謝いたします。私たちは決して忘れてはならないと思っています。侵略戦争によって、多くの国の人々を苦しめたことを。無謀な戦争に突き進んで、多大な犠牲を払ったことを。また、その間、政府が国民に嘘の情報を流し続けてきたことを。首脳部のせいなのか、多くの戦死者が餓死によって命を落としていったことを。一度起こしてしまった戦争は、簡単には終わらせられなかったことを。私たちはそのあまりに大きな犠牲のゆえに、ようやく気づきました。

もう二度と戦争を起こしてはいけないのだと。戦争などこりごりだと。しかし、残念ながら、今だに戦争はなくなっていません。戦争の不安も消え去ってはいません。私たちは、どうすれば良いでしょうか。まずは、この記憶をなくさないことではないでしょうか。

しっかりと記憶をつなげていくことではないでしょうか。そして、あなたから平和への道を学び続けることではないでしょうか。どうぞ、二度と悲劇を繰り返すことのないように、今ある争いも速やかに終息していきますように、そのことを祈っていくことができるようにもどうぞ導いてください。

・都内ばかりでなく、全国的に新型コロナウイルスの感染が広がっています。このまま何の対策もとられないと、8月には目を覆いたくなるような現実がやってくるとさえおっしゃる専門家の方もおられます。確かに、経済との両立という非常に難しい舵取りが求められていますが、どうぞ良い知恵を与えてくださり、感染の広がりを、特に重篤化しやすい方々への広がりを抑えていくことができますようにお導きください。

まだ病床数に余裕がある、といった意見も出ていますが、医療の現場ではすでに悲鳴が上がっているようです。志高く医療の現場で頑張ってくださっていますが、それでも限界があるでしょう。これ以上の急激な広がりは、医療の現場がもたなくなるのではないか、と心配になります。どうぞ、経済的なことも含めて適切な援助の手が与えられて、医療の現場が守られていきますように、どうぞお助けください。

・大きな病気をされておられたり、様々な困難、課題を向き合っておられる方々が私たちの仲間にも多くおられます。どうぞ、憐れんでくださり、それぞれの祈りに応えてくださいますようにお願いいたします。

主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン

*注1.キリストが受難の時に受けた両手、両足、脇腹の傷(聖痕)を聖フランチェスコに授けたとの聖譚がある。