【音声版・テキスト】2020年6月28日 説教「キリストと一つ」浅野 直樹牧師

聖霊降臨後第四主日礼拝
聖書箇所:マタイによる福音書10章40~42節



前回、お話しましたように、先週の福音書の日課は、大変厳しい箇所だったと思います。その底辺には、「迫害」ということが流れている、といったこともお話しました。その中でも、やはり私たちにとって大変気になったのは、34節以下の言葉だったのではないでしょうか。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。

平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる」。先ほどの「迫害」という言葉を使うならば、家族の者から迫害されるようになる、ということでしょう。

先週も「歴史」ということをお話しましたが、この家族から迫害されるといった事例も枚挙にいとまがない訳です。

静岡時代に親しくしていただいた救世軍の先生からこんな話を聞いたことがあります。その頃すでに引退をされていましたので、昭和30年代のことでしょうか。その方の夫人は会津の旧家の出だったようです。女学校時代から救世軍の教会に通い、信仰を養って来られましたが、ある時、神学校(救世軍では士官学校と言いますが)に行くことを決意されました。それを知った家族は大反対をする。家族どころではない。親族皆が大反対をし翻意を迫った。

しかし、この方の決意は変わらず、神学校に行く道を選ばれたのですが、家族からは勘当されてしまったそうです。私はその時、大変興味深くその話を聞いていましたが、そんな例はおそらく少なくなかったでしょう。イエスさまを信じている、従おうとしているというだけで家族の中に仲違いが生まれてしまう。波風が立ってしまう。そんな現実が、おそらく今でもある。

特に、日本のように、家族の中で信仰者は自分一人だけ、といった状況ではより多く起こっているのかもしれません。そういった家族の中で信仰者はどんな態度をとるのか。もちろん、いろいろと考えられるでしょうが、大きく分けると、「脅迫」と「妥協」と言えるのではないでしょうか。他の家族の者に信仰を強要する。信仰の名の下に家族を断罪する。高圧的な態度で自分を正当化する。

自分を守るためにも、どこか攻撃的になってしまう。それも、信仰を大切にすればこそ、で分からなくもありませんが、しかし、多くの傷を生んでいることも事実です。30代の頃学生会を担当していましたが、そういったキャンプに参加する学生の幾人かは、信仰者の親から受けた、ある意味パワハラ的な言動によって信仰的な事柄や教会がトラウマになってしまっていました。

また、その傷は根深いようで、大人になってもそういった子どもの頃に受けた傷が信仰生活や教会生活のみならず、様々な現実生活にも暗い影を落としている現実も見えて来ます。
おそらく、それよりも多いのが「妥協」といった態度でしょう。家庭に影響を与えない程度に信仰生活を守ろうとする。それは、信仰よりも̶̶信仰とはイエス・キリストに従う、ということですが̶̶家族の方が優先順位が高いからです。家族関係が第一。それも良く分かる。私自身、このどちらも…、「脅迫」も「妥協」も身に覚えがあります。

つまり、どこかで、この信仰…、イエス・キリストに従うことと家族を大切にすることとが相容れないことだと分かっているからです。もちろん、聖書は家族を大切にすることも語っている。それも神さまの御心だと私たちは知っています。ですから、それに従おうともする。しかし、いざという時、どちらかを選ばざるを得ない時が来ることを、「わたしをとるのか、わたしたちをとるのか」と迫られるようなものでもあることを知っているからこそ、その決断がなかなかつけられなくて、どこか逃げ腰に「脅迫」と「妥協」という当面は安全と思える世界へと逃げ込もうとしているのではないか。そんなふうにも思えるのです。

ともかく、キリスト教信仰とはそういうものです。何よりも、イエスさまご自身がそれらを経験して来られた。本来ならば、誰よりも分かってくれる、理解してくれる、賛同してくれるはずの家族が、「気が狂った」と心配になって、その活動を辞めさせようとしたからです。もちろん、そんな家族にも言い分がある。イエスさまを心配したからこそそうしたのだ、と。愛すればこそ、なのだと。そもそも、信仰とは二分してしまうものなのです。

