説教「しかし、勇気を出しなさい。」 大柴譲治

コリントの信徒への手紙 一 15:50-58
ヨハネによる福音書16:25-33

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがわたしたちと共にありますように。

「聖徒の群れ」~召天者記念主日に

11月1日の全聖徒の日にちなんで、私たちの教会では毎年11月の第一日曜日を召天者記念主日として礼拝を守っています。本日は二冊の写真アルバムが聖卓の前に出ていますが、週報に挟まれている召天者名簿には武蔵野教会にこれまで関わりのあった方々237名の方々のお名前が記されています。今年で私たちの教会は宣教85年目を迎えましたが、その237名の方のうち99名はこの15年間で天に召された方々でした。最初の70年で138名ですから昔と比べると召天者がかなりの勢いで増えているのが分かります。その背景には教会員の高齢化ということもあるでしょうが、この教会の働きが少しずつ地域に認知されてきているということもあると思います。

教会という場所は本当に不思議な場所であります。日常生活の中にあってここは「非日常的な空間」であり「非日常的な時間」です。毎週この場所では主日礼拝が行われていますが、葬儀も行われますし昨日のように結婚式も行われます。私たちが毎日の生活の中で体験する喜びごとも悲しみごともすべてはあのお方のまなざしの中に置かれている。私たちはすべてをあのステンドグラスに描かれているお方、主イエス・キリストに託してゆくのです。教会とはすべてが主の御手のうちに置かれていることを私たちに確認させてくれる場所であり、そのような意味で非日常的な聖なる空間であり時間であるのです。

もちろん、ここだけが特別に聖なる場所であるということではありません。私たちの毎日の生活自体が、御子なる神イエス・キリストがそこに降りてきてくださり、手を伸ばしてその指で触れてくださったがゆえに、そのままで聖なる場所、聖なる空間なのです。私たちは週の初めの日である日曜日にここでそのことを確認し、み言葉に押し出されてそれぞれの持ち場に戻って行くのです。

「教会とは聖徒の群れであって、そこにおいて福音が説教され、聖礼典が福音に従って正しく執行される」(アウグスブルグ信仰告白第七条)。教会は建物でも制度でもありません。信じる者たちの群れ、それは「聖徒」つまり「聖なる者たち」と呼ばれますが、「聖徒の群れ」が「教会(エクレシア)」なのです。「教会」は「教える会」と書きますのが、本来はギリシャ語で「エクレシア」とは「呼び集められた者たち」という意味なので「キリストに呼び集められた者の群れ」という意味です。

本日の使徒書の日課には1コリント15章が与えられていますが、1コリント書は次のような言葉で始まっています。「神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟ソステネから、コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」(1:1-3)。聖なるお方によって召されることによって私たち自身も「聖なる者」とされているとパウロは言うのです。

「説教と聖礼典(サクラメント)」が行われる「聖徒の群れ」が「教会」です。教会の中心は礼拝です。礼拝におけるみ言葉と聖礼典(洗礼と聖餐)を通して、キリストが私たちを「聖なる者」としてくださるのです。主イエスは「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:20)と言われました。二人または三人の小さな礼拝であっても、それは「キリストのエクレシア」「聖徒の群れ」なのです。

教会は毎年11月1日を「全聖徒の日」として守ってまいりました。ルターはその前日にウィッテンベルク城教会の扉に公開討論を呼びかけて95箇条の提題を張り出したと伝えられています。そこから宗教改革運動が始まりました。1517年10月31日のことです。「恵みのみ」「信仰のみ」「聖書のみ」。宗教改革が再発見した三大原理です。神がキリストの信仰において私たちを義としてくださるのです。私たちの側にはそれに価する何らかの功績があるわけではありません。全く無条件無代価で、100%神の恵みと憐れみとによって私たちは救いに与る者とされている。本日私たちは、この教会の交わりの中に与えられていた召天者を覚えることを通し、私たちの上に注がれてきた神の無償の愛と救いの御業、神の恵みを覚えたいと思います。

