説教 「キリスト者の自由」 大柴譲治牧師

ガラテヤの信徒への手紙 5: 1- 6

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

全聖徒の日を迎えて

本日私たちは全聖徒の日、召天者記念主日を守っております。教会は毎年一回、11月1日に全聖徒の日(英語ではAll Saints Day。日本語では「諸聖徒記念日」とも呼ばれる)を守ります。これはカトリック教会では緒聖人を覚えて祈る日ですが、プロテスタント教会では堅く信仰の歩みを貫いて天へと召された信仰の先輩たちを覚えて祈る日として守られてきました。

私たちの教会は1925(大正14)年10月4日に神学校の寄宿舎の一室で礼拝を守り始めてから既に78年を越えました。この間、神学校教会からむさしの教会へと礼拝堂と名称が変更になりましたが、本日の週報には召天者名簿には180名の方のお名前が記されています。また、前には召天者アルバムが置かれています。そこには元会員や客員、会員のご家族の方などのお名前もありますので、すべてがこの教会の会員というわけではありませんが、それらはこの教会と何らかの関わりをもってきた方のお名前です。

ちょうど90番目にあるのがヨハンナ・ヘンシェル先生で、ヘンシェル先生は1987年11月24日に天に召されました。80番目は初谷さんの奥様のT.H.さん(1984年2月9日)、100番目は杉谷さんのお義母様のN.S.さま(1989年8月1日)、110番目は間垣洋助先生(1990年10月19日)など、古くからのメンバーの方にはよく知られている方々のお名前が並んでいます。180名の方々のうち最近10年に天に召された58名の方々のお名前を教会の祈りの中で覚えて祈らせていただきます。そのうちの41名の方は私が6年と2ヶ月前にこのむさしの教会に着任してから天に召された方々です。私自身がご葬儀を司式させていただいた方もあれば、他のかたちでご葬儀を営まれた方もおられます。お一人おひとりについて私たちには深い思いが湧いてくると思います。

いずれにせよ、召天者の方々を覚えるということは、この教会という場所の特異性を覚えるということでもありましょう。この場所では、今は主日聖餐礼拝が行われていますが、先日はジャズコンサートが行われましたし、その前には施設検討に関する公聴会があり、洗礼式があり、真下さんご夫妻の結婚式がありました。今度は16日に子供祝福式があって、続いて24日にはバザーもあります。30日にはアドベントにちなんで、クリスマスツリーとアドベントクランツがセッティングされますが、礼拝と礼拝後には西恵三先生(東京女子大学理事長、東京大学名誉教授、保谷ルーテル教会員)による星についてのメッセージがあります。そしてクリスマス、新年、教会総会と続きます。様々なことがこのステンドグラスの前で、十字架と聖卓の前で行われてゆくのです。それは私たちの生活のすべてがあの私たちの羊飼いなるお方のまなざしの中に置かれている、そして神さまの愛のみ手の内に置かれているということを表しています。

特に召天者の方々を覚えるとき、この教会はこの聖卓、すなわち主の聖餐のテーブルが中心に置かれていますが、この食卓のこちら側には私たち生ける者が集いますが、見えない向こう側には既にみ国に召された聖徒の群れが集っているということの大切さを思います。キリストは生ける者と死せる者の両方の救い主ですから、そのように考えてよいのです。この恵みの食卓は終わりの日のキリストの祝宴(セレブレイション)の先取りです。ヨハネ黙示録21章には「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(3-4節)とありますが、まさに時間も空間も私たちの命もすべては神さまの被造物であり、死によって私たちはそれらの枠組みから解放されてゆくのです。

最も大切なことはキリストとつながること

本日の福音書でイエスさまはぶどうの木のたとえを用いて言われました。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」と(ヨハネ15:5)。イエスさまはまことにたとえの天才です。ぶどうの木と枝の比喩は一度聞いたら忘れることのできない話であったことでしょう。これ以上明快で印象的なたとえはありません。

枝は幹とつながっていなければ栄養を得ることはできません。つながっていることが大切なのです。そして管を通して栄養分が隅々にまで行き渡ることが大切です。人間の場合にも血管が詰まってしまうと大きなダメージを受けてしまうように、ぶどうの枝も幹とつながっていてもそこで管が詰まってしまい、幹から栄養分や水分が送られてこなければそれは枯れてしまいます。

