【テキスト】3月22日 10:30 礼拝説教「信仰の道筋」浅野直樹牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書9章1〜41節

更、言うまでもないことですが、今私たちは四旬節(教会の暦として)の中を歩んでいます。もっとも、昨今の新型コロナウイルスの騒ぎで、毎日毎日ニュースに釘付けになったり、また、そこから来る現実に触れながら、心動かされながら、それどころではない、というのも正直なところかもしれませんが、この四旬節は悔い改めの季節でもある訳です。イエスさまの受難…、苦しみ、苦悩に心を向けながら、自らを省みていく…。しかし、正直、これはあくまでも私個人の感想でしかありませんが、これまでの四旬節の日課の中には、あまり「悔い改め」といった面が見えてこなかったようにも感じています。少なくとも直接的には、です。今日の日課も、そうかもしれない。生まれながらに目の不自由な人の癒しの物語です。しかし、あえて言えば、最後に出て来るこの言葉ではないか、とも思う。

41節「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」
つまり、これを、私たち自身は「見えているのか」との問いとするならば、そこに、自ずと省みが必要となってくるからです。果たして、私は(私たちは)本当に見えているのか。そこで、もっと注目すべきことは、見えないこと自体は、決して悪いことではない、と言われていることです。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう」と言われている通りです。

むしろ、見えていないにも関わらず、見えているかのように思っている、思い込んでいる、勘違いしていることが、つまり、見えていないといった事実・現実を受け入れない、受け入れないどころか、自分こそはしっかりと見えているのに、他の人たちは見えていない、と驕っていることにこそ過ちがある、罪がある、と言われていることです。

今日の箇所には、大きく分けると、二種類の人が登場して参ります。一人は、生まれつき目の見えない、目の不自由な「盲人」です。もう一人(一方)は、この癒された盲人を糾弾し、盲人が癒されたことを喜ばずに、自らの「見える」ということを誇っている人々、ここではファリサイ派として登場してくる人物です。

この両者を図式化すると、最初は見えなかったのに見えるようになった人と、見えているかのように思っていたのに、実は何も見えていなかった人、つまり、全く真逆の二つのタイプがここで描かれている訳です。そして、結論から言えば、おそらく私たちは、このどちらにも属するということでしょう。どちらか一方とは言い切れない。ここ何週間か、私たちは聖書の中の登場人物と私たちとを重ねて見て来ました。ニコデモの中に、サマリアの女性の中に、私たち自身の姿もあったからです。

まり、これらの人々は私たちのモデルでもある訳です。今日の日課に登場してくる人物たちも、そうでしょう。これらの人々の中に、私たち自身の姿も見えてくる。もちろん、実際問題として、私たちは肉体的に言えば、盲人…、目の不自由な者ではないのかもしれない。しかし、この見える、見えない、ということは、では肉体的なことだけなのか、といえば、必ずしもそうではないからです。私たちは神さまの愛が見えているのか。人の善意が見えているのか。この世界のあるべき姿が見えているのか。自分自身が見えているのか。自分の周りに起こった出来事が見えているのか。果たして、見えている、と言い切れるのか、といえば、そうではないからです。

Christ Healing the Blind(1682 Nicolas Colombel, French, 1644–1717)


日の福音書の日課は、先ほども言いましたように、一人の盲人の癒しの物語り、あるいは奇跡物語り、と言って良いと思います。しかし、単なる奇跡物語りではないことは、もう皆さんも良くお分かりでしょう。聖書には数々の奇跡物語りが収録されていますが、これほど長い奇跡物語りはないからです。ですから、この物語りは奇跡そのものよりも、その奇跡がこの人をどのように導いていったのか、といったことに関心があったのではないか、と思います。

この人は、生まれながらに目の不自由な人でした。生まれてこのかた、自分の目で何も見たことがなかったのです。何一つ、見たことがなかった。彼は色を知りません。光を知りません。この世界を知りません。私たちが知っている素晴らしい景色も、青く澄んだ大空も、風になびく新緑の緑も、春に咲き乱れる色鮮やかな花々の姿も、愛情深い人々の眼差しも、微笑みの表情も彼は知らない。見たことがない。それは、私たちには想像もできないことです。

たちも目を閉じれば、確かに暗闇に閉ざされます。しかし、すぐにでも、あの大空を思い描くことができる。なぜならば、知っているからです。一度でも、その光景を見たことがあるからです。だから、再現できる。思い描くことができる。もちろん、鮮明とはいえないかもしれませんが、それでも、空が青いことを、その色を、輝きを知っている。しかし、一度も見たこともないこの人は、何も思い浮かべることすらできないのです。これは、辛いことです。しかも、その不幸は、神さまに呪われた結果だ、と言う。

弟子たちはこの人を見て、こう尋ねました。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれか罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」。信心の薄れた現代日本人でも、この感覚はよく分かると思います。いわゆる、罰(ばち)です。神さまの罰(ばち)に当たった。この不幸は、そうでも考えないと、納得できない。少なくとも、自分のせいではない(親、先祖のせい)、そう思いたい。そう思う。これは、もう変えられない定めです。神さま由来ならば、そう諦めるしかない。運命を呪いつつも、受け入れざるを得ない。しかも、おそらく、これが、そういった人々が抱える現実でもあるのでしょう。この人は、「物乞いであった」とある。彼の不幸は、目が見えないだけではない。そこから、雪だるま式に不幸が襲ってくるのです。それも、私たちがよく知る現実でもあります。