信じるか、信じないか。受け入れるか、拒絶するか。賛同するか、反対するか。従うか、従わないか。確かに、信仰の持つ性格からしても、そういったことが自然に起こるのです。それも、事実。しかし、このイエスさまのお言葉は、そういったことが自然に起こってしまうから仕方がないよね、ということだけでもないように思うのです。なぜならば、ここでイエスさまは積極的に、「もたらすために」「させるために」と語っておられるからです。そして、こうも語られる。

「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない」。大変厳しい言葉です。先ほど言った優先順位ということです。ここで優先順位を変えろ、とおっしゃる。家族ではなく、わたしのことを優先順位の第一位にしろ、とおっしゃる。だから、不和が起こる。ですから、積極的に不和を起こそうとしているかのようにも聞こえる訳です。

しかし、そうではありません。たとえ、そのことのゆえに不和が生じてしまうことが起ころうとも、わたしに従うことを第一にしろ、とおっしゃっておられるのです。重要なのは、そのことです。では、イエスさまはそのことを要求するあまりに、家族のことなどどうでも良いと思っておられるのか、といえば、そうではないでしょう。イエスさまはこう言われる。「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」。

「命」は私たちにとって最も大切なものです。ですから、この場合、最も大切なものとして「家族」と言い直しても良いのではないか。つまり、自分の家族を必死に得ようとしても、それだけでは失ってしまうかもしれませんが、家族よりもイエスさまのことを優先することが、実は家族のためにもなるということではないか。そう思うのです。私自身、自分の家族…、妻や子どもたちを大切にしているつもりです。

彼らのためには、出来ることは何でもしてあげたい、とも思っている。しかし、私は明日死ぬかもしれない。そうなると、家族は路頭に迷います。助けてあげたいのに、何一つ助けてあげられない。私自身、そんなちっぽけな人間だと痛感する。本当に家族のことを思うならば、どなたに委ねることが最善なのか。そんなことを、最近はつくづく考えてしまいます。

ですから、家族よりもイエスさまを優先させるということは、先ほど言った「脅迫」とは全然異なるものであることが分かると思います。それらは、結局は信仰の名を借りた独りよがりな自己満足に過ぎないからです。イエスさまの思いは家族をも大切にすることです。しかし、それでも、いいえ、その上で、わたしにまず従え、とおっしゃる。

イエスさまに従うということは、家族をないがしろにしたり、断罪したり、喧嘩腰になることではありません。逆に「妥協」して信仰者らしい振る舞いをしないことでもない。イエスさまのお言葉に従って忍耐し、祈り、赦し、愛を貫いていくことでもある。

柔和な心で穏やかにイエスさまの恵みを証ししていくことでもある。そういったことに反感を持たれながらも、たとえ相手が変わらなくても、なおも従っていけるようにと祈りつつ志を立てていく。そうではないか、と思うのです。

『信仰の寓意』 ヨハネス・フェルメール 1670年〜1672年頃制作。メトロポリタン美術館蔵 *1


最初に言いましたように、先週の日課は「迫害」といったことが底辺にあった訳ですが、もう一つ大切なことは、「宣教」ということでした。それは、10章16節にこうあるからです。「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」。

ですから、この「宣教」となんらかの「迫害」…、妨害工作や家族をはじめとした人々との不和が切っても切れない関係として描かれている訳です。そんな厳しい宣教の現実の中にも、好意的な人々がいてくれると言われている。それは、本当に心強いし、嬉しいことです。それは、私たちにも良く分かることです。迫害のない現代でも、正直ドキドキします。案内一つ配るにしても、どんな反応が返ってくるのか、と不安になる。

大方は、一応日本人らしい礼儀正しさから受け取ってくれます。時には、あからさまに拒否されたり、厳しい一言が返ってくることもある。私ばかりではない、多くの人々が経験してきたことでしょう。そんな中でも好意的に接してくれる人々がいます。むかし教会に行ったことがあるのよ、とか、ミッション系の学校に通っていたの、とか、心和む反応をしてくださる方々もいる。そして、実際に集会等に来てくださることもある。

