説教 「共に喜ぶ」 大柴譲治

フィリピ 2:12-18

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

「喜びの手紙」

本日はフィリピ書連続講解説教の第四回目です。フィリピ書は「喜びの手紙」と呼ばれます。獄中から書かれた手紙であるにも関わらず、最初から最後まで「主にある喜び」が、ある意味では浮世離れした「天国的な喜び」が強調されているからです。今日も「共に喜ぶ」という小見出しがついているように「喜び」が主題です。

17-18節は獄中書簡であることがよく分かる文章です。「更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい」。ここでパウロは「たとえ自分の血が注がれるとしても」と語っていますが、これは自分の殉教の死を明確に意識した言葉です。獄中にあっていつ殺されるか分からない状況の中で、パウロはキリストと共にある喜びを生き生きと感じています。本日はこの喜びがどのような喜びであり、それがどこから来るのかという点に焦点を当ててみ言葉に学びたいと思います。

パウロは1:21-24でこう言っていました。「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。」パウロにとって、生きるにしても死ぬにしても一番重要なことは、「キリストと共にあること」でした。

(復活のキリストと出会って回心を体験した)パウロには、死を恐れる気持ちがありませんでした。死ねば、自分とキリストを隔てていたものがすべて取り除かれ、キリストと直に共にいることができるとパウロは信じていたからでした。「わたしにとって、生きるとはキリスト、死ぬことは益である」という言葉はそのように理解されるべき言葉です。パウロにとって「死」は、「戦うべき敵」でも「避けるべき状況」でもなく、復活のキリストゆえに「永遠の命への突破口」であり「天国の門」であるのです。

またパウロは1:29でこう語っています。「つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」。信仰者はキリストのゆえに信仰だけではなく苦難をも恵みとして賜っているというのです。そこでは信じることと苦しむこと、信じることと十字架を背負ってキリストに服従することが一つとなっています。そしてその両者が神の圧倒的な(溢れるばかりの)恵みだとパウロは言うのです。

「たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい」とパウロが繰り返して言う「喜び」とは、私たちの内的な感情のことではありません。それは、キリストと共にある(つながる)喜びであり、キリストとの関係の中で与えられる喜びであるということが分かります。私たちの内的な感情としての「喜び」は簡単に状況の変化によって左右されてしまいますが、このキリストから与えられる「喜び」は状況が変わっても全く揺らぐことのない「喜び」であり、神の愛によって捉えられた「喜び」なのです。万物は揺れ動くとも神の愛はけっして揺らがないからです。

「従順」と「不従順」

そのことを押さえた上で本日の箇所を見てゆきましょう。

「だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」(12節)。ここでパウロはフィリピの信徒たちに「わたしの愛する人たち」と呼びかけています。それは「私同様、キリストの愛の中につながっている人たち」という意味でありましょう。

また、ここには「従順」という言葉が出てきます。これは先週学んだように、2:5-11の「キリスト讃歌」、特に6-8節に出てくる「キリストの従順」とつながっている重要なキーワードです。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(2:6-8)。

神のみ心(み言/命)に対して幼子のように素直で純粋な心で從うことが「従順」と呼ばれます。それはキリストが「アッバ父よ」と天の父なる神に向かって呼びかける時の「まっすぐな心」です。

この「従順」という言葉は「不従順」という言葉の反対語です。すぐ思い起こすのは、創世記3章の、アダムとエヴァが禁断の木の実を取って食べたという「不従順の罪」です。彼らはヘビの「あなたは神のようになれる」という誘惑の言葉に負けて神の戒めに「反逆」したのでした。そのように「不従順」という「罪」の根っこには、人間の「思い上がり/高慢」という根源的な「罪」があります。神の被造物にすぎないということを忘れ、自らをさも何者かであるかのように思い込んでしまう(自己中心の)「罪」です。そればかりでなく、自らが神であるかのように思い上がり、振る舞ってってしまう「高慢の罪」です。

この不従順のゆえに人間はエデンの園を追われてゆきます。逃亡者としての生活が始まったのです。聖書には、逃げる人間を後ろから追いかけてくださる神のイメージが貫かれています。神の足音を聞いて物陰に隠れるアダムたちを「あなたはどこにいるのか」と問うて、心を痛めながら、失われた魂の在り処を探し求めてくださる神。それは迷子の羊を見つかるまで探し求めてくださるあのステンドグラスの羊飼いのイメージとも重なります。

そのような「不従順な人間」に対して「神への徹底した従順」がみ子イエス・キリストにおいて示されるのです。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(2:6-8)。

「地上の星」

アダムとエヴァと同じように不従順でしかない者がどうしてこのような天的な喜びに与ることができるのか。それはキリストの従順のゆえであります。ルターが「喜ばしき交換」と呼んだように、それは本当に不思議なことですが、私たちの貧しさがキリストの豊かさと交換されているのです。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」(2コリント8:9)。

私たちの罪がキリストの義と、私たちの不従順がキリストの従順と、私たちの悲しみがキリストの喜びと交換されているのです。それは圧倒的な不等価交換であり、不平等交換です。神が大損し、私たちが丸儲けをしているような交換です。それはなぜか。神が私たちを愛してくださっているからです。それもその独り子を賜るほど深く愛してくださっているからです。あなたはわたしの目には價価高く、尊く、わたしはあなたを愛している」とイザヤ書43:4で言われている通りです。

この神の大きな愛が私たちをキリストにあって新しく造り変え、新たに創造してくださるのです。パウロは語ります。「だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」(12-13節)と。人間の内に神ご自身が働いておられるというのです。その意味では「信仰」とは人間の行為ではありません。私たちにおいて働かれている神さまご自身のみ業なのです。

このような私の中に神が働いておられるということは考えてみれば本当に不思議なことです。およそ神に相応しくない私です。神は、御心のままに望んで、不従順な者を従順な者へと造り変えてくださるのです。自分を無にして、へりくだって、十字架の死に至るまで天の父なる神の御心に従順に従われたキリストの生き方に倣わせてくださるのです。圧倒的な恵みの中に、私たちの貧しさとキリストの豊かさを取り換えてくださるのです。

「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう」(14-16a節)。神に従順に歩む時、この世にあって神の光を反射して星のように輝き、命の言葉をしっかりと保つことができるというのです。ここで「命の言葉」というのは「生ける神の言」であるキリストご自身のことと考えてもよいと思います。

しばらく前に『地上の星』という曲が流行りましたが、キリストの従順に倣い、キリストのみ言葉を命の言葉として自分の中にしっかり保つ時に、この地上で星のように輝くことができるというのです。不従順の「恐れとおののき」の中にあった者がキリストの愛の力によって従順の喜びに招き入れられるのです。

「喜びの祝宴」としての聖餐式への招き

本日は聖餐式に与かります。パウロが繰り返してやまない天的な「喜び」は、二千年を通して、キリストの肉が割かれ、血が注がれるところの聖餐式を通して分かち合われてきました。「更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい」(17-18節)。

キリストの食卓が私たちを一つに結び合わせているのです。このキリストの愛と喜びに今日も共に集えることを感謝して、ご一緒に聖餐式に与ってまいりましょう。

お一人おひとりの上に神さまの祝福が豊かにありますようお祈りいたします。 アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2006年10月1日 聖霊降臨後第17主日聖餐礼拝 説教)