説教 「聖霊と言葉と命と」  森 勉牧師

ヨハネによる福音書 15:26ー16:4a

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

二極の間にある説教

おはようございます。今日はペンテコステの祝日でありまして、むさしの教会の皆様と一緒に礼拝をささげることができまして心から感謝するものです。

わたしは6年前に少し早く、もう65才になった時に牧師を辞めようと思いまして、広島教会の牧師を最後に引退牧師になりました。そのときから、自分の心に決めたことがひとつありました。それは「礼拝説教はしない」ということを決めたのです。なぜかといいますと、若い頃にグスタフ・ヴィングレンというスウェーデンの神学者の説教学という本を勉強したことがあります。そのヴィングレンという人が言うことには、礼拝説教というのは、二つの極の間にはさまれている。ひとつの極は、生ける客観的な神の御言葉であると、もう一方の極は何かというと、これは、大変主観的な生ける会衆がある、というふうに言っているのです。説教者はその二つの極の間にいつもはさまれて、両方から引っ張られて誰がこの務めに耐えうるだろうか、というふうに言っているのです。

ヴィングレンという人はなかなか優れた学者だったのですけれども、わたしはそれを読みまして、「うわっ、これはえらい仕事に就いたな」というふうに思っておりました。それで牧師を引退しましたら、できるだけ早く「説教はもうしない」というふうに決めていたのですけれども、大柴先生から騙されて、お酒を飲みながら「先生、礼拝説教をいっぺん…」とか言われますとね、「ああ、説教なら任せなさい」とか言って軽請け合いをしてしまったわけです。つまり、なぜかと言うと、その時から引退いたしますと、一方の神の言葉はあるのですけれども、生きている会衆がいなくなるのです。ですから、礼拝説教をしても成り立たなくなる、つまり説教は出来ないのです。

ですから、今日も「お話」をするために参りましたので、大柴先生はだいたい大事なペンテコステの礼拝説教をせえ、なんていうことを言うからですね、この牧師は「けしからんなぁ」とわたくしは思っているのですけれども。なぜそんなことを言うかと言いますと、大変大事なことなのです。

わたしはここに来る時に二週間ほど前に大変すばらしい本を見せていただきました。『安らかな死』という本で、むさしの教会のみなさんはお読みになっていると思いますが、田坂宏さんと奥様のことが書いてあって、賀来先生とか色々な方が書いておられます。これをうちの施設のカトリックのシスターが「森先生、これは先生が属しておられるルーテル教会の信徒さんではないですか?」と言って持ってきて、それでぼくは初めてその時「それではちょっと見せて」と言って二週間ほど前にこれを読んで、大変感動したのです。「ああ、田坂さんという人はこんなことがあったんだ」と思いました。そしてこの中に中山さんとか色々なむさしの教会の人々の名前がいっぱい出てくるのです。ぼくはそういうことは何もわからない。そして「礼拝説教をせい」なんて言われても、そんなこと何もわからないで、片方の極の会衆のことがわからなくて客観的な神の言葉をしゃべったらいいということは礼拝説教にならないのです。ですから礼拝説教はしないと思って、今日は「お話」をさせていただきますので、大事なペンテコステの礼拝に「お話」をするということは、もしかしたらぶち壊しになるのかも知れないのですが、少しお時間をいただきたいと思います。

「聖霊と言葉と命と」

今、横浜市の山手町にあります、外人墓地のすぐそばなのですが、カトリック教会のフランシスコ会というところが設立をしました聖母愛児園という児童養護施設の園長をさせられております。なぜルター派の牧師であった者を宗旨変更したわけでもないのに施設の園長にしたのかということについてお話ししますと、これも一つは現代のエキュメニズムという問題にも関わってきまして、非常におもしろい話になっていくと思うのですが、今日は時間がありませんからその話はまた別の機会にしたいと思います。わたしは今ルーテル教会の聖書手帳も持っていないので、カトリック教会に属している仕事をしているものですから、カトリックの日課を見ますと、だいたいルーテル教会もカトリック教会もA年B年C年という3年サイクルの聖書日課というものは同じものが使われております。その中でペンテコステの日の礼拝の聖書の日課だけ、第二の朗読のところは必ずいつも使徒言行録の2章のところが選ばれています。福音書と旧約がA年B年C年で変わって行くのですが使徒言行録の2章だけはペンテコステの日には必ず読むものとして朗読されています。そこだな、ということを思って大柴先生からお電話をいただいて「先生、説教の題を」と言われたものですから、「まだ考えていません」と言っては失礼ですから、「そうですねぇ、『聖霊と言葉と命と』にしましょう」と答えましたので、それに合わせる話をしなければならないというので、切り口をどこにするかということに大変頭を痛めているのです。なぜこの「聖霊と言葉と命」にしたのかということを少しお話しをしておいた方が切り口になるかと感じております。

