キリスト教カウンセリングの目指すところ − 答えのないところを歩むために − 賀来 周一

去る6月30日、拙著『キリスト教カウンセリングの本質とその役割』(キリスト新聞社刊)が、「おふいす・ふじかけ賞」を受賞した。「おふいす・ふじかけ賞」とは聖学院大学の藤掛明准教授(学術博士)が、その年度に発刊されたキリスト教カウンセリング関係の本のうち貢献度の高いものを取り上げて賞を呈する出版行事である。私の本は、発行年が2009年でやや古いが、特別に発掘賞として選ばれた。

くどくどと経緯を書いたのは、理由があってのことである。1982年ルーテル学院大学の付属研究所として、デール先生共々「人間成長とカウンセリング研究所(PGC)」(現在は閉鎖)を立ち上げるにあたって、識者を集めて創設発起人会を開催したが、いくつかの厳しい忠告、助言を頂戴した。「牧師は牧師らしく、聖書と信仰と祈りをもって、教会での相談事に当たるほうがよい」、「心理療法家や精神科医のまねごとはしないほうがよい。生兵法は怪我のもとだ」などと言われたこともある。また、神学者側からは「信仰の世界に心理学を持ち込むのは如何なものか」という批判もあった。

しかし、蓋を開けてみれば、カウンセリング講座は満席状態であった。かつ、受講者の多くは教会の役員クラスが多く、これを契機に教会の牧会現場はどのようなケア、援助のかたちがなければならないかが新しい課題として与えられた。そのために、人間の心の問題にキリスト教信仰がどのように関わって来たかを歴史的に探り、また教会の側からもどのようなアプローチをしてきたかを再検討することとした。幸いにして、私の若い頃の研究は歴史で、30代にはそのために留学をしたのだったが、案外それが役立ったのである。

人間の心の問題を歴史的に遡上すると石器時代にまで及ぶ。爾来、人間の心の問題を営々と追い求め、19世紀から20世紀にかけて、人間の知惠の所産として心理学は発展してきたが、そこに見るのはキリスト教との深い関係である。残念なことには、近現代の学問は、哲学を除き宗教は特別な価値観に基づくとして一般的には宗教性を排除するかたちで発展してきた。心理学でもその傾向は例外ではない。

しかしながら、今世紀に入り、とくにWHO(世界保健機関)の働きによって、宗教性(成熟した意味での)との関係抜きでは、人間の心の問題は<これでよし>とする究極の答えを持ち得ないことが明らかにされるようになってきた。今回、賞を受けた拙著は、直接的に宗教性と心理の世界を関連づけてはいないが、底辺に信仰抜きでは人間の心の問題に<これでよし>とする答えはないことを読み込んだものである。信仰による「これでよし」とは、人間の知惠による答えがないまま生き抜く決断である。人間には、それがあれば、なにも恐れることはない。その背後に、キリストの死と復活という高価な恵みがあるからである。 (むさしの教会元牧師)

むさしの便り10月号より