「ウィーンの思い出(9)国際フーゴー・ヴォルフ・コンクール」 野口玲子

帰国寸前の1971年9月半ばに、オーストリアで初の「国際フーゴー・ヴォルフ・コンクール」が催されることとなりました。

「歌曲の作曲家として最も優れた人を二人挙げよ、と問われたら、迷わずにシューベルトとヴォルフと答える。しかしどうしても一人だけをと言うなら、やはりヴォルフを挙げる」と、多くの巨匠たちが認めるオーストリア生まれの天才作曲家フーゴー・ヴォルフ。400余曲の珠玉のような歌曲作品を残したフーゴー・ヴォルフを称えて、彼の生誕地、かつてオーストリア領だったヴィンディッシュグラーツ(現在はスロヴェニアのスロヴェ グラーデック)があったシュタイアーマルク州の州都グラーツで、第1回国際フーゴー・ヴォルフ・コンクールが開催されることとなりました。

これまで私はコンクールを受けることは考えてもみませんでしたが、ヴォルフの歌曲のみによるコンクールなので、最初で最後の機会だと思い、参加する決心をいたしました。

ヴォルフ コンクールは声種別に10曲の課題曲が決められており、そのほかに10曲の自由曲を提出しなければなりません。勿論すべてヴォルフの歌曲です。ヴェルバ先生の選曲に従って準備を整えてゆきました。6月に卒業試験が終了してからは、ザルツブルクの夏期講習やベルギーのゲント市で開催されたヴェルバ教授の講座の追っかけをして学びました。しかし、コンクールの日が迫った頃、自信のない私はヴェルバ先生に「先生は、個性的な豊かな表現が大切だ、と仰います。個性というものを点数で測れるのでしょうか。私はコンクールを受けてもよいのでしょうか?」と半ば駄々をこねるような気持ちでお尋ねしたのです。すると先生は私に手を差し伸べられ「確かにそうだ。でも受けなさい。何故ならコンクールというものはそのときに応募した人の間で判断されるもの。だからあなたより上手な人が100人も来ればダメかもしれないが、もしかしたらあなたが一番上手いかもしれない。いずれにしてもこれだけあなたの声に合った作品が選曲され良く勉強してあるのだから、リサイタルだと思って審査員達に聴いてもらえばよいではないか。もしかしたら賞が取れるかもしれないし!」と諭されてしまいました。ヴェルバ先生のこのお言葉は、全く当たり前のこと。「人事を尽くして天命を待つ」ということでしょう。音楽の原点に気づかされ、安心して臨む気持ちになりました。

グラーツへはウィーンの南駅から列車で約3時間です。コンクール会場はグラーツ音楽大学のホール。参加者にはウィーンに留学中の日本人や外人のクラスメイトもいますが、ドイツ、カナダ、イギリスなどからの個性豊かな歌手達が、自信たっぷりに集まってきました。審査員にはヨーロッパ各地から声楽家以外にも音楽評論家や放送局関係の著名な方々が名を連ねる中に、私が師事したヴェルバ教授(審査委員長)、シュミデック先生、ジットナー教授がおられたことは心強い限りでした。しかし私をお教えくださった三人の先生は私を採点できないという決まりがあったことを、後になって知りましたが、お蔭様で3位を受賞することが出来ました。結局賞をいただけた日本人は私だけでした。

ウィーンを出るときに、霊感のある友人から「授賞式のために着物を持っていきなさい」と言われたのを笑い飛ばし、ウィーン人の親友達には「賞を取ったらコンサートがあるからグラーツへ来てね。ホテルの費用は私が持つから」と実現不可能を前提に約束をしたのですが、友人は霊感が当たったことを自慢し、ウィーンの親友達は勤めを早退して駆けつけてくれました。喜びと共にちゃんと約束は果たしました。ヴェルバ先生のお言葉に救われて、他人と争うことなく、自然体で臨むことができたことが良い結果へと繋がったのでしょう。神様のお導きがあってこそと、感謝いたします。

(むさしのだより2007年7月号より)