わたくしは今日もう一冊の本を持ってまいりまして、これは黒川伊保子さんという人が書いておられる『感じる言葉』(ちくま書房)という題の本でありましてエッセイ集であります。黒川伊保子さんという方は奈良女子大を出られて物理学を先攻してコンピュータ関係の仕事を今もしておられるという方です。大変すばらしいエッセイです。ぼくは最近これを読んでおりましていくつかすばらしい言葉を見つけたのです。その中に「言葉は美しい祈りである」ということを書いておられるのです。クリスチャンでもなんでもないのです。だけど「こんな人もおられるのだなぁ」と思いました。それでこの人は人間の脳のことを色々書いています。人間には理性と情緒があり、日本人はとりわけ情緒的な言葉を非常に発するとこの本は書いているのです。ですから、この人は情緒というものをコンピュータで整理できないかと考えて、学問で整理しているらしいです。奈良女子大には音の相と書いて「音相研究所」というのがありまして、情緒的な言葉を分類している音相辞典というのを出しておられる先生らしいのですが、そういう言葉、ひとつの言葉は祈りであるということを教えてくださった黒川さんの本なんかを読んでおりまして、それで説教の題をつけてしまったのです。大変無茶な題をつけたなぁと今思っております。

それからもう一つは、最近読んでおります本でみなさんもご存じかと思いますが池田晶子さんというこれも女性の方です。この人は慶応大学の哲学科を出られて、色々な本をたくさん書いております。『ソクラテスの妻』などを大変分かりやすい哲学の本を書いておられるのですが、この人がやはり『当たり前のことばかり』という本を書いているのです。その中に「言葉は命である」とあるのです。何を書いているのかなと思いまして見てみますと、ヨハネによる福音書のことを書いているのです。言葉の問題、言葉は人間の命に関わるということ、それから魂や霊、そういうところにつながるというような本を読んでいたものですから、「聖霊と言葉と命」という題にしました。やはりペンテコステということを考える時にわたくしどもは聖霊と言葉と命というものがどういうふうにつながっているのかということを考えなければいけないだろうと思うわけです。

向こう側からやってくる霊

聖書という書物には、言葉にまつわる話がいっぱいあります、そして命にまつわる話も。これは聖書の一番最初から終わりまでそのことが書いてあります。神様の言葉によって人間は創られたということが書いてあります。神様は、創世記の第二章のところを見ますと、その人間に命の息を吹き入れたら人間は生きるようになった、ただ単に生きるわけではないのです。神様の霊を、息をいただいたら人間は生きるようになった、と聖書には書いてあるのです。そして聖書を見るとすぐバベルの塔の物語があって、今度は言葉が乱されて人間は世界中に散らされて、言葉が通じなくなってしまうということが書いてあります。それで、イエス様がおいでになってまた聖霊を与えるというふうにして人間をもういっぺん生かそうと、交わりを回復させようと、そういうようなことが聖書の中には書いてあります。

この池田晶子さんという哲学者の方はですね、この方の本を見ていると大変おもしろいことを言っているのです。霊と魂というのは、自分の感覚ではなく、向こうからやってくる、決して自分の内から出て行くものではない、向こうからある日突然やってくるということを書いているのです。何か明治神宮の外苑の付近をマラソンをして走っていたら、考えながら走るんだそうですが、その時にふっと霊が向こうから突如として自分の中にやってくる、そういうことを書いているのです。今日の聖書の箇所を見ますと、聖霊降臨の出来事が書いてあるのですが、聖霊というのは、一人ひとりの上に分かれて現れて一人ひとりの上にとどまったとあります。つまり向こうからやってきてわたしどもの中に神様は聖霊を与えられる、そういうことが起きている。そしてその聖霊が与えられた時に何が起こったかと言いますと、みんな自分の故郷の言葉をしゃべりだした、つまり故郷の言葉をしゃべってみんなあっけにとられているのですけれども、しかしそれで言葉が通じるようになった、そして言葉が通じるようになったことによって人間には交わりが回復していく、そして教会が生まれて行く、そういう聖霊降臨のすばらしい奇跡がここに書いてあります。

