【テキスト・音声 】5月3日(日)10:30  説 教:「イエスは良い羊飼い 」浅野 直樹 牧師

復活節第四主日 礼拝説教(むさしの教会)
聖書箇所:ヨハネによる福音書10章1~10節




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※礼拝始めに音声不具合のため6:30分からご覧ください。

 

近頃はテレビで動物、あるいはペットの映像がよく流れているように思います。このところの外出自粛のせいでストレスが溜まっていたり、気分が落ち込みがちになっていることを見越してのことかもしれません。確かに、可愛らしいペットの、動物の仕草を見ると、自然に目尻が下がり、癒されます。

皆さんの中にもペットを飼われている方、飼われていたことのある方がいらっしゃることと思います。私自身は田舎に住んでいたこともあり、また母が動物好きだったこともあって、さすがに「羊」は飼ったことがありませんでしたが、幼い頃から身近に動物(ペット)がいるのが、ある意味当たり前のことでした。

鶏、うさぎ、錦鯉、金魚、かめ、セキセイインコ、犬、猫…。うさぎに食べさせるために、大量のクローバー(シロツメクサ)を採りに行ったことを覚えています(田植え前の田んぼは、春先一面にシロツメクサが生えていました。まさに緑の絨毯でした)。

セキセイインコは、器用に自分の名前を呼んでいました。もともとは犬派だったのですが、猫を飼ってからは、いわゆる「猫可愛がり」が良く分かるようになりました。本当に可愛かった。それら動物、生き物を見ていると、本当に心が穏やかになり、「ほっこり」したことを覚えています。

*1. Anton Mauve – The Return of the Flock, Laren


今日の福音書には、羊飼いと羊が登場してまいります。もちろん、羊飼いはイエスさまのこと、その羊たちは私たちのことです。羊飼いであるイエスさまにとって、私たちは、ひょっとして心温まる、ほっとする、「ほっこり」できる存在なのかもしれない。いつまで見ていても飽きない。微笑ましい。そんなふうにも思えてきます。

そんな羊飼いであるイエスさまですが、この羊飼いは非常にユニークな方でもあります。10節「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」とあります。確かに、羊飼いにとって自分の羊は大切な存在でしょう。ここに出てくる盗人や強盗とはワケが違う。盗人や強盗にとって羊とは、「獲物」でしかないからです。他人(ひと)から奪っては、売って金に変えてしまう。

ただ、それだけの存在です。商売の道具でしかない。しかし、羊飼いにとっては、そうではないでしょう。自分の大切な財産なのですから、一所懸命に養い、育て、手当てをして、大切にしていったはずです。愛情を注いで、家族同様に育てて行った。しかし、家族とは違います。時には、その大切な羊を売ることもあったでしょう。屠ることもあったかもしれない。家族のために、です。そうです。

いくら大切に育ててはいても、羊たちは、羊飼いにとっては生業なのです。生きていく、生活していくための手段なのです。つまり、自分の、自分たちの「羊」でしかない。いくら心優しい羊飼いであっても、その関係性は変わることはないでしょう。しかし、ここに、一人ユニークな羊飼いがいる。自分のために羊を飼い、養い、育て、手当てをするのではなく、羊のために、羊自身のために、その羊たちが命を得るために、しかも豊かに得るために飼っていく羊飼いがいる。しかも、この羊飼いは、そんな羊のために自らの命さえも捨てると言う。

「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」。確かに、聖書にも書いてあるように、雇い人の羊飼いであるならば、そんなに命がけで他人の羊のことを守ることはなかったでしょう。実際に、当時の羊飼いたちの中には、自分の羊を狼や熊などから守るために戦って命を落とす者もいた、といいます。しかし、これは、守るために戦った末に、残念ながら命を落としてしまった、ということです。つまり、命を落とすことは本意では無かった。自ら積極的に、この羊の身代わりとなって命を捨てるという羊飼いなどいないワケです。

しかし、私たちの羊飼いは、ご自分のためにではなく、私たちのために、私たちが命を得、しかも豊かに得るために、私たちの身代わりとなって十字架の上で命を捨ててくださった。このイエス・キリストこそが私たちの羊飼いであると聖書は語ってまないわけです。私たちは、このイエスさまに飼われている羊の群れ。ユニークな、唯一無二の羊飼いに養われている。

このように、私たちは唯一無二なイエス・キリストという羊飼いに飼われている羊(たち)であるわけですが、その羊の特徴は何かと言えば、その羊飼いの声だけに従うと言われています。「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである」。