私たちがこの人生を生きてゆく上で、私たちにとって最も大切なことはキリストとつながり続けるということなのです。先週は宗教改革記念日礼拝を守りましたが、ルターがパウロに戻ることでもう一度事柄の重要性を明らかにしたように、私たちが神の恵み、神のみ言葉に立ち続けることが大切なのです。山上の説教の中ではイエスさまはこう言われました。「野の花、空の鳥を見よ、蒔きもせず紡ぎもしないが天の父なる神はこれを養っていてくださる。あなたがたは鳥よりも価値ある者ではないか」と。「だから何を着ようか何を食べようかと思い煩うな。あなたがたに必要なものはすべて神さまはご存知である。ただ神の義と神の国を求めなさい。そうすればこれらのものは加えて与えられるのだ」と(マタイ6:25-34)。また、忙しさの中で自分を見失ったマルタに向かって言いました。「なくてならぬものは多くはない。いやただ一つだけだ。マリアはそのよい方を選んだ。それを取り上げてはならない」と(ルカ10:42)。

大切なことはそのように語ってくださるイエスさまとつながり続けてゆくことです。イエスさまを通して私たちたちが生きてゆくために必要なエネルギーと知恵と導きとが豊かに与えられるのです。だから心配はいらない。私たちが今日、覚えている召天者のお一人おひとりは、あのステンドグラスに描かれた羊飼いキリストにつながって生き、つながって死んでゆくことの大切さを私たちに示しています。イエスさまは愛する兄弟ラザロを亡くして涙にくれるマルタにこう言いました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者はたとえ死んでも生きる。また生きていてわたしを信じる者は、決して誰も死ぬことはないのだ」と(ヨハネ11:25-26)。

赤ちゃんとお母さんとの関係

4節の言葉は私に赤ちゃんとお母さんの関係を思い起こします。私たちに対するイエスさまの深い愛情を感じるのです。イエスさまはそこではこう言っておられます。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」と。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」。これは赤ちゃんがお母さんに向かっておぼつかない手を伸ばしてお母さんの体に触れようとする。それを知ってお母さんは赤ちゃんに声をかけて、しっかりと温かくその手を握りしめてゆく。そのような情景を感じます。

私たちはイエスさまに向かって手を差し出していってよいのだと思います。その手をしっかりとイエスさまはつかんでくださる。そして決して離すことをしないのです。あの羊飼いは迷子になった羊を見つけ出すまで捜し歩いてくださるお方です。そしてその小羊を胸にしっかりと抱いてくださる母のようなお方なのです。「あなたはどこにいるのか」と言って名前を呼びながら探し歩いてくださる姿は、あのアダムとエバが禁断の木の実を取って食べたあとに神の足音を聞いて物陰に隠れる場面をも思い起こします。失われた人間の魂の在り処を一生懸命心配して探し求めてくださる神。それは聖書の一番最初から一番最後まで貫かれている神の愛の姿なのです。迷子になった子供を必死になって探す母親のような神さまの熱く深く豊かな愛がそこにはあります。これが私たちを生かすものなのです。私たちはそのような主の豊かさにつながっているのです。

聖餐への招き

本日は全聖徒の日ということでこの10年の間に天に召された方々のご遺族にご案内を差し上げました。何組かのご遺族が礼拝に出席されています。

愛する者との別離の痛み悲しみや自分自身の死を考える時の不安や恐怖。死と向かい合う時、私たちは自らの有限性を痛いほどよく知らされます。しかし死というものは、そして別離というものは、およそ生きとし生ける者には逃れることのできない必然なのです。

しかし、私たちキリスト者には二つの意味で慰めがあり、希望があります。一つは、どんなに愛する者との別離が悲しく寂しくても、出会うことができてよかったという次元がある。そのような出会いを備えてくださった神さまに感謝するという次元があります。もう一つは、再会の希望です。キリスト者にとって、主がご復活されたように、死は終わりではない。死の向こう側に命が待っているのです。神自らが人と共にいて、その神となり、私たちの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる時が来ると黙示録に約束されている通りです。「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」世界が来るのです。

只今より聖餐式に与ります。パンとぶどう酒をお渡しすることができるのは洗礼を受けた方だけですが、洗礼をお受けになられていない方々にもぜひ前においでいただきたいと思います。祝福を差し上げたいと思います。私たちが愛する召天者の方々が集っているこの天の祝宴に近づいていただきたいと思います。

お一人おひとりの上に神さまの豊かな慰めと支え、そして導きがありますようお祈りいたします。また、天上にあって神を讃美し、地上に残された愛する者たちのためにとりなしの祈りをささげておられるであろう召天者の上に、神さまの豊かな祝福を祈ります。ご一緒に讃美歌298番「やすかれわが心よ」を天上の聖徒の群れと共に声を合わせて歌いましょう。 アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2003年11月02日 召天者記念主日聖餐礼拝説教)