今私が関わっている仕事について

今わたしは先ほども申しましたように、横浜市にあるカトリック系の児童養護施設の園長をしておりますが、毎日80人ぐらい、ほとんど大部分の子供たちは女の子ばかりですから大変楽しいです。2才から18才までの主として色々な事情で家庭で子育てができない子供たち、親に育てられない子供たちをお預かりして24時間、家庭に代わって教育をしている施設です。

ここでですね、毎日ぶつかる子供の言葉というのがあるのです。それをちょっと御紹介しておきましょう。毎日ぶつかる子供の言葉….「触んじゃねえ」「ばか」「死ね」「てめえ」「ふざけんじゃねえ」「うるせえ」「オレばっかか」「ボコボコにしてやる」「ぶっ殺すぞ」「人殺し」….そういうふうな言葉が子供たちの間で行き交っているのです。そういう言葉を聞きますと、こちらが心を痛むのです。それで注意をしますと「うるせえ」と言われます。仕事を何か頼みますとすぐ「いやだねったらいやだね」と、そういうあのコマーシャルの言葉を使って答えるとかいうことです。

色々な事情をもって来ていますから、子供同志で暴言も吐きますし、暴力も使います。そういう事情や理由というのはいっぱいあると思いますね。多いのは離婚です。それで子供をどちらかが引き取らなければいけない。どちらかの親が引き取っても自分の生活がありますから仕事をしなくてはいけないというようなことで養うことができないという子供たちがやって来ます。それから、この頃も新聞によく出ています、あるいは報道でもあります親の虐待という問題で子供たちが施設に入ってまいります。今これは病院とか、となり近所の人が通報しますと児童相談所はその件に限ってだけ警察と協力しながら家庭の中に入り込んで行きまして強制的に親子を分離させて、うちの施設に入れてまいります。それから暴力団関係の人たちの子供なども来ます。それから薬をやった親の子供たちも保護されてやってまいります。そういう中ですから、言葉が乱れてしまって本当に聞くに耐えない言葉を子供たちは使っています。今は男の子はいないんです。小学校1年生が一人いるだけですが、あっ、男の子も一緒に入れた方がいいなと言って今男の子を入れる算段をしているところなのですけれども、男の子を入れると女の子は大人しくなってくるそうですね、男の子がいるようになると。女の子ばっかりいるから余計悪くなっているというところもあります。そういうところで生活をしておりまして、子供の言葉が本当に乱れている、この子供は朝から職員が色々なことを言うわけですけれども、

これは日常のきわめて小さなことを注意したりするのです。「早く起きなさい」と、それから「顔を洗いなさい」「学校に遅れるよ」とか「歯磨きしなさい」とか、そういうことを注意していくだけです、生活のパターンですから。だけどそれを聞いた子供たちは、それですぐドアを蹴飛ばすとかそういうことが出てきます。そうすると仲介に入っている職員は子供たちの攻撃を受ける。高校生になると大きいですからね、短大を卒業して入ってきた保育士ぐらいですと2才ぐらいしか違わないのです。ですから髪の毛を握って取っ組み合いをやっていますから、ごろごろ転びながら。先生たちもなかなか大変だと思います。

だけどぼくは言葉が通じるということはどういうことか、通じないというのは何なのかと、一番もとをズーッと探って行ってごらん、というようなことをいつも職員に言うのですが、こういう言葉を言うときりがないのです。毎日こういうことにぶつかっているのですから。ですから、職員たちに、「10回起こしても起きなかったら11回言ってごらん」「20回言ったら21回言ってごらん」と言うのです。限りがないのです。「どこまで待てますか?」と「どこまで待てばいいのですか?」と職員たちは聞くのです。だから「死ぬまで待ってください」「あなたの忍耐は死ぬまでできるかな?」と言うのです。「誰がですか?」と言われて「あなたが」とこちらが言うと「わっ、わたしなんかそういう仕事をしにここに来たのではありません」と言う、そういう職員たちを励ましながら取り組んでいるのです。

とにかく子供を理解するということは、アンダースタンド(under-stand)ということは子供と同じ地平に立つこと、上に立って何か言うことではない、子供は何を考えているのか、何を言おうとしているのか、そのことをよく考えてごらんなさい、というふうなことを言っておりますが、まあこれも大変な仕事だなあと思いつつ、ぼくはいつも先生たちに感謝していますよ、拝んでいますよと言っております。

