【音声・テキスト 】2020年5月17日 説教「いつも共にいる」浅野直樹牧師

復活節第六主日
聖書箇所:ヨハネによる福音書14章15~21節



 

今日の箇所には、「聖霊」(「弁護者」、あるいは「真理の霊」という言い方でしたが)が登場して参りました。
早いもので、今年もあと2週間で聖霊降臨祭(ペンテコステ)を迎えます。とは言いましても、今の状態だと、皆で集まって祝うというのは、ちょっと難しいかもしれません。たとえ非常事態宣言が解除されたとしても、「すぐにでも」とはなかなかいかないと思う
からです。

思い起こせば、このような形式での礼拝となったのは3月29日の礼拝からでした。その後、受難主日からはじまる受難週、聖金曜日礼拝、復活祭、そして今度は聖霊降臨祭と、教会としてはもっとも大切なそれらの記念日に共々に集うことができないというのは、まさに前代未聞の非常事態と言えるでしょう。多くの方々から「礼拝に行きたいのに」といった声が聞かれるように、これはまことに辛く残念なことです。

しかし、そのような中にあっても、聖霊はいつも働いていてくださいます。共々に集うことができずにいても、聖霊の働きはいっときたりとも止まっていることはありません。私たち一人一人の心の中に、時の流れ・歴史の中に、世界の中に、いちいちそれらを見聞きしたり、感じ取ることができなくとも、聖霊の働きは確かにある。そのことを、私たちは忘れてはいけないのだと思います。
今日の日課の中で、このようなイエスさまの言葉が記されていました。



「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」。本当に慰めに満ちたことばだと思います。この「みなしごにはしておかない」の「みなしご」という言葉を聞くと、私の世代の方々は『みなしごハッチ』を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。正式には『昆虫物語 みなしごハッチ』といい、タツノコプロ制作のアニメーションです。調べてみますと、最初に放送されたのは、昭和45年とありますので、私が見たのはおそらく再放送だったと思います。

昆虫の世界が舞台で、主人公は「ハッチ」というミツバチの子どもです。この「ハッチ」、まだタマゴだったころ、自分たちの巣がスズメバチに襲われてしまい、お母さん(女王蜂)と生き別れになってしまいます。

そして、数々の冒険をしながらお母さんに会いに行く、というのがストーリーになるのですが、とにかく、いろいろとひどい目に合う。命の危険にも合う。そういった時、寂しくなって「お母さん」と涙を流すわけです。そして、ついにお母さん(女王蜂)に合うことになる。「ハッチ」も女王蜂もワンワンと泣き出します。その再会シーンに子ども心ながらに胸が熱くなったことを覚えています。

この物語は、「ハッチ」が数々の冒険の中で成長をし、立派になってお母さんと再会するといった、ちょっとした成長物語になっていますが、物語冒頭の「寂しさ」「不安感」「喪失感」などといったものが、この「みなしご」といった立ち位置には付いて回るものなのでしょう。私自身の記憶を遡っても「まいご」といった記憶が無いもので実感が乏しいのですが、自分の子どもたちが迷子になってしまったときに、見つけた時の「安堵感」の表情は、今でもよく覚えています。この「みなしご」と「まいご」とを同列に置くことはできないと思いますけれども、その解決における「安堵・安心感」といったことには変わりはないのだと思うのです。



先週は、そのことには触れませんでしたが、先週の日課も、また今週の日課も、いわゆる「告別説教」と言われる箇所です。別れの説教、別れのことば…。イエスさまは直ぐにでも十字架で死んでしまわれることになる。そのことを深く自覚されていたイエスさま
は、また愛する弟子たちを残して旅立たなければならないことを案じておられたイエスさは、時間が許す限り、できるだけ弟子たちを整えようとされて、力付けようとされて、この最後の言葉を語っていかれたワケです。

