説教 「キリスト者の自由」 大柴譲治牧師

ガラテヤの信徒への手紙 5: 1- 6

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

キリスト者の自由

本日は宗教改革記念主日。ルターがパウロによって福音の再発見をしたことを記念する主日です。本日はパウロのガラテヤ書5章から、信仰の喜びということについて思いを巡らせてまいりたいと思います。

ガラテヤ書5章の冒頭で、パウロは声を大にして言っています。「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません」(1節)。割礼を守ること、すなわち律法を遵守するということがユダヤ人たちにとっては大問題でした。それ抜きに「救い」ということは考えられなかったのです。イエスを信じたユダヤ人キリスト者たちも律法を重んじていました。しかしパウロははっきりと言います。「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切」なのだと(6節)。この言葉は彼らにとっては大きな驚きを与えたことでしょう。主イエスがそうであったように、パウロもまた「律法からの自由」と「愛への自由」とを同時に説くのです。「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです」(13節)。本日は「キリスト者の自由」という主題で、み言葉に耳を傾けてゆきたいと思います。

ルター『キリスト者の自由』

宗教改革者マルチン・ルターの著作に『キリスト者の自由』(1520)という小さな、しかし大変に重要な本があります。岩波文庫に石原謙訳が入っていますが、徳善義和先生もそれを何度も翻訳されています。

その冒頭にある二つのテーゼは特に有名です。「キリスト者とは何であるか、また、キリストがこれに獲得して与えてくださった自由とは、どのようなものであるか、これについて聖パウロは多くのことを書いているが、われわれもこれを根底から理解できるように、私は次の二つの命題をかかげてみたい。キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも服しない。キリスト者はすべてのものに仕える僕であって、だれにでも服する。この二つの命題は明らかに、聖パウロがコリント人への第一の手紙12章(9:19)に『私は全てのことにおいて自由であるが、自らだれでもの僕となった』と言っており、同じく、ローマ人への手紙13章(8節)に『あなたは互いに愛し合うことのほかは、だれにも何も負い目を負ってはならない』と言っているとおりである。ところで、愛とは、愛しているものに仕えて、それに服するものである」(徳善義和『キリスト者の自由~全訳と吟味』新地書房、1985)。

これは一見矛盾するテーゼのように感じますが、しかしそうではありません。私たちは信仰においてはだれにも従属しなくてよい。ただ絶対者である神にだけ服従するのです。モーセの第一戒に「あなたはわたしのほかになにものをも神としてはならない」とある通りです。その意味で、私たちはすべてにおいて自由な君主なのです。律法からも自由です。しかし信仰において自由な私たちは同時に、愛においてはすべての人に仕える僕でもあります。キリストがそうであったように人々に身を低くして仕えてゆくのです。「わたしにとって隣人とはだれですか」と自分の隣人を選別しようとした律法学者ではなく、目の前に強盗に襲われて傷ついて倒れた旅人がいれば助け起こしてゆくのです。私たちも「一人の小さなキリスト」(ルター)となってゆくのです。

自由とは何か

「自由」とは何でしょうか。それは一般には束縛のない状態を指していると考えられています。辞書には「他からの強制・拘束・支配などを受けないで,自らの意志や本性に従っている・こと(さま)。自らを統御する自律性、内なる必然から行為する自発性などがその内容で、これに関して当の主体の能力・権利・責任などが問題となる」とありました。

私たちが「キリスト者の自由」と言う場合には二つの次元があると思います。「…からの自由」と「…への自由」という二つです。洗礼を受けてキリストのものとしていただくことによって、私たちは律法主義から自由とされた。私たちをそれまでがんじがらめに束縛していたものすべてから自由とされたのです。それが「…からの自由」という次元です。パウロもその意味で告げています。「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません」(1-2節)。

二週間前の10/12の主日礼拝で、M.S.姉の緊急洗礼式が報告の最後の部分で行われました。それは私たちの思いを遙かに越えた劇的なものでありました。洗礼とは神のご臨在と働きとが私たちの目に見えるかたちで目前に生起するということです。洗礼を通して私たちはキリストの力に与り、病いや罪や私たちを苦しめるもの、私たちから自分らしさを奪い取ってしまうようなものからの完全な自由を獲得するのです。以前に私はある人から洗礼を受けた時に次のような印象的な言葉を聞いたことがあります。「洗礼を受ける前には自分が生きなければいけないと思って辛かったけれども、洗礼を受けてからは自分が生きるのではない、自分は生かされているのだということを知らされてとても楽になりました」と。洗礼とは神さまが私たちをつかまえてくださることです。洗礼を受けるということは苦しみからの解放を意味します。そこにおいて私たちは「…からの自由」を与えられるのです。