イエスさまの羊の特徴は、毛並みが良いことでも、賢いことでも、人格(羊格?)が優れていることでも、有能なことでもなく、ただイエスさまの声を知っており、その声に、その声だけに従うことなのです。ただ、それだけのことです。しかし、この唯一のことにこそ、私たちは注意を向ける必要があるようにも思うのです。ただ、イエスさまの声だけを聞き分けて、従う。政治家の声でもありません。権威ある者の声でもありません。誤解を恐れずに言えば、牧師の声でもありません。イエスさまの声だけに従う。これが、イエスさまの羊たちの特徴なのです。

言わずと知れた、現在は未曾有の危機的な状況です。人との接触も8割減と言われ、町にも本当に人がいなくなりました。映画のワンシーンを見ているかのような、ちょっと異様な感じもしています。教会にも残念ながら集まることができませんが、これも感染症を防ぐためだと、様々な不自由さや制約も我慢しながら、国民が一丸となって取り組んでいるワケです。しかし、一つ懸念されていることがあります。それは、「コロナ後」ということです。

現在は新型コロナウイルスを防ぐために仕方がないこととしてしているワケですが、このコロナ騒動が収まっても、世界が変わってしまい、監視社会が、自由や権利を過度に制限するような風潮、強権政治等が強まってしまわないだろうか、と危惧されてもいるからです。そんなことは考えすぎだ、と言うのは簡単ですが、私たちは歴史からもよくよく注意深く見ていく必要があるようにも感じるのです。

ご存知のように、あの悪名高きナチスは、最初っから悪名高きものではなかったからです。第一次世界大戦で敗北し、莫大な賠償金に喘ぎ、そのため極度のインフレにも会い(一兆倍のハイパーインフレーション)、世界恐慌も相重なって、どん底状態に陥っていたドイツ国民にとっては、ナチス・ドイツ、ヒトラーが掲げる理想は、希望に映ったからです。あたかも、自分たちをこの窮状から救い出してくれる救世主のように思ってしまった。その結果、どうなってしまったかは、お話しする必要もないと思います。

それは、世界大のことだけでもないでしょう。私たち個々人の日常、人生においても起こらないとは限らない。イエスさまの羊である私たちを、虎視眈々と狙っている狼たちは、盗人・強盗たちは、何も、いつでもそういった装いで、誰の目にも明らかな姿でやってくるとは限りません。羊の皮を被ってくるのかもしれない。いかにも私たちのことを思っているかのように、気遣っているかのように、柔和で、優しい笑顔で接してくるのかもしれない。しかし、その本性は、羊のことを考えもしない、ただ己のため、己の欲望、願いを叶えるために利用しようとしているだけなのかもしれない。ですから、そういった声に従ってはいけないのだ、と言うのです。そういった声を聞き分けなければならない。

それは、本当にイエスさまの声なのか。イエスさまの思いを表している声なのか。それとも、別の声なのか、聞き分けなければならない。そして、イエスさまの羊ならば、その声を聞き分けることができるはずだ、と言われます。懐かしい、聞き覚えのある声なのか、それとも、たとえ心地よい声だとしても別の声なのか、と。

*2.マルテン・ファン・クリーフ1524~1581 Marten van Cleve 「The_Good_Shepherd」


もう一つのイエスさまの羊の特徴は、ただ声を聞き分けるだけでなく、聞き分けたら「ついて行く」と言うことです。イエスさまが生きておられたパレスチナの羊飼いたちは、羊たちの先頭に立って、導いていきました。なぜならば、どこまでも広がるのどかな平坦な牧草地ではなく、穴あり谷あり崖ありの過酷な環境だからです。ですから、これから向かおうとする道の安全を確認しながら羊飼いたちは先頭を歩く。

そして、羊たちはそんな羊飼いを信頼して、後について行く。従って行くのです。そんな羊たちの様子について、今日の使徒書ではこんなことが書かれていました。「不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉になるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです」。

イエスさまの後について行く、ということは、イエスさまの模範に従って行く、ということでもあるでしょう。と言っても、簡単なことではありません。私たちは、なかなかイエスさまのようにはなれない。当然です。イエスさまの羊であっても、元気いっぱいにいつでもイエスさまのすぐ後ろについていける者もいれば、ふらふらして列から遅れてしまう者もいるでしょうし、後ろ髪引かれていつも後ろばかりを振り返ってしまう者もいるでしょうし、それこそ、ひょいと迷子になってしまう者もいるかもしれません。あるいは、そのペースについていけず、自分はだめだと座り込んでしまう者も出てしまうかもしれない。