弟子たちも、そんな雰囲気を察していたのでしょうか。あるいは、そのお言葉の端々からも伝わってきていたのかもしれない。だから、先週の日課である14章1節で「心を騒がせるな」と言われたわけです。弟子たちの心がざわついていた、騒いでいたからです。不安と恐れで、心が波立っていた…。

イエスさまが死んでしまう。イエスさまと別れなければならない。これは、弟子たちにとっては、まさに「みなしご」になるような思いでした。なぜならば、イエスさまこそが安心の源だったからです。子どもにとって親とはどんな存在か。もちろん、親にもいろい
ろな務めがあるでしょうが、まず第一は子どもの存在を守るということでしょう。この子が元気に生きてくれるだけで良い。

幼い子を持つ親は、大抵そう思うものです。そんな子どもたちも大きくなると、生きることが、成長することが当たり前のように感じられて、その存在自体だけでは物足りなくなり、変な期待や欲を寄せるようになる。すると、本来の「居てくれるだけで嬉しい」、「生きてくれるだけで良い」という存在自体の有り難さが薄れてしまい、いろいろと親子の対立も起こってくるようになる。

ともかく、まだ幼くて、力の加減次第ではすぐにでも死んでしまうほどに儚い存在である赤子の頃は、とにかく「生きること」だけを願う。その存在自体が尊くて、愛らしく思う。それが、親心。そのために、昼夜を問わず、身を削って必死になって子育てをするワケです。だからこそ、子どもは安心する。自分を大切に生かし、育ててくれる人たちだからこそ、信頼して、安心して委ねることができる。不安なときにもいつも側にいてくれるから、悲しい時には慰めてくれるから、怖い思いをした時にはきゅっと抱きしめてくれるから、困った時にはいつも助けてくれるから、温かく、微笑んで見つめてくれるから、安心できる。

それが、ある意味、今までの弟子たちの姿でもあったワケです。イエスさまがいつもいてくださるから大丈夫。安心できる。でも、そのイエスさまがいなくなってしまわれる。どこかに行ってしまわれる。どうしよう。弟子たちの困惑も当然でしょう。あるいは、それは、ここにいたイエスさまの直接的な弟子たちに限らないのかもしれません。

イエスさまが天に昇られた後に出来た教会は、この弟子たちのようには直接的にはイエスさまにお会いすることなどできないからです。もちろん、私たちだってそうです。イエスさまがいない。不在である。いつも共にいてくださると約束してくださったのに、とてもそうは思えない。不安だ。この先、どうしたらいいのだ。

このヨハネ福音書が記されたヨハネの教会は、当時、迫害に遭っていたと言われています。この教会の人たちにとっては、この「みなしご」はまさに自分たちのことを指していると思ったのかもしれません。いつも一緒にいてくださると約束してくださったではあり
ませんか。どうしていてくださらないのですか。答えてくださらないのですか。助けてくださらないのですか。慰めてはくださらないのですか。癒してはくださらないのですか。

私たちのことを放って、どこに行ってしまわれたのですか。確かに、そうです。弟子たちだけではありません。私たちもまた、「みなしご」になってしまったと思える時がくる。イエスさまはどこかに行ってしまわれて、私たちは一人、不安の中に取り残されてしまった。そうとしか思えない時もある。あの『FOOTPRINTS』の詩人のようにです。「ある夜、わたしは夢を見た。わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。

これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。そこには一つのあしあとしかなかった。わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。このことがいつもわたしの心を乱していたので、わたしはその悩みについて主にお尋ねした。

『主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、わたしと語り合ってくださると約束されました。それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、ひとりのあしあとしかなかったのです。いちばんあなたを必要としたときに、あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、わたしにはわかりません』」。

私たちにも、この詩人の気持ちが良く分かると思います。いつも一緒にいてくださると約束してくださったのに、「みなしご」になってしまったかのような気持ちです。しかし、イエスさまはこう語られます。「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」。いっとき…、そう、いっときはイエスさまがいなくなってしまわれたかのように思えるような時が来るでしょう。どこかに行ってしまい、一人残された「みなしご」のような気持ちに、不安な気持ちに苛まれるような時もあるでしょう。

