説教 「復活の主の平安」 ジェフリー・トラスコット牧師(通訳:大柴譲治牧師)

ヨハネによる福音書14:23-29

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

「さようなら」と「また会いましょう」

私たちは皆、「さようなら」を言うのが嫌いです。その理由はなぜかというと、友達や家族から長く離れるというのは大変辛いものだからです。それはその人にとっては死に等しいかもしれません。その苦痛を乗りきるために私たちが行う一つの工夫は「さようなら」と言う代わりに、「また会いましょう」と言うことです。「さよなら」という言葉があまりいも最後でまた永続的に思えるので、そう告げることはさらに辛いのです。「また会いましょう」というのは分離の苦痛を少しは癒してくれるのです。

私はまもなく四年間教えた日本ルーテル神学校に分れを告げなければなりません。私は日本福音ルーテル教会の神学校に仕えることができたことを幸いに思いますが、同時に私の友人や同僚たちとお別れしなければならないことを辛く思います。

私はこのむさしの教会でも説教し、皆さんとお知り合いになることができたこのような機会を喜んでいますし、同時にシンガポールのトリニティー神学大学で牧会現場に出てゆく学生達のために、シンガポールのルーテル教会のために仕える機会が与えられたことを同時に喜んでいます。

主の昇天にあたって

この木曜日は主の昇天日です。私たちはイエスの昇天を彼が弟子たちを去ってゆく出来事として考えることができましょう。本日の福音書の日課はお別れの挨拶のように響きます。イエスは彼の死と復活、そして天への昇天の前に最後の祝福を弟子たちに与えているように見えます。

実は本日の福音はイエスの弟子たちへの「さよなら」でも「また会いましょう」でもないのです。注意深くイエスさまが語るのを聞きましょう。「わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る」。「わたしはあなたがたところへ戻ってくる」という宣言は正確に聖霊を送るということへの言及です。イエスは弟子たちと私たちのところに聖霊として来ることを約束しているのです。ですからイエスは去って行くのではなく、ただ別の新しい仕方で臨在することを約束してくださっているのです。本日の福音書の日課によると、イエスが聖霊を送ると弟子たちは信じることができるようになるのです(29節)。聖霊の力づけを得た信仰を通して、キリストは洗礼を受けたすべての神の民のただ中に臨在しておられるのです。

特に、聖霊は私たちに十字架についての真実を信じるものとしてくださるというのです。つまり、イエスが十字架によって罪と死に打ち勝たれたということを。聖霊は私たちにイエスの十字架が私たちを父へと和解させ、私たちを罪の呪いの対象とはみなさないということを理解することができるよう私たちを助けてくれるのです。それゆえ、私たちは神に対して平安であることができ、イエスがそうであったように、神に仕えることができるようになるのです。それが起こる時、イエスは信仰によって私たちの中に来て住んでくださいます。エフェソ人への手紙がこう言っています。「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように」(3:16-17)。

「祝福の基」として

聖霊はまたキリストが信仰者の交わり、すなわち教会において住み給うことをもたらします。イエスの昇天後に私たちは教会はキリストの身体となったと言うことができるようになります。それゆえ聖パウロは次のように言うことができました。「つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。」(1コリント12:13)。キリストの霊に満たされた身体として、私たちはこの世の中でキリストのミッションを行い続けてゆくのです。

よみがえられたイエスが弟子たちに言われた言葉を思い起こしてみましょう。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒言行録1:8)。キリストは聖霊によって私たちの内に住み給い、キリストのストーリーを他者と分かち合うために私たちを強めてくださるのです。私たちは聖霊の賜物によって祝福されているので、アブラハムのように、他の人々に対して「祝福の基」として用いられてゆくことでしょう。

そのようにキリストは私たちから不在ではないのであり、私たちの一人ひとりの心の中に住み、私たちの交わりのただ中に住んでいてくださるのです。この事実が私たちにとっての大きな確証です。

復活の主の平安

私たちはキリストの「平安」を持っているということを知ることによって確証をいだいています。イエスは言われました。「わたしの平和をあなたがたに残して行く」と。主の与えてくださる「平安」とは、単なる「平静さ」や「静かな心」という意味ではなくて、それ以上のものです。聖書では「平安」、ヘブル語では「シャローム」ですが、それは全体(として損なわれていないこと)、よい状態、または可能な限り最善の人生を意味しています。それはまさにイエスが十字架の上で私たちのために獲得してくださったものなのです。つまりそれは、罪と死、悪魔によっても決して壊されることのできない命であり、別の言葉で言えば、永遠の生命です。

イエスの「平安」を体験するということはやがて来る神のみ国を体験するということであり、そこでは、先週私たちが第二聖書日課で聞いたように、「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」(ヨハネ黙示録21:4)のです。私たちが聖なる主の食卓に与り、主の愛と許しをいただく時にはいつでも私たちは永遠の生命に参与しているのです。

私の友人がある時に皮肉っぽくこう言ったことがありました。「礼拝の終わりにロウソクの光が消される時は、多くの人が神さまに『それでは一週間、さようなら』と言う時なんだ」と。あたかも神について考えるのは日曜日だけであるかのように!

イエスの神は私たちに決して「さよなら」とは言いませんでした。先週の第二日課で聞いたように、神は私たちの間に幕屋を設けて共に住んでくださる神なのです、今もまたとこしえまでも。キリストは聖霊の力によって私たちと共に住んでくださいます。キリストの平安の賜物は、十字架によって可能とされた新しい生命ですが、常に私たちのものなのです。

それではごきげんよう、私の友である皆さん。そしてキリストの平安が共にありますように。

おわりの祈り

祈りましょう。

主なるイエスさま。あなたは十字架と復活とによって死の力を打ち砕いてくださいました。そのことを感謝いたします。あなたが私たちと日々共にいてくださることを覚え讃美いたします。私たちはあなたの平安に与ることができますことを喜んでいます。願わくはあなたの聖霊が常に私たちに信仰と希望と愛とを満たしてくださいますように。そしてついには私たちを父と聖霊とがただ一人の神としてとこしえに住み給う天のふるさとにあなたご自身が導いてくださいますように。アーメン。

(2004年5月16日 復活後第五主日礼拝説教)

(ジェフリー・トラスコット牧師は、アメリカ福音ルーテル教会より派遣された宣教師で、ルーテル神学校教授として4年間礼拝学を教えた。2004年7月よりはシンガポールにあるTrinity Theological Collegeで教鞭を取ることになっている。礼拝学博士。)