説教 「捨てて得る新しさ」 大柴譲治牧師

エフェソの信徒への手紙 4:17-24

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

年頭のご挨拶

新年おめでとうございます。新しい年もこのように教会に初詣でをして、礼拝で一年を始めることができる幸いを感謝いたします。

特に今日は出身神学生たちが参集してくれましたので、改めて私たちむさしの教会が、かつては神学校教会としてそうであったように、将来のルーテル教会に対しても責任を持っているということが目に見える形で明らかであると思います。このように見えるかたちで大勢の神学生が参集してくれるのは嬉しいことですね。本日はあと、インターン中の神崎伸神学生、そして保谷教会で奉仕中の吉岡卓神学生と、現在19名いる神学生(含教職志願者)のうち5名がむさしの教会出身の神学生ですから、皆さんも頑張って支えていただきたいと思います。

「このような時代に牧師が誕生してゆくということ自体が奇跡である」というある信徒の方のお話しを聞いたことがあります。何も牧師の誕生に限らず、いつの時代にも神の働きは貫かれてきました。人類の二千年の歴史をひも解くとき、キリストを信じる者たちにさらに困難な時代があったということを私たちは知っていますから、牧師が誕生することだけが奇跡であるとは言えない部分もあります。信仰者が誕生すること自体が奇跡なのです。私は逆にこのような闇の深い時代だからこそ、神の光のみ業が目に見える形でよく見えてくるのではないかと思っています。神が私たち自身のうちで働いてくださり、私たちの人間的な様々な中途半端さにも関わらず、私たちをキリストを信じて生きるというひとすじの生き方に招いてくださったことを感謝したいと思うのです。

信仰者の全生涯は日ごとの悔い改め

一年の最初に、私たちはやはりルーテル教会ですから、ルターの言葉を思い起こしたいと思います。1517年に公にされたと言われている95箇条の提題の最初の言葉です。「私たちの主であり、師であるイエス・キリストが、『あなたがたは悔い改めなさい・・・』と言われたとき、彼は信じる者の全生涯が悔い改めであることを欲したもうたのである。」

キリスト者の全生涯は日ごとの悔い改めなのです。毎日が悔い改めということです。内村鑑三は「一日が一生である」という意味で、「一日一生」という言葉を残していますが、私たちにとって毎日が日ごとに新しいよみがえりの命であると言ってもよい。「悔い改め」とはヘブル語では「シューブ」、ギリシャ語で「メタノイア」と言いますが、いずれも方向転換を意味しています。神の方向へと向きをしっかりと向けることなのです。地磁気に反応してコンパスがピタッと北を向いて止まるように、私たち人間の魂は神の愛に反応してピタッと神を向いて止まるように作られているのです。面白いことに「メタノイア」と書いて逆から読むと「アイノタメ」となります。「メタノイアはアイノタメ」なのです。キリストの愛のために悔い改めは起こり、悔い改めた人々は隣人を愛するために派遣されてゆくのです。

ルターも小教理問答の中で洗礼に関してこう言っています(p25)。

第四 このような水の洗礼は何を意味しますか。

答) それは、わたしたちのうちにある古いアダムが、日ごとの悔いと、ざんげとによって、すべての罪と悪い欲とともにおぼれ死に、かえって、日ごとに新しい人が現われ、よみがえり、神の前に、義と純潔とを持って永遠に生きるということを意味します。

私たちの全生涯は日ごとの悔い改めであり、毎日が新しいのです。本日は2004年の元旦(一番最初の日)ですが、キリスト者にとっては毎日が元旦なのです。この新しさはどこから来るのか。それは主イエス・キリストから来る。それが本日の主題です。

捨てて得る新しさ

本日の使徒書の日課であるエフェソの信徒への手紙4:17-24は、新共同訳聖書では「古い生き方を捨てる」という小見出しがついていますが、こう勧めています。

「(17)そこで、わたしは主によって強く勧めます。もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。彼らは愚かな考えに従って歩み、(18)知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。(19)そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません。(20)しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。(21)キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。(22)だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、(23)心の底から新たにされて、(24)神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」

古い人を脱ぎ捨てなさいと命じているのです。古い殼を捨てて脱皮しなさいと言うのです。そうすれば心の底から新たにされるのだと。実は私たちには古いものを捨ててこそ新しさを得るという次元が確かにあるのだと思います。「しかし、確かにそうだろう。捨てられたら身軽になるのだけれど、そんなに簡単には捨てられない」、私たちは普通そう思っているのではないでしょうか。

