「300号を記念して「むさしの教会だより」の歴史」 編集部

 「むさしの教会だより」第1号が印刷物として発行されたのは1964年6月のことです。石居正己先生の多分手書きのガリ版印刷で今ではもう黄色になってしまった藁半紙4頁のものです。そこには説教、教会内外の情報、会計報告などが記されています。第2号は翌65年の3月に出ていますし、第3号はずっと飛んで67年2月になります。それからは所々飛びますが殆ど毎月発行されました。そして66、67、68、69年の毎年1月には石居先生の説教集(説教5・6篇12頁)が別冊で発行されています。69年8月の第21号に賀来先生が着任される予告が書かれており、69年10月発行の第22号に賀来先生の第一声が載っています。

 それからは賀来先生の字でしょうか、ちょっと柔らかい書体のガリ版文字になります。そして少し飛び飛びながら発行が続けられて72年10月の第34号(夏の修養会特集号)では突然美しいタイプ印刷になります。紙も上等だし読み易くなりますが次の35号はまたガリ版に戻り、73年1月の36号はタイプになります。そして73年5月の38号になって横書き、左開きに変わります。この印刷はキスラー先生の和文タイプ(当用漢字のみによる簡易型)を使ったものと思われます。これが73年9月の42号まで続きます。今まで第何号と書いてきましたが実際は発行月のみの記載で番号はファイルした後に手書きで書き添えられているものです。そして73年1月からは1号、2号と番号が振られるようになりました。8号(通算43号)からは横書きですが普通のタイプ印刷になり75年正月の14号まで続きますが、75 年7月の50号からは縦書き右開きに戻ります。この号から編集発行人として「週報・武蔵野教会だより編集委員会」(5月発足)の名が登場し西村友則さんが委員長をして下さったようです。そして53号から毎月発行すると編集後記に記されています。

 この形がずっと続き、連載記事や青山四郎先生の「わたしたちの教会」をはじめ、後にまとめられて単行本になったような記事が掲載されています。「神・生・私」は78年4月(第81号)から連載されました。79年9月の第98号からタイトルが横書き「武蔵野」の字が平仮名の「むさしの」になり今の形になります。

 80号からは石垣通子さんがタイプを打って下さりその後ワープロ、パソコンと今日まで続いています。 

 80年の6月号からナンバーの記載が途切れますが毎月発行され続けています。81年3月で委員長が西村さんから大谷季さんに変わりました。81年9月号からは、今まで「時・所・人」というタイトルで教会内外のニュースを書いていた欄が「ろびい」となります。こうして85年4月号(163号)までタイプ打ちの「教会だより」が続き、5月号からワープロ(トスワード)が活躍することになります。また大谷さんが入院され名誉編集長となられ、小山茂さんが事実上の編集責任者となられました。このようにして79年の11月号で100号に、88年の5月号で200号を数えました。

 90年の4月号からは石居基夫先生が着任され第1面に教会暦に従った短い文が載りました。92年3月(246号)で小山さんが編集長を降り、4月号から秋田淳子さんが編集を担当することになり今日まで続いています。92年5月から9月まで藤本一臣さんが巻頭言を書いて下さいました。その後は石居先生のエッセイが第1面を飾ります。

 ワープロを使った制作は95年3月(279号)までで、その後パソコン(マッキントッシュ)の印字が紙面を構成します。本格的にパソコンを使った紙面編集は95年6月号(282号)からです。更に96年1月号からは印刷機が新しくなり見やすく綺麗な「むさしの教会だより」になりました。96年4月からは徳善義和先生が巻頭言と説教を書いて下さっています。10月号からはこの原稿がルーテルネットを通じてパソコン通信で送られてきます。思い返すと不思議な程の32年あまりの歴史です。

(1996年11月号より)