ドストエフスキー 『悪霊』

佐藤 義夫

この小説(1871-72)はロシアの革命家ネチャーエフが起こしたリンチ殺人事件を下敷きに作られている。小説のタイトルはルカによる福音書の第八章で、悪霊にとりつかれた豚が湖に入って溺れ死ぬという記述から取られている。

熱狂的革命家のピョートル・ヴルホヴェーンスキー(ネチャーエフがモデル)が「五人組」の革命的秘密結社を作って革命思想を広めるが、転向した仲間の青年、シャトーフを射殺してその手足に石の重しをつけて池に沈めてしまう。ピョートルは「五人組」の中の一人、キリーロフ(人神論の信奉者)にこの事件の責任を負わせる遺書を書かせて自殺に追いやり、自らは町から逃亡してしまう。

一体、何が悪霊なのかと言えば、無神論的革命理論ということになるだろう。ドストエフスキーが1870年10月にマイコフ宛の手紙で、以下のように言っている、「(福音書と)そっくり同じことが、わがロシアでも起こりました。悪霊たちはロシアから出て行って、豚の群れの中に、つまりネチャーエフやセルノ・ソロヴィヨヴィチといった連中の中に入ったのです。彼らは溺れてしまったし、でなくても確実に溺れ死ぬでしょう。(中略)友よ、銘記してくださいー自身の国民と国民性を失う者は、祖国の信仰と神をも失うことになるのです。さて、言ってみれば、これが私の長編のテーマにほかなりません。(江川卓著『ドストエフスキー』岩波新書)。ピョートルのような、神を恐れない無神論者たちがユートピア社会の実現のために革命を起こそうとしても、失敗に終わるのをドストエフスキーは見抜いていた。

無神論と言えば、『白痴』(1868)の中でムイシキン侯爵は、無神論とその兄弟である社会主義が、反キリストを説くローマ・カトリックから生み出され、キリストのかわりに暴力をもって人類を救おうとしている、と言っている。ドストエフスキーは、ロシアでキリスト信仰を復活させることが、無神論や社会主義の隆盛に対する防波堤になる、と考えていた。

 

(日本福音ルーテル教会機関誌『るうてる』1998年 3~8月号に掲載されたものです)