本当に嬉しいし力づけられます。そういったことがなければ、心が折れてしまうと言っても言い過ぎではないと思います。本当にそうです。だから、がんばろうという気にもなれる。しかし、今日の箇所では、もっと大切なことがある、というのです。それは、次の言葉です。

「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れる、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである」。私たちは気づいていないかもしれませんが、イエスさまと一つとされている、ということです。神さまと一つとされている、ということです。孤独に戦っているように思えても、そこにはイエスさまが、神さまが共にいてくださる。

ドキドキしながら、不安になりながらしているときも、ちょっとした喜びに心躍らせている時にも、手厳しい反応にがっかりしているときにも、もう二度とこんな気持ちを味わいたくないと思っている時にも、心からってなかなか思えなくて、仕方なくと思っている時にも、イエスさまは、神さまは共にいてくださる。

家族の中でも思うようにいかなくって、イエスさまに従おう従おうとすればするほど、イエスさまの愛に生きよう生きようとすればするほど、かえって浮いてしまったり、孤立感を感じてしまったり、軋轢を生んでしまうような時にも、イエスさまは、神さまは共にいてくださる。そして、この私に水一杯でも飲ませてくれる者に、必ず報いてくださると約束してくださっている。

たとえ家族がそんな大層な思いでなくても、キリスト者である私を相変わらず家族として迎え入れてくれているということは、わたしを…、イエスさまを、神さまを受け入れていることと同じことなのだ、とさえ言ってくださっている。だからこそ、なのです。単に、わたしに従え、というだけの方ならば、私たちは付いて行けない。やはり家族は捨てられない。

しかし、この私のことばかりでない、私たちの家族のことも、私たちのことを受け入れてくれる人々のことも、ちゃんと考えてくださっている方だからこそ、私たちは何よりもこの方のことを第一としていけるのではないか。そう思うのです。

《 祈り 》
・梅雨の時期も3分の1ほどが過ぎましたが、今年も局地的な豪雨が続いています。これも温暖化の影響なのか、以前の梅雨とは異なり、降る時には猛烈な雨が降り、災害にまで発展してしまいます。昨日から九州地方では猛烈な雨が降って、災害が心配されていますが、どうぞ大きな被害が出るような災害とならないようにお守りください。このところ毎年のように深刻な被害が出てしまっていますが、どうぞ憐れんでくださいますようにお願いいたします。

・このところ都内では50名前後の新規感染者数が出ており、心配しています。経済活動との両立という難しい時代に入っていますが、以前のように医療機関が逼迫するような事態にならないように、それぞれが自分たちができる対策をしっかりしていくことができるようにお導きください。

世界では本当に深刻な状態が続いていますが、特に医療機関にも十分にかかることのできない貧しい方々から多くの犠牲者が出ているとも聞きます。どうぞ憐れんでくださいますようにお願いいたします。

・アメリカをはじめ、あちらこちらの国々・地域で、人種差別に端を発して、様々なことが問い直されているとも聞きます。日本人の中にもアジアの方々に対する差別意識や優越思想が根強くあるようにも感じています。過去の過ち、現代の課題、問題意識にも真摯に向き合い、少しでも御心に叶った判断を一人一人が志していくことができますように、どうぞ導いてください。

・現在、紛争下にある国々や貧困者の多い国々などの食料不足がより深刻化していると言われています。それは、この新型コロナの影響で物資の移動が困難になったり、また、感染の危険から職員を守るための人員不足などによるとも言われています。全世界規模のパンデミックで、それぞれの国でも余裕がないのでしょうが、どんどんと置き去りになってしまっている国々、人々を思うと胸が痛みます。私たちができることといえば、ほんのわずかなことですが、それらの人々のためにも祈りつつ、小さな援助の業を行うことができるように。また、援助する国々、団体も多く起こされますように、どうぞ憐れみお助けください。

主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。

アーメン



*1ウィキペディア:『信仰の寓意』ヨハネス・フェルメール