んな彼の不幸の原因に対する問いかけに、イエスさまはこう答えられました。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」。彼の不幸の原因は、神さま由来ではない、とおっしゃいます。むしろ、そこに神さまの深い憐れみと恵みの業が起こるためだ、とおっしゃる。今日は、このことについて詳しくお話しする時間はありませんが、ぜひ皆さん、キリスト者の証しの本を読まれると良いと思います。このイエスさまの言葉が真実であったという証しに多く出会われると思う。それは、決して改善した…、この人のように実際に目が見えるといった奇跡がおこった、ということだけでなく、不幸が不幸でなくなる奇跡が多く語られていると思います。

ともかく、彼はイエスさまによって目が見えるようになりました。生まれてはじめて見たのは、水面に映った自分の顔だったかもしれません。自分の顔がこんな姿だったとはじめて知ったのでしょう。何度も水面に映っている自分の顔を触りながら確認したのかもしれない。そして、あまりの出来事に少し呆然としつつも立ち上がって、周りをぐるりと見渡したのかもしれない。そして、空を見上げたのかもしれない。その空の眩しさに、光の眩しさに、はじめて目を細めたのかもしれない。

彼は見えるようになりました。生まれてこのかた、全く見えなかったものが、見えるようになった。知らなかったことが、分かるようになった。しかし、それは、どういうことか。つまり、見えるということは、見たいものだけでなく見たくないものまでも見えてしまう、ということでもあるからです。ある白内障の手術を受けた方が、シワまではっきりと見えるようになっちゃった、と苦笑いされていましたが、自分の好ましくないところも、他人の好ましくないところも、この世界の、世の好ましくないところも見えてしまうことになる。それが、「見える」ということです。

しかし、それでも、光の存在を全く知らなかった頃に比べれば、雲泥の差だと思う。嫌なところも見えるようになったその目は、その他のこともまた見えるようになるからです。神さまの愛も、人の善意も、世界のあるべき姿も、イエスさまの救いの業も、見えるようになるからです。

の男性が見えるようになったことを、なぜか素直に喜べない人々がいました。なぜか。イエスさまがその人の目を開けられたからです。そのことが、彼らにとっては由々しきことだったからです。彼は議会に引き出され、尋問されることになります。ただ見えなかった目が見えるようになった、ということだけで、尋問される。当初、彼は不安に怯えていたように思いますが、次第に力強さが感じられるようになっていきました。

30節「彼は答えて言った。『あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存知ないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです』」

実に堂々としています。なぜか。自分の身に起こったことを、どうしても裏切ることができないからです。目の見えなかった事実。光を知らなかった現実。それが、今は見えている。知っている。それを、どうして否定することができるのか。その現実を、この私にもたらしてくれた方を否定することができようか。

にとってイエス・キリストとは、最初は自分とは関係のない、自分の人生の、世界の外にいたただの一人でした。しかし、自分の目を開いてくれたことによって、「イエスという方」(まだどこか他人行儀ですが)となった。そして、反対者とのやりとりの中で、自分の身に起こったことをもう一度よく吟味せざるを得なくなり、「預言者」、「神のもとから来られた方」、そして、最後に、「主よ、信じます」とひざまずくまでに、自分の身に奇跡を起こしてくれたイエス・キリストという存在が大きくなっていったのです。

それもまた、私たちが辿った信仰の道筋とも言えるのではないか。どうでしょうか。私たちもまた、イエスさまと出会って、見えるようになったのではないでしょうか。見たくない現実も、自分自身の真の、裸の、罪の姿も見えるようになった。だから、救いを必要とした。赦しを必要とした。希望を必要とした。神さまを、イエスさまを、光の存在を必要とした。この肉眼では見えていなかったものが見えるようになったからこそ、私たちは、求める者となったのです。この一人の盲人と同じように…。

初に言いました。私たちの中には、この二種類の人が混在している、と。そうです。私たちも見えていなかったのに、見えるようになった。なのに、同時に、見えていなかった事実を、現実を忘れてしまい、あたかも自分自身の力で見えているかのように錯覚し、時には人を非難するほど傲慢になってしまっている。そうです。私たちは、見える者とされたのです。

しかし、それは、イエスさまによってもたらされたものに他ならない。それを、忘れてはいけない。だから、自己吟味を、省みを必要とするのです。そして、なおも、目が開かれたその事実に、心から感謝していきたいと思う。私たちは、今、見えています。おぼろげかもしれませんが、決して暗闇ではないのです。見えている。光の存在を、色とりどりの光に満ちたこの世界を造られた方を、私たちは知っている。そして、その方に、光である方に私たちは信頼と希望を置いている。
そのことを、もう一度心に覚える四旬節としていきたい思います。

 

祈ります。

「天の父なる神さま。今朝もこの礼拝の場に私たちを招き導いてくださったことを心より感謝いたします。また、共々に集うことのできなかった方々の上にも、豊かな祝福をお与えください。あなたは、私たちの心の、霊の目を開いてくださり、肉眼だけでは知ることのできなかった光の存在に気づかせてくださったことを心より感謝いたします。私たちは、見えていなかった事実を直ぐにでも忘れてしまい、あなたに感謝することを怠り、また他者に対して傲慢な態度に出てしまうことの多いものですが、この私たちのために、イエスさまが何をしてくださったかを、しっかりと心に留める四旬節でもありますように、弱い私たちを導いてくださいますようお願いいたします。私たちの主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン」

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