私たちの羊飼いは、そんな羊たちの実情を無視して、ただひたすらに目標を目指して突き進むような羊飼いではないはずです。脱落する者を放っておいて、自己責任だ、自分でなんとかしろ、と突き放すような羊飼いでもない。遅れている者がいればペースを落とし、しゃがみこんでいる者がいれば、少し休息を取り、怪我をしている者がいれば肩に担ぎ、後ろばかりを気にしている者がいれば、「大丈夫だ、ちゃんと前を向いていこう」と励まし、迷い出た者がいれば探し出してくれる、そんな羊飼い。私たちの羊飼いは、弟子たちの失敗を何一つ咎め立てもせずに、「あなたがたに平和があるように」と言ってくださる復活のイエスさまだからです。それが、私たちの羊飼い。しかし同時に、その上で、羊である私たちも、自分の足で、この足で、この羊飼いを信頼して、その声を聞き分けて、ついて行く、従って行くことも望まれている。そうではないでしょうか。

イエスさまが私たち羊に願っておられることは、羊飼いであるイエスさまの声を聞き分けること。そして、この声だけについて行くこと。他の声にはついていかないこと。それだけ。その道中は、一進一退かもしれません。なかなか個性揃いの羊たちです。順調に進んだと思ったら、立ち止まったり、そこで野宿せざるを得なくなったり、探しにでかけたりと、羊飼いにとっては予定通りにならない珍道中かもしれません。しかし、そんな羊たちを羊飼いイエスさまは愛おしそうに、目を細めながら、ホッとしたように、「ほっこり」するかのように見つめておられるのではないでしょうか。「私の羊たちよ」と。

*3. ジャン=フランソワ・ミレー『羊飼いの少女』1863年頃。油彩、キャンバス、81 × 101 cm


《祈り》

・少し外出自粛が功を奏してか、感染者が減少傾向のように伝えられていますが、しかし、まだまだ予断を許さず、緊急事態宣言も延長されるとのことです。気候も良いせっかくのゴールデンウィークも、今年は「STAY HOME週間」となってしまいましたが、気を緩めることなく、自分たちにできることを誠実に成していくことができますように、どうぞお導きください。

・また、緊急事態宣言の延長に伴い、教育の現場も混乱していると聞きます。子どもたちにしわ寄せがいかないように、担当される方々の判断をお導きくださいますようお願いいたします。

・新型コロナに感染され、治療されておられる方には癒しを、お亡くなりになられたご家族の方々には慰めをお与えください。

・まだまだ医療現場は大変な状況だと思います。どうぞ憐れんでください。医療に当たっておられるお一人お一人の上に、あなたの守りと助けが豊かにありますように。

・医療に必要な物品もまだ不足しているようです。どうぞ、速やかに供給がなされますように。

・また、感染症拡大のために、従来の疾病対策・治療が不十分になりつつあるとも聞きます。特に、救急医療の必要な重篤な方々の受け入れが困難になりつつあるとも聞きます。また、必要な手術ができない方々もいると聞きます。どうぞ、速やかなる改善がなされるようにお導きください。

・このような状況下の中で、市民の社会生活を支えるために懸命に働いておられる方々も多くおられます。スーパーの店員さん、物流の方々、銀行職員、郵便局の方々、公務員の方々等、ご自身たちも感染のリスクに不安を抱えながらの働きだと思いますので、どうぞお守りくださいますようにお願いいたします。

・経済的に厳しい状況に陥っておられる方々のために、速やかに援助の手が伸ばされるようにお願いいたします。

・外出自粛のために潜在化していた問題が、次々と顕在化しているとも言われています。特に、虐待、DVの問題は深刻です。どうぞ、必要な逃れ場が与えられますように。人々の心が荒んでしまうこの状況が、少しでも改善されていきますように、どうぞお助けください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン

 

 
 

参考絵画
1.Anton Mauve – The Return of the Flock, Laren- Google Art Project
2.マルテン・ファン・クリーフ1524~1581 Marten van Cleve 「The_Good_Shepherd」
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Marten_van_Cleve_The_Good_Shepherd.jpg
3.ジャン=フランソワ・ミレー『羊飼いの少女』1863年頃。油彩、キャンバス、81 × 101 cm