そして同時に、私たちは洗礼を受けることによって神と隣人に仕えてゆく生活へと押し出されてゆきます。それが「…への自由」ということです。洗礼を受けることを通して、たとい私たちを取り巻く現実が全く変わらないとしても、私たち自身が変えられることによって、すべてを違った視点から見てゆくことができるようになる。信仰によって私たちは「愛への自由」の中に歩み入ってゆくのです。

マイク・プライス・ジャズクインテット

昨夜と一昨夜、この場所でマイク・プライスさんのジャズクインテットの演奏が行われました。マイクさんは私たちとよく礼拝を共にします。一見普通のおじさんですが、しかし一度トランペットを持つと全く別人となります。すばらしい音色で輝くような演奏をしてくださる。その音を聞いていると心が解放されてゆくのです。この後でもトランペットを持参してくださることになっていますので、一曲吹いてくださることでしょう。プロとはこのような仕事をする人のことをいうのだと思います。その背後にはたゆまぬ練習があったはずです。しかしすべてのことから自由になって、ジャズの即興演奏が行われてゆく。掛け合いの妙味もあります。ピアノとベースとトランペットとドラムとサックス、全く異なった音色を持つ5つの楽器が醸し出す音楽は、私たちに聖霊の風を感じさせてくれるコラボレーションでもありました。練習して練習して練習して、最後には、自分が弾いているのではない、自分は何もしていない、上からの力で弾かされているのだというような自由の次元が開かれる。そのような次元が芸術の世界には確かにあるのだろうと思います。そこでは能動と受動が突破されている。自分が弾いていながら自分を越えたものに弾かされているという感覚です。そこで演奏者が味わう自由の喜びは至福の瞬間でもありましょう。「一期一会」という言葉の通り、二度と戻らないかけがえのない瞬間を生きるのです。ジャズに限らず、ライブ演奏会というものは演奏者と観客との掛け合いでもありますが、ジャズは特にそうだと思います。呼吸が合う。観客も演奏者も一体となってその時間を越えた「永遠の今」とも呼ぶべき至福の時に参加し、楽しみ味わうのです。「美」というものは私たちにそのような至福の瞬間を味わわせてくれます。私自身は、ステージの真ん中にあってステンドグラスに浮かび上がったあの羊飼いイエスさまが、コンサートの間中、ずっと私たちに説教を語りかけてくださったようにも思わされました。実は、神さまのみ言葉/信仰というもの私たちにそのような自由を味わわせてくれる。その意味で信仰の喜びは音楽の喜びとよく似ています。

愛への自由

しかし同時に、そこには違う部分もあります。信仰は私たちを自由の喜びへと招き入れてくれると同時に、愛へと押し出してゆくのです。小さきもの、無力なもの、美しくはないもの、悲しく慘めな人間の現実へと信仰は私たちを押し出してゆく。先日マザーテレサがカトリック教会において聖人に列せられる一歩手前の「福者」に列せられたという記事が新聞に載りました。マザーテレサはインドのカルカッタで貧しい人々のためにすべてを捧げて仕えてゆかれた方です。そのまなざしはいつも温かさと優しさに満ちていました。

本日は島田療育センターから三人の兄弟姉妹が礼拝に出席しています。島田療育センターとの関わりはドイツから派遣された宣教師で、看護婦でもあったヨハンナ・ヘンシェル先生の大きな働きの中で培われてゆきました。ヘンシェル先生は身寄りの無い子供たちを自分の子供として愛し、関わり、育ててゆかれました。ヘンシェル先生が天に召されて既に16年が経とうとしていますが、広信さんや浩子さんは「ヘンシェルママ」と呼んで慕っています。やはり一番深いところで私たちの心を打つのは愛なのです。私たちの心を揺さぶるものは愛なのです。しかし愛は必ずしも常には美しいとは限りません。しんどいことでもあります。愛とは現実の悲しみや苦しみが錯綜する現実の中に入ってゆくということです。美も愛と結びついてゆくところにすばらしさがあるのだと思いますが、決して美しいとは言えない愛の行為の中に他のどこにおいてよりも美しい笑顔が実現するのです。マザーテレサやヘンシェル先生のまぶしい笑顔を私たちは忘れることはできません。「思い出すのはいつもあなたの笑顔ばかり」と歌う『なだそうそう』という歌ではありませんが、笑顔というものは永遠なるものを宿しているのだと思います。どんなに辛く悲しい現実の中にあっても、そこに愛がある限りそこは輝いています。信仰の目にしか見えないのですが、み子イエスの十字架にはそのような真実の愛が輝いているのです。

キリスト者の自由とは「律法主義からの解放(自由)」であると共に、「愛への自由」なのです。その両方を私たちは心に覚えつつ、独り子を賜るほどにこの世を愛してくださったお方の熱い愛の中に新しい一週間を始めたいと思います。

ここにお集まりのお一人おひとりの上に神さまの豊かな祝福がありますようお祈りいたします。 アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2003年10月26日 宗教改革記念主日聖餐礼拝説教)