聖霊の働きと言葉の回復

ですから言葉の回復というのは今の時代はなかなか難しくなってきていると思います。やっぱり神様から聖霊をいただかないとこれはできないな、というふうな感じでおりますが、聖書を見ておりますと、そういう場面にいつもぶつかるのです。

よく復活節の間は復活のところの聖書の箇所が選ばれると思うのですが、ペンテコステが来まして、今日は聖霊降臨日で使徒言行録の2章が読まれてます。使徒言行録というのはルカという人が書いております。それでルカによる福音書も同じルカが書いているのです。だからルカの復活の記事のところを読みますと、一番好きなところはあの24章にエマオに行く弟子たちにキリストが現れて、同じ宿屋に泊まって、そしてその時にキリストが晩御飯を一緒に食べて、パンを割いて与えてくださった時に御姿が見えたということが書いてあるのです。その箇所は大変すばらしいところだと思うのです。レンブラントの絵にもこの箇所の絵があります。キリストの御姿が見えるところの絵があるのです。だけどぼくは聖書を読みながらいつも思ったのは、聖書はパンを割いてキリストがお渡しになった、すると二人の目が開けイエスだとわかったが、その姿は見えなくなったというふうに聖書は書いてあるのです。ぼくはここを読んだ時に、何でいっぺん見えたのが見えなくなるのか、ということを問題に考えました。

これは何でだろうというところを同じルカが書いた使徒言行録にいきますと、聖霊降臨の記事が出てくるのです。見えたイエス様が見え続けるということはどういうことか。それからそのエマオにいる二人の弟子が道々聖書を説いてくださった時とか、パンを割いてくださった時は、私たちの心は内に燃えたじゃないか。内に燃えてどうして燃え続かないのか。じつはわたくしどもはそういうところがあるのですね。若い時はあんなに熱心で一生懸命やっていたのに、もう今は冷めてしまいましたとか、何で燃え続けてずーっとイエス様に従って行けないのか。ぼくにとってはそこが一番問題だったのです。信仰というのは、信仰の持続性というのはどうしてなのか。この持続というのは自分が熱心にがんばれば持続するかというものではないのです。これはやはり聖霊が使徒言行録にあるように一人ひとりに分かれて、向こうからやってきて与えられる。神様の聖霊がわたくしどもにイエス様を見続けるようにさせる。わたくしどもの心を内に燃やし続けてさせてくださる。それが聖霊の働きなのです。それが向こうから与えられていく時にわたくしどもは立ち上がって行くことができるし、言葉を交わして行くことができるし、命を与えられて行くことができる。これが聖霊降臨ということの本当に大事な意味だと思います。だから、御霊よ来てください、と言うのです。

わたくしどもはそこでいつも考えなければいけないのは、わたくしどもの信仰を燃やし続けるもの、持続させるもの、それは決して自分ではないのです。自分が熱心にやっていたら続くかというとそういうものではない。そうではなくて、わたくしどもが与えられる聖霊によってわたくしどもは燃やされる。信仰というのもわたくしどもが信じる、熱心な力が続けるのではないのです。

聖書を読んでみられると、英語でいうとFaith in himといつも教えています。「彼の中にある信仰」、信仰というのはFaith in meではないのです。わたしの中にある信仰がわたしを強めたりしていくのではなくてFaith in him、神様の中にある信仰、つまりわたしの信仰ではない神様の信仰、イエス様の信仰、イエス様がぼくを信じてくれているという信仰なのです。イエス様がです。それが大事なのです。それを聖霊というのはわたくしどもに教えてくれるのだと思います。

ですからわたくしどもは昔の初代の教会の人がいつもよく歌ったのは、「主よ、聖霊を送ってください」「聖霊よ、来てください」そういう祈りをもっていくことが大事だというふうに考えます。皆様の上に一人ひとりの上に、神様の豊かな聖霊がいつも注がれていることをお祈りを致します。

祈り

それでは、お祈りをしましょう。

天の父なる神様。むさしの教会の礼拝を共にすることができて感謝致します。聖霊なる神様。わたくしどもにいつも来てください。そしていつもわたくしどもと共にいてくださり、わたくしどもを燃やしてくださり、わたくしどもを、主をいつも見ていくことのできる信仰を与えてください。それによって力強く立つことができますように。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。

(2003年6月8日  聖霊降臨日聖餐礼拝説教。テープ起こし:後藤直紀、文責:大柴譲治)