この礼拝堂は52年前1958年4月に建てられました。その33年前、1925年10月4日に、現在白鷺ハイムのある所に熊本の九州学院から移ってきたルーテル神学校が建てられ、その教室の一室で産声を上げたのが「武蔵野教会」前身の「神学校教会」でした。召天者名簿には237名のお名前がありますが、最初に記されているお名前はM.幸信兄です。1927年12月9日の召天です。教籍簿を調べますとM. 幸信兄は武蔵野教会の前身である神学校教会の初代牧師で、神学校の教授(後に神学校長)であった三浦豕(いのこ)先生の御三男で、一歳一ヶ月で天に召されています。二人目のA.久子姉は、1927年12月1日に沖縄メソジスト中央教会で受洗、1936年5月10日に夫のA. 不二雄兄(1924年12月14日にJELC熊本教会でJ・K・リン牧師から受洗)と共にご夫妻で神学校教会に転入されています。転入して一年半後のクリスマスの翌日、中野組合病院において33歳と10ヶ月で天に召されたのです(1937年12月26日)。

そのように見てまいりますと、この名簿に記されたお一人おひとりのお名前の背後には多くの涙があり別離の痛みがあったことが分かります。そこにはお一人おひとりのかけがえのない人生があった。私たちはこの召天者名簿にずっしりと重たいものを感じます。しかしそれらの方々が背負った重荷、ご家族が背負った重荷を私たちの羊飼いキリストは共に背負ってくださったのです。

「しかし、勇気を出しなさい。」

本日の福音書の日課で主は別離の不安の中にある弟子たちにこう告げられました。

(ここでヨハネ16:25-33を朗読)

この世にどれほど深い苦難があろうとも「しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に対して勝利を得ているのだから」と主は言われるのです。「あなたがたはわたしの言葉によって平安を得なさい、勇気を得なさい」と言われているのだと思います。この声の中に私たちを支える本当の希望があります。16:12-13で主はこう言われています。「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである」。神の聖霊が弁護者として与えられるというのです。神の聖霊が苦難の中にあってもキリストのみ声を私たちに思い起こさせ、勇気を与え、希望を見失わないように導いてくれるのです。

キリストが十字架において成し遂げてくださった勝利が私たちに真の勇気を与えてくださいます。この勝利宣言の声を信じて、すべてを羊飼いキリストに託して、私たちは洗礼を受け、聖餐に与り、この地上の生を終えて、キリストと共に死の門をくぐってゆくのです。「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない」からです(詩篇23編)。237名の召天者の方々の人生において働かれた父と子と聖霊なる神の御業を覚えたいと思います。

聖餐への招き

本日はこれから聖餐式が行われます。聖餐式は終わりの日のキリストの祝宴の先取りであり、前祝いです。この聖卓を中心として、こちら側には私たち生きている者が集いますが、見えない向こう側には既に天に召された聖徒の群れが集っています。キリストの聖卓を中心として天上の教会、地上の教会が共に祝宴に集っているのです。キリストは生ける者と死せる者の両方の救い主だからです。あのステンドグラスに描かれた私たちの羊飼いである主イエス・キリストが、パンとブドウ酒を私たちのためにあの十字架の上に捧げられたご自身の身体と血潮として差し出してくださるのです。この尊いキリストの御愛によって私たちは贖われています。私たちの罪は雪のように白くされているのです。

先週の日曜日の夕方に、市ヶ谷センターで行われた東教区の宗教改革記念日礼拝の後に、10/26に80歳で急性骨髄性白血病のために天に召された市ヶ谷教会代議員、JELC顧問弁護士、ルーテル学院大学理事長を長く務められたI.寛先生の前夜記念式が行われました。私は宗教改革礼拝後の教区長挨拶の中でこう申し上げました。「花の下にて春死なん。その如月の望月の頃」。これはよく知られている西行法師の句ですが、自分の希望を言えば私も聖餐式のある日曜日の前に天に召されたいと願っています。I.先生のご葬儀が聖餐礼拝に続いて行われたことの中に私たちは深い慰めを感じることができたと思うのです。

本日も召天者記念主日として聖餐式を守ります。パウロがローマ書14章で言っているように、私たちは生きるとしても主のために生き、死ぬとしても主のために死ぬのです。私たちは生きるとしても死ぬとしても主のものだからです。生者と死者の双方の救い主であるキリストが私たちに死によっても断ち切られることのない真の絆を与えてくださっていることを覚え、感謝し、神を讃美したいと思います。

「死は勝利にのみ込まれた。
死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
死よ、お前のとげはどこにあるのか。」
(1コリント15:54-55)

お一人おひとりの上に主の豊かな祝福がありますようお祈りいたします。アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2010年11月7日 召天者記念主日聖餐礼拝 説教)