しかし、イエスさまはそうはさせない、とおっしゃいます。「みなしごにはしておかない」とおっしゃいます。また「戻って来る」とおっしゃいます。しかも、その間でさえも、ほんのいっときの間であっても、「みなしご」にしておかないように、聖霊を遣わす、とおっしゃってくださる。イエスさまのことを教え、思い起こさせる聖霊を、あなたがたのところに、その心の中に遣わす、とおっしゃってくださいました。だからこそ、あの詩人も気づけたのです。

「主は、ささやかれた。『わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に。あしあとがひとつだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた』」(マーガレット・F・パワーズ)。聖霊がいてくださったからこそ、聖霊を遣わしてくださったからこそ、見えていなかったものが見え出し、気づき得なかったことに気づくことができた。あの時も、この時にも、確かにイエスさまは共にいてくださったのだ、と。私は決して「みなしご」ではなかったのだ、と。それは、本当に幸いなことです。



人生を根底から変えてしまうほどに。あの「ハッチ」が夢にまで見たお母さんと出会えた喜びのように。私は、第一ペトロ1章8節以下の言葉が大好きです。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです」

これほど、聖霊の働きを言い表しているものはないのではないかと思っています。この目で見たことがなく見てもいないのに、信じ、愛し、喜んでいる。聖霊によってイエスさまを知って、その約束を信じて、救われて、心から安心できているからです。

私は、決してひとりぼっちではない。「みなしご」ではない。いつでも、どこにでも、たとえ死の先にあってもイエスさまが共にいてくださる。これほど心強いことはない。そう思える。信じていける。それは、私たちの掛け替えのない財産だと思います。

 

《祈り》
・全国的には新規感染者数も減って、非常事態宣言が解除になった地域も多いようですが、気の緩みから第二第三の波も心配されています。一人一人が「うつらない。うつさない」といった自覚をもって、これからの生活においても注意していくことができますよう
に、どうぞお導きください。また、医療体制の脆弱なアフリカ諸国やインドなどでも非常な勢いで広がっていると懸念されています。

もともと衛生面においても、また栄養面においても、十分とは言えない方々も多くいらっしゃいますので、どうぞ憐れんでくださり、必要な援助も行われますようにお願いいたします。

あるいは、難民キャンプなどの感染リスクも非常に懸念されています。弱い立場の人々に、特にこういった疫病は襲っていきますので、どうぞお助けくださいますようにお願いいたします。また、そういった中で懸命に働いておられる方々もお守りくださり、遠く離
れた私たちですが、私たちにできることもしていけるように、お導きください。

・新型コロナに感染され、治療されておられる方々に癒しを、亡くなられた方々のご家族には慰めをお与えください。

・医療従事者の方々をお守りください。必要な物資もお与えください。

・職を奪われてしまった方々、経済的に厳しい状況に陥っておられる方々が多くいらっしゃいます。必要な手立てが速やかに行われますようにお導きください。

・緊急事態宣言の延長のために、まだ学校に行くことのできない学生、子どもたちが多くいます。どうぞ、それらの子どもたちの学ぶ機会が奪われませんように。将来に不安を抱えることがありませんように、どうぞお助けください。

・本当にこのコロナの問題で、世界中で人の悪感情が噴出しています。それにより、対立が起こったり、また傷つけ合うことが起こってしまっていますが、どうぞ憐れんでくださり、思いやりの心を取り戻すことができますようにお導きください。また、虐待やDV被
害者などもお救いくださいますようにお願いいたします。

イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。

アーメン



 ※『奇跡の漁り』(ロイヤル・コレクション所蔵、ヴィクトリア&アルバート博物館展示)
ラファエロ・サンティ1515年