昨年長年住んでいたところを後にして新しいところにお引っ越しをなさった教会員が何人かおられました。長い間にしらずしらずにたくさんのものが身の回りに集まっていて、それを整理するのが大変でしたと口をそろえて語っておられました。その通りだと思います。一つひとつの身の周りのものには、様々な思い出が込められていますので、簡単に捨てる訳にはゆかないのです。泣く泣く処分してゆくわけですが、しかし、私たちはヨブが語るように、持っているものに関しては、「裸で母の胎を出た、裸でかしこに帰ろう」と言う以外にはないのです。持っているものを脱ぎ捨てて心の底から新たにされてゆく以外にはない。

私たちが自分自身の内に持っている古い殼を脱ぎ捨てることは、実は私たちにとって持ち物を処分するよりももっと難しいことでありましょう。「だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません」とエフェソ書は語ります。

ロブスターの脱皮

私たちはロブスターやカニが脱皮して大きくなってゆくということを知っています。脱皮しなければ大きくなることはできないのです。ある意味では、私たち人間も同じではないかと思います。人間もロブスターと同じように、硬い殼を脱ぎ捨てなければ大きく成長してゆくことができない、そう思うのです。ロブスターは脱皮するときが一番生命の危険が大きいと言われます。硬い殼を脱ぎ捨てることができなければそのまま死んでしまうことになりますし、殼を脱ぎ捨てた時が最も無防備で無力な裸の姿を外界にさらすということになります。その時に敵に襲われたらひとたまりもありません。そのように脱皮というのは大きな身の危険を伴う作業なのです。しかし、古い硬い小さな殼を脱ぎ捨てた後、柔らかい皮膚が24時間のうちに水をたくさん吸ってやがて大きく新しい殼として固まってゆく。このことを繰り返すことなしにロブスターは大きく成長してゆくことはできないのです。

私たち信仰者にとって、信仰の成長もおそらくはそれと同じでありましょう。古い自分の殼を脱ぎ捨て、無力な弱い姿をさらすことを通して、「弱いときにこそ主にあって強い」というのはそのことを意味しましょうが、新しい信仰を与えられてゆくのであります。キリスト者の全生涯は日ごとの悔い改めであるというのは、私たちにとって毎日が古い自分を脱皮して新しくされ、成長してゆくということを意味しているのです。まさに「一日一生」であります。

2004年度の年間主題:継続 Continuity

毎年元旦礼拝にその年の年間主題を告げてまいりました。昨2003年は創造性(Creativity)、2002年は共感共苦の愛(Compassion)とずっと英語ではCから始まる標語を、私が着任した1997年9月以来、この6年間用いさせていただきました。祝宴(Celebration)、協働(Collaboration), Communication, キリスト三昧(Concentration)、共感共苦の愛( Compassion)、創造力(Creativity)と来たわけです。 実は今年は七年任期の一番最後の年ですので、一区切りとなります。いろいろ悩みましたが、やはり、継続(Continuity)しかないと思います。Challenge(挑戦)とかCommitment(献身、傾倒、参加、責任)とかも考えましたが、やはり、「何事も継続は力なり」で継続といたしました。そこには実は「初心貫徹」また「忍耐」というような思いを含めています。「初心貫徹」というのは洗礼を受けた原点を忘れないという意味です。「忍耐」というのは何事も継続してゆくためには忍耐が求められると考えるからです。

私は最近、キリストの道は職人芸的なものではないかと考えることが多くなってまいりました。小さな事柄でもコツコツと誠実に忠実に積み重ねてゆくことによって達成されてゆく職人の道なのです。キリスト者は「キリスト職人」と呼んでもよいかもしれません。池宮英才先生は宗教音楽を通して職人芸を磨くことで神を讃美しキリストへの信仰を告白してゆきましたし、松下妙子さんはケーキやクッキーを作ることやカボチャの販売やボランティア、そして妻として母として家族に使えることの中でその職人芸を磨いてゆきました。私は説教と礼拝、そして牧会ということを通して職人芸を磨き、キリスト職人として練達した信仰の生を生きているのです。それも継続Continuityのおかげです。

パウロは言っています。「(1)このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、(2)このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。(3)そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、(4)忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。(5)希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ローマ5:1-5)。

キリストの道を歩き続けて行くこと、これが私たちの今年の主題です。キリストに服従するとき、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生み出すのです。そしてこの希望は私たちを決して裏切らない希望です。キリストが十字架の上にすべてを捨ててくださったことによって得られた新しい命。私たちは古い殼を脱ぎ捨てて、新しいキリストに生きる者として毎日脱皮し、成長し続けるのです。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2004年1月1日 